26.背信
「おやおや、またお客さんか。今夜の至誠塾は千客万来だな」
確かに提灯を一つ足元に下げた男が、足早に歩いてくる。
「あれは、御前試演も見に来ていた、確か大政局の偉いさんだぜ」
リュウトが言った。
「そう言えばそうだな。大政局が何の用だ」
エイキが応じて立ち上がる。
「エイキ君も皆さんも、失礼なことがあってはいけませんよ」
シセイ先生とカイ先生も立ち上がった。リュウトも門に向かおうとして、ジンに袖をつかまれた。ジンの顔は、先ほどまでの穏やかで幸福そうな表情が消え去り、血の気が引いて蒼褪めた顔は、何かに怯えたように今にも泣き出しそうな風に歪んでいる。
「ねぇ、リュウト、君は、もしかして、念剣が使える。そうだね」
ジンは掠れた小さな声で尋ねた。リュウトの顔からすっと表情が抜け落ちた。
「なぜ、分かった」
リュウトは囁いた。
「あれぐらいの灯りで、シンタ様を見分けたから。それで思い出したんだ。前に月の隠れた夜道で、君は声をかけてきた。見えるはずがないんだ、念剣を使えない人の目では」
リュウトは顔を伏せた。
「なるほど、うっかりしてたよ。気をつけていたつもりなんだがな。ふふ、何だ、その顔は。おまえ、分かったのはそれだけじゃないな」
ジンは唾を飲み込んで頷いた。
「君がやったんだね」
「何を、かを言えよ」
「あの日、カイ先生は念剣演舞の受講者に欠席者はいなかった、とエイキ様に言ってる。でも君は受講者のうちに入っていない。闘技は受講してるけど、演舞は聴講しているだけだから、必ずしも毎回出席はしていなかった、今までも。だから、あの日君がいなくても不審に思う人はいないし、道場のそばにいても不自然じゃない。君なら組演舞での立ち位置も覚えられるし、イッキ様の癖も見抜ける。君は足元の格子窓の前に鏡を置いた。位置は分かってる。あの時間なら鏡が置かれていても、陽の光は鏡に当たらないから。そして、君はイッキ様の掛け声で組演舞の流れを掴んでいた。組演舞は位置も拍子も決っている。どこで静止して、どこで念剣を打ち合うか。あとは、一瞬、念剣を輝出させればいい。光が鏡に反射してエイキ様の目を襲う。そこに念剣が振り下ろされる」
「お見事、正解だ。我ながら名案と思っていたんだが。まぁ、うまくいけば、ぐらいの確率ではあったんだけど。そういう欲をこいたことやっちゃいけないな、やっぱり。せっかくうまくはまった、と思ったのに、エイキを殺しそこなった挙句、おまえごときにまで見破られるとはね」
リュウトは顔を上げた。その顔に見たことのない冷たい薄笑いが貼りついているのを認めて、ジンは思わず後ろに下がったが、それでもリョウトの膝が腹に食い込んでくるのを避けることはできなかった。ジンは仰向けに倒れながらも、とっさに転がって間を置き、次の一撃に備えた。が、リュウトはジンに背を向けたかと思うと、そばに居た子供の首をひっかかえて、喉元にいつの間にか手にしていた短刀を押し当てた。
「やめろっ」
ジンが叫んだ。その声にエイキたちが駆け戻ってきた。シセイ先生が厳しく叱咤する。
「リュウト君、何をしているのです。落ち着きなさい」
「落ち着いてますよ。先生の方は慌てた方がいいと思いますがね。あなたの叛乱計画は全て、大政局支局まで届いてますから」
「私は叛乱など計画したことはありません」
「どうでしょうね。とにかく悠国の地図上で戦闘を想定した作戦図がありましたからね」
「それは兵学を検討する為の資料でしょう。リュウト君も熱心に議論していたはずです」
「おやおや、僕まで叛乱の一味に引き込まないで下さい」
「見苦しい真似はよしなさい」
と入ってきたシンタがたしなめる。
「各国の有為の士を貶めるような真似をしても、太皇国の明日が貧しくなるだけです」
「おやおや、日和見派のシンタ様ですか、お初にお目にかかります」
リュウトは口を歪めた笑いを浮かべたまま嘯いた。
「義職筆頭の直々のお出まし、ご苦労様でございます。心より敬意を表させて頂きますが、あいにく指揮系統が違いますもので、ご指示には従えません。ご了承下さい。それでは失礼して庭の方から帰らせて頂きますよ。おっと、妙な動きはしないで下さい。こんな何処にでもいる貧乏なガキ一匹でも、あなた達は見捨てられないでしょう。いいですねぇ、その甘さが。その甘さがこの餓鬼と僕の二人を救うわけですから」
リュウトは後ずさりしながら距離を取る。その背後から、飛び込んできたのはユウカだ。
「逃げてっ」
体当たりでリュウトの姿勢を崩すと、子供を突き飛ばしながら前に立ちはだかり、真っ向から念剣を輝出させようとする。
「無駄だ」
リュウトは手刀で念筒を弾き飛ばし、手首を捻り上げてユウカの首筋に刃を当てる。
「だから、念剣なんて無駄なんだ。使う前に間が空きすぎる。こんなもんは悠国みたいな田舎でしかありがたがられないのさ。俺はこんな田舎臭い人間に染まりたくなかったから、念剣を封じてたんだよ。ほら動くなよ。人質が餓鬼から女に替わっただけだ」
「離しなさいよっ、ヒッ」
暴れようとしたユウカの首筋に刃が滑り、血が滲む。
「脅しじゃないんだよ、お嬢さん。俺も生命がかかってるんでね」
「やめろ、リュウト」
ジンが叫んだ。
「そんなことしたって、君が大政局に重用されるわけないことぐらい分かるだろう。人殺しまでして見合う見返りなんて、あるはずがない。君は利用されてるだけだ。まだ間に合う。ここに居るみんなが許せば、何もなかったのと同じにできる。考え直せ」
「あぁあぁ、中でも一番甘い奴の言い出しそうなことだ。考え直せだと。そっちの朱家の大将が、そんなことを許すはずがないだろう。俺はな、おまえの甘ったれた面を見てると、むかむかしてくるんだよ。だからわざわざ、エイキを斬る役にお前を選んでやったんだ。大政局の目障りな跳ねっ返りと、俺の目障りな坊ちゃん面をいっぺんに始末できるからな。なのに土壇場でしぶとく生き残りやがって、挙句に今度は念剣闘技で一席だと。ことごとく気にいらねぇ」
「リュウト…、君を気の合う友達だと思っていたのに」
「よしてくれ。お前となんか気が合うわけないだろう」
心底うんざりだという顔で嘲る。
「こっちは本物の親には捨てられて、冴えない俗物に親面されて、恩着せがましいことを言われ続けて。たとえ俺にどんな力があろうと、この国じゃ金輪際、絶対に浮かび上がれない。すり切れるまで使われて使い捨てだ。しかも俺の力が活かせるような機会にも巡り会わないままな。それに比べておまえはどうだ。今は商家とはいえ仮にも元は悠国四宮の白家の血と、太皇室に縁のある女の血をひいて、何不自由なくお気楽に育てられて。とことん恵まれているくせに、しみったれた店一軒を継ぐことしか頭に無い。こんな覇気のない奴も珍しいぜ。おいおい、動くなってんだろ」
ユウカが首筋の刃も忘れたようにもがいた。
「ジン、こいつ斬って。こんな奴、ほっといたらまたロクでもないことするんだから」
「うるさい女だな。少し静かにしていろ」
リュウトは素早く当身を喰わせ、ユウカの身体から力が抜けた。
「ユウカっ」
ジンが叫んで飛び出そうとするが、
「近づくな。この女を刻むぞ」
と怒鳴られて足が止まる。代わりにエイキが飛び出そうとして、カイ先生に抑えられる。
「やめなさい、今はユウカ殿の命が最優先」
ジンはエイキの顔を見た。エイキもジンの目を見詰めながら言った。
「あいつはおまえを憎んでいる。あの女がおまえにとって大事な人間だということも知っている。だとすれば、逃げ切れないと悟った時には、必ず女を道連れにするぞ」
ユウカを抱えたリュウトは、後ろに視線を配りながらも、どんどん遠ざかっていく。
ジンは無言のまましばらく立ち尽くして、ふと気づいてしゃがみ込み、足元に転がっていたユウカの念筒を拾った。ジンの作った竹筒の念筒。
「ユウカを、助けます」
竹筒を持ってジンは走り出した。すぐにリュウトが気づく。
「おい、この女、どうなってもいいんだな」
リュウトは向き直って短刀を振り上げた。まだ五十歩以上の距離がある。
その時ジンの右腕がどくりと大きく脈打って、腕全部が念剣と化したように感じた。腕が熱そのものになる。
「ユウカっ」
叫びながら衝動に任せてリュウトに向かって右腕を振りぬいた。右腕いっぱいに溢れかえっていた熱が、竹筒を握り締めたままの掌に殺到し、瞬間、竹筒が鮮やかに輝いた。
碧色の閃光が竹筒から迸り、空を駆け抜けてリュウトの手首を襲った。
「キヒィーッ」
奇妙な叫び声を上げてリュウトが転がる。その右手には短刀は無く、切り裂かれた手首から血が噴きこぼれていた。見届けたジンも枯れ木が朽ちるようにどさりと倒れた。




