20.友との酒宴
ジンが家に戻ると、今度はユウカが待ち構えていた。
「テツが辞めたわ」
「そうか。とうとう、か」
あの夜に決意を聞いてから、それはもう分かっていた。テツは時期を選び、無理な話なりに親と講師に打ち明けて筋を通し、後の身の振り方も決めてから辞めたのだ。ユウカはその間、ずっとテツを助けていたようだった。
「今日、深草の小父様がお詫びにいらしたの。テツを籍から外したので、婚約の件は破棄させて欲しいって。事情を知らなかったウチの親は大騒ぎしてたわよ」
ユウカは笑ったが、その笑い声は寂しげで、いつもの弾けるような勢いがなかった。籍から外されたといことは、テツはこれで深草の姓を失い、無宿無姓のテツとなったわけだ。これも分かっていたこととは言え、現実となると胸に重い。
「で、テツはどうしてる」
「二日前から栄町の宿屋にいるわ。あそこに、あたしの妹分でミユって子の家があるの。だからワケありってことで頼み込んで、しばらく居候させてもらってるのよ」
「栄町だと。また、えらいところに連れ込んだな」
ジンは驚いた。栄町と言えば、悠国きっての色街である。
「あの辺りは飲み屋も多いし、芸者遊びもやるでしょ。琴や笛で稼ぐのに丁度いいのよ。だって、今、テツは無一文なんだから」
「なるほど、大変だな」
上品でおっとりしたテツと色街という組み合わせはどうにも想像がつかないが、この先無宿人として生きていくテツにとって、確かに盛り場は生活の場になるに違いない。
「大丈夫。テツみたいな純情そうな優男は、あの街の女にはすっごくもてるの。ミユからしてもう大騒ぎで、ユウカさんの男じゃなかったら、絶対手を出してます、ですって」
「ユ、ユウカの男って」
「深草の名前を出すわけにいかないし、話がややこしくなるといけないから、とにかくワケありの男だけど、あたしの顔を立ててしばらく預かってくれって頼んだのよ。そしたらミユが、あたしの男だって思い込んでるんだけど」
ユウカは少し頬を染めて、乱暴に足元の土を蹴った。
「じゃ、今晩あたり訪ねてみる。ユウカも付き合うだろ」
ユウカは心底呆れた、という顔をしてみせた。
「あのねぇ、あたしは正式には、今日、婚約を破談にされた娘なのよ。それがその晩に、あなたと二人で栄町を歩くなんてできっこないでしょ」
ジンは驚いた。彼女の言う通りではあったが、ユウカがそういうことを気にするとは思ってもみなかったからだ。
「それも、そうか」
「そうなの。少しはあたしの立場とかも考えてね。じゃ、テツは栄町の桜湯楼にいるから、できるなら早めに行ってやって」
ユウカはぷいっと後ろを向いて、大股で去って行った。
ジンはいつものように夕食の支度を整えてから、栄町に向かった。教わった宿屋は置屋から女を呼んで遊ぶ店で、ジンは暖簾をくぐるのにかなり気後れした。
「あら、若いお客さんね」
すかさず声がかかる。言っている本人もまだ幼さが残る、手足の長い活発そうな少女だ。
「あ、あの、テツという、その琴弾きがいると思うんですが」
少しどもるようにつっかえながらも尋ねてみると、
「あぁ、ジンさんね。ユウカ姉さんから聞いてます。あたしはミユ。案内するわ」
少女は帳場から出ながら、
「かあさん、ユウカ姉さんのお客さんが来たから、テツさんの所に案内してくるぅ」
と、奥に向かって声をかけ、すたすたと歩き出す。
「悪いね、仕事中に」
ジンはユウカの知り合いの少女に直接会えたことに大いに安堵しながらも、一応の気遣いをみせた。
「いいのよ。ユウカ姉さんの客ってだけで、ウチでは大歓迎。かあさんも店の連中も、もちろん常連さんも、みんなユウカ姉さんにぞっこんだから」
「えっと、ユウカはここで何かしてるの」
「踊りに決まってるじゃない」
「ここで…」
歩いていると、襖の向こうから嬌声や甘い悲鳴がいくらでも聞こえてくる。
「ユウカがお座敷をつとめているのか」
「やぁね、お客さんのお部屋には行かないわよ。ウチは広間で踊りを見せることがあるの、お祭りや季節のお祝いね。後はお庭でお得意様を招待しての宴とか。そういう時にユウカ姉さんに来てもらってるの。ユウカ姉さん凄い人気なのよ。踊りは一級品でもう本職だし、凛々しいし、艶っぽいし、お客さんとの掛け合いも気さくでソツがないし。お座敷に呼びたいっていう客もいるんだけど、それだけはきっぱりお断りしてるの。安心したでしょ」
ミユはジンの顔を覗き込んだ。ジンは頬が熱くなった。
「へぇ、ジンさんて、うぶなんだ。でも、ユウカ姉さんはいいわよねぇ。テツさんにジンさん、いい男ばかり回りにそろっててさ」
ミユはすっと手を取って引き寄せるようにしながら、
「ひとりぐらい、あたしに回してくれても、バチは当たらないと思わない」
と囁くように言う。ジンは慌てて手を引っ込めながら、
「テツはいい男だけど、こっちは違うから、それは、違うと」
意味のない事を口走って言葉に詰まると、
「しないしない、何にも。冗談よ。そんなに怯えないでよ、失礼ね。ジンさんに手を出したりしたら、それこそユウカ姉さんに殺されちゃうわよ。いいなぁ、ユウカ姉さんは。こんなに一途に思われてて」
「いや、ユウカとはそういう関係じゃないんだ。幼馴染なんだよ」
「はいはい。そういうことにしておきましょ。この部屋よ」
ミユは突き当たりの部屋の前で立ち止まった。
「テツさぁん、ジンさんがいらっしゃったわよ」
「はい、どうぞ」
襖が開いて、テツが笑顔で出迎えた。
「やぁ、よく来てくれたね。まぁ、入ってくれよ」
「じゃ、後でお酒と何か肴を見繕ってくるから、ごゆっくりどうぞ」
ミユはそう言うと、急にぺたんと座って深々とお辞儀をし、そのまますっと襖を閉めた。
「しかし、とんでもないところに宿を決めたな」
ジンはため息まじりに言った。
「そうでもない、よくしてくれるよ。こういう所にも馴れなくっちゃ。流しの琴弾きなんて、泊まるところは大抵、盛り場の宿だもの」
ジンはテツの落ち着き払った言葉に瞠目する思いだった。旅に出る覚悟はしっかり固まっているようだ。
「ま、そうだな。で、いつごろ出発するつもりなんだ」
「それがまるで決っていなくてね、なにせ路銀がない」
テツはあっさり言った。
「いくら稼ぎながら行くと言っても、初めて国を出るんだからね。多少の用意はしなきゃ、いきなり路頭に迷っちゃう。まとまった金がある程度は必要だよ。だけどなにしろ僕は今、一文無しだからね」
「そうか、深草家ではそこまで用意してくれないか」
「たとえ用意してもらっても、それは受け取れないよ。家と流派を捨てて、親に不孝をして、おまけに路銀までは」
「そりゃそうだ。で、あては」
「ここで流しをやらせてもらって貯める。ミユさんやユウカが口をきいてくれるから…」
「それじゃ時間がかかるだろう。ウチで少し用意するよ」
「いや、カンさんに用意してもらうのも筋違いだ。これは僕の我儘だってことは、十分に承知してる。僕にはこの道しか選べなかったけど、それは僕の勝手だ。そのために誰かにこれ以上、迷惑をかけたり、好意に甘えたりはしたくないんだ。ジンとユウカには世話になってしまうかもしれないけど」
ジンは言い切られて黙った。テツのために何かしたいという気持ちはあるが、現実的には何もできることがない。金銭は全てカンのもので、自分の小遣いだけではとても路銀の足しにはならない。ユウカのように音曲の仕事を探してくる伝手もない。念剣で組んで一緒に見世物でもやるか。いや、今はジンにもそんな余裕はない。全ては御前試演が終わってからか。
そこで、ジンはふと思いついた。
「重盛屋の金でなければ、受け取ってくれるよな」
「それは、ジンのお金ってこと」
「そう。自分の腕で稼ぐ金さ」
「無理しなくていいよ。そりゃ、ジンは今の僕が甘えられる数少ない人だけど。ジンの小遣いを持っていくわけにもいかないし、悪いけどそれでは足りないし」
「違う。エイキ様がね、念剣闘技の試合で賭けをやってるのさ。そいつに一口のるんだ。重盛屋のジンが見事に一席を勝ち取れば、それなりの額にはなる。これなら文句なしだ」
「それは面白そうだな」
テツは目を輝かした。
「で、勝つ自信は」
「ない。でも、勝たなきゃいけないんだな、こいつが。おかげで毎日、傷だらけになってる。だったらその見返りにテツの路銀ぐらい稼がせてもらっても、バチは当たらないだろ。馬にだって褒美は必要さ。エイキ様にそうねじこんでやる」
「言うなぁ、ジンも。エイキ様相手に大胆だよね、頼もしい」
テツは嬉しそうに頷いた。
「テツには言われたくないね。一番おとなしそうな顔してた癖に、いきなり家も捨てます、国も捨てます、だもんな。こっちも少しは大胆になるさ」
「フフ。そうだね。じゃ、僕もその賭けにのるよ」
「えっ」
「御前試演まであと十日ほどか。その分の稼ぎの見込みを前借りして、ジンにつぎ込む」
「おい、それは」
「どっちみち勝たなくちゃいけないんだろ。友だちの大勝負にそれぐらいさせてもらわなきゃ、ジンからの路銀を受け取る資格もないよ」
「しまったなぁ、墓穴を掘った」
ジンは頭を振った。こうやって少しづつ自分の首を絞めて、どうしようもなくなってからしか動けないのが、いつもの自分らしいと言えば言えるのだが。
「失礼いたしまぁす、お酒を持って来たわ」
ミユが徳利と盃に、刺身やら煮物やら大根膾やら雑多に入った大皿を盆に載せて現れた。
「あっちこっちのお料理を適当にもらってきちゃった。ま、見た目は良くないけど、お金は取らないから我慢してね」
「ありがとう。ミユも飲めるかな」
テツが誘うと、ミユは嬉しそうに、
「もちろん。わぁ、嬉しいな、いい男に挟まれて飲めるなんて、幸せだわ」
「こちらこそ、こんな可愛い女の子と飲めるのは嬉しいよ」
テツの余裕たっぷりのさばけた対応に、ジンは呆然としてしまう。これが本当にテツなのだろうか。決意ひとつで人はこれほど変われるのか、それともこれが地なのか。
「じゃ、まずジンさんどうぞ」
ジンは慌てて盃を差し出す。酒がなみなみと注がれる。
「さぁ、どうぞ」
の一言でぐっと飲み干す。甘さが口の中で火に変わって喉から腹へと落ちていくのを感じてから、外で酒を飲むのが初めてなのに気づいた。家でも正月の祝い酒ぐらいしか飲んだことがない。
「いい飲みっぷりだわ」
とミユが褒めてテツに身体を向けると、テツも盃をくいっと一息で空けてから、
「ミユさんもどうぞ」
と盃を渡しなみなみと注いだ。ミユもためらいもなく、白い喉を動かして一息で空け、
「あぁ、美味しい」
と笑顔を見せる。
「ジン、僕はなんだかとても気分がいい。笛を吹くよ」
テツは麻袋から笛を取り出すと、窓の欄干に軽く腰掛けて、笛を唇に当てた。
たちまち、玄妙な音が流れ出す。以前に聞いたものに比べれば、ずっと穏やかで流れるような音が、しかし独特の不安定な揺らぎをともなって繰り出されていく。甘く寂しく…。
「不思議な音よねぇ」
ミユがジンに寄り添うように座ったまま呟く。
「あたし、笛も琴も飽きるぐらい聴いて育ってきたけど、テツさんのようなのは初めて」
「そうだな」
ジンはミユの身体が触れているのに、緊張もせず心地よさを感じている自分が不思議で、これもテツの音曲の力だろうかと思いながら頷いた。
揺れながら、震えながら、速く、遅く、夜の微風のように、テツの笛の音が流れ出ていく。酔客たちもふと窓に目をやり、音の行方を探すように夜空を仰ぐ。静かな半月の夜。降るほどの冬の星空だ。テツの音曲はいつ終わるとも知れずに、紡がれていく。
ジンは手酌で盃に酒を満たし口に含む。
旨いと思う。




