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14.一度目

 それはジンが八歳の時、母がまだ病弱ながらもまだ生きていた頃だった。

 カンはジンを連れて、朱家に年始の挨拶に伺っていた。朱家は重盛屋の上得意の一つで、毎年年始には挨拶に伺い、そこで念剣演舞を披露するのが慣わしになっていたのだ。カンの念剣演舞は、知る人の間では極めて高い評価を得ていた。ジンもそこで父に仕込まれた演舞の型を前座で披露した。

「さすがはカン殿の息子だけあって、非凡な念剣の遣い振り」

 とこれも評判が高く、ジンは幼いながらも自分でも少し誇らしい気持ちで、カンに付き添っていた。

 演舞が終わるとカンは酒宴に呼ばれ、ジンはお屋敷の庭に菓子を渡されて待たされた。菓子は上等の饅頭で、決して貧しくはないジンの家でも、あまり口にしたことはない漉し餡がふんだんにつまっている。ジンは庭石に座ってそれを頬張った。甘い餡がすっと口の中で溶け広がり、舌の上でさらりと消えていく感触が何とも心地よい。ジンは夢中になっていた。

 ふと目を上げると、一人の少年が立っていた。

「おい、猿回し。邪魔だ」

 どうやら朱家の屋敷に仕えている小者らしい。箒を片手にこちらを睨んでいる。

「すいません」

 ジンは慌てて立ち上がった。

「芸人風情が庭をうろつくな。ちょこっと念剣が使えるからって、いい気になって」

 ジンはこれには応えなかった。こういう時は、むきになっても下手に出てもいけない。ただ、無言でやや頭を低くしてやり過ごしていれば、相手も面白くなくて諦めるはずだ。が、この少年は更に言い募った。

「朱家の御庭はなぁ、おまえみたいな卑しい奴が汚していい場所じゃないんだよ。分かるか。ご主人様は憐れんで、おまえの親父を屋敷に上げているがな、おまえは駄目だ。おまえは穢れをもちこむからな」

 ジンの顔が険しくなり、少年を睨み返した。

「なんだ、その目は。流人の子が生意気だぞ」

 母が悠国の出身ではないことは、ジンも知っていた。

 母方の親族はこの国には一切存在しない。そして母が陽都から訳あって悠国に流された囚人だったという噂も、確かに耳にしたことがあった。けれどもその真偽を父や母に問い質したことはない。訊けば、そんなことを本気で信じたのか、と父が傷ついたり、私のせいで苛められているのか、と優しい母が嘆いて病を重くするかもしれなかった。

「おまえの母親が何をしたのか、おまえ、知らないんだろう」

 少年は嘲笑った。

「知らなきゃ教えてやる。感謝しな。おまえの母親はな、陽太皇を色仕掛けで誘惑しようとした、大それた淫売さ。あいにく太陰様に見抜かれて、本当なら打ち首のところを、陽太皇の計らいで陽都追放、悠国預かりになった。そんな厄介な罪人なんて預けられても、皇主様も困るだけだよな。せいぜい国外れの山荘で、飼い殺すしかないというところへ、おまえの親父が色目を使われて、のこのこと貰い受けにいったわけだ。なんだかそこそこの身分を棒に振って迎えにいったらしいから、いや、女の色気ってのは怖いよなぁ」

 下品に笑いかけた少年の顔が凍りついた。

「言うことはそれだけか」

 ジンは念剣を構えていた。二本の光が震えて猛るように立ち上がっている。ジンの目も負けずに血走った光を帯びて、真っ直ぐ少年の目を射抜いている。

「よせっ、やめろ。おい、何考えてんだっ、この餓鬼は、やめっ、あっ」

 後ずさる少年が石につまずいて後ろ向きにたたらを踏んだ。ジンはすかさず間合いを詰めて、無言のまま脳天に炎剣を振り下ろした、と思った瞬間、

「切るなっ」

 激しい叱咤の声と同時に、模擬刀が炎剣の軌道を遮った。炎剣は模擬刀を切り落としながらも大きく横に流れ、そのまま模擬刀を持った右腕を切り裂いた。ジンは驚いて念剣を取り落とした。手から離れた念筒から、スーッと朱と蒼の光が消えていく。炎剣を持っていた左手の中に、腕を切り裂いた嫌な感触が残った。

「ぼ、ぼっちゃま」

 無様に尻餅をついたまま少年が言った。右腕を切られた男も、背は大人並みに近いが、顔はまだ子供の面影を強く残している。

「ぼっちゃま、じゃない。エイキ様と呼べ。いや、呼ぶ必要はないかな」

 急に現れた相手が朱家の総領息子であるエイキと知って、ジンは仰天した。慌てて膝をつき、頭を地面につける。朱家の跡継ぎを斬ってしまった。事の重大さに今更ながら体が震えてくる。そもそも朱家の庭園で勝手に念剣を振り回すだけでも、首を飛ばされかねないようなことなのだ。

「ジン、頭を上げろ。こいつの言ったことはすっかり聞いていた。おまえは当然のことをしただけだ。ただな、ここでおまえがこいつを斬れば、おまえも無事ではすまされない。こんな下卑た奴の命と引き換えに、おまえの命までが無くなるようなことは、俺が我慢できん。だから、俺がこいつを成敗してやる」

 言うなりエイキは、右手で握っていた模擬刀で思い切り、倒れた少年の額を打った。額が割れて血が飛び散った。エイキの右腕からも血が迸る。

「ひゃぁ、ゆ、ゆ、お許し下さい」

 腰が抜けているらしく、逃げることもできない少年が喚く。

「うるさいな」

 エイキは少年の喉を蹴った。

「ぐぉっ」

 白目を剥いてもがくが、喉を蹴られて声が出ない。ヒュッ、ヒュッと息漏れの音がする。

「おまえのような卑劣な奴が、朱家の庭を汚すことは許しがたい」

 エイキは左手に持ち替えた模擬刀を振り下ろす。今度は肩を打ち据えている。

「生かしておいても世のためにならん。ジンにも申し訳が立たん」

 脇を打たれてのけぞる。体がびくびくと震えている。

「待って下さい」

 ジンが止めた。

「そんな嬲り殺しのような真似は。お庭で念剣を振るった私に非があります。どうか、お許しを」

「ん、そうか」

 さらに振りおろされようとしていた模擬刀の動きが、ぴたりと止まった

「ジンが止めるのなら」

 エイキはそう言って、落ち着き払った様子で模擬刀をひとふりすると、その剣先でうつ伏せに倒れている少年の顎を持ち上げた。

「今回は許すことにしよう。感謝しろ。おまえは、ジンに殺されても文句は言えんのに、ジンに命を助けられたのだ。分かっているな」

 少年はガクガクと首を縦に振った。

「さて、おまえはそこの、」

 エイキは傷ついた手で指さした。

「短刀で枝を払っていて、足を滑らせ、俺の腕を切ってしまったのだ。わかるな」

 エイキはにやりと笑った。少年は一瞬、何事か分からない様子だったが、エイキの笑みが消えかかるのを見て、すぐに激しく頷いた。

「そこで激怒した俺に罰せられたのだ。ここで起きたのはそれだけだ。他のことがあったと言うのなら…」

 少年は激しく首を横に振った。

「血の巡りは悪くないらしいな。では、消えろ。処罰は終わった。朱家はこのぐらいの傷で使用人をクビにはせん。まして俺が既に直々に折檻した後だからな。とっとと控えに戻って反省しておれ。早くだ」

 哀れな少年は傷む身体を引きずりながら、逃げるように引き下がった。

「エイキ様」

「ジン。朱家の使用人の不始末は、俺の責任でもある。が、あの馬鹿も少しは思い知ったと思う。これで勘弁してくれるか」

 エイキは懐にあった紐で傷ついた腕を縛りながら、軽く頭を下げた。

「いえ、ありがとうございます。あ、あの本当に、もうしわけありません」

「おまえは誰も切ってはいない。念剣など使っていない。分かっているな」

「は、はい。ありがとうございます」

「礼を言うな。それから一つだけ言っておく。あの馬鹿の話は、出鱈目なただの噂だ。あれが本当なら、朱家はお前の父上を客には呼ばん。お前を屋敷に入れることなど絶対にしない。お前の母上にどのような事情があるかは知らんが、そこに罪がないことだけは、俺が保証する。だから馬鹿や阿呆や下種の言うことなど、お前が真から気に病むことはない。覚えておけ」

「はい、…はい」

「さっき座敷でおまえの念剣を見た。俺よりも幼いおまえが、どうしたらあんな風に念剣を扱えるのか、正直に言って妬ましいほどだった。だからこんな下らんことのために、あの素晴らしい念剣を封じるような真似はするな。もし俺の傷に何かを感じるなら、その分おまえの念剣を磨け。さ、もう行け。人に見られないほうがいい。宴席は遠いが、客人の多い日だ、誰が気紛れで来るか分からんからな。当たり前だが、今日のことは決して口外するな」

 ジンはもう一度深々と頭を下げ、それから後も見ずに夢中で駆け出した。

 まだ頭が混乱していた。

 念剣で人を切ってしまったことへの畏れが、身体の芯をがしりと掴んで離さなかった。

 父の退出も待たず、門衛の怪しむ素振りにびくびくしながら、ジンは家へ逃げ帰り、自室に籠もって布団にくるまって震えた。あの貴族の息子はかばってくれるつもりではあっただろうが、その怪我が重く騒ぎになれば、事が発覚するかもしれない。そうなれば、朱家の追っ手がジンの命を奪いに来るだろう。

 できれば母親の胸に飛び込みたいところだったが、ここ数日も具合がすぐれず、寝間に臥せたままの母親に、そんな途方もない衝撃を与えるわけにはいかなかった。何より、今日の出来事が、母親の過去に関係していることだけは、知られてはならなかった。

 夕刻に朱家から帰ったカンは息子の部屋にそっと入り、布団の中で息を殺して震えるジンのそばに黙って座っていた。ジンがその日あったことを父親にぽつりぽつりと話はじめたのは、深夜になってからだった。カンは息子の話に一切言葉を挟まず、ただ時折、聞いていることを示すための相槌を打つだけだった。

 話を全て聞き終えてからカンは言った。

「おまえは、母を疑うか」

「いいえ」

 ジンはまだ布団の中から、啜り泣きながら言った。

「でも、何も、知らないから。母上が、何処から来て、どうしてこの国で父上と、いっしょになられたのか、そういうことを、何も」

「そうか」

 カンはしばらく考えてから、低い声で、

「知るべき時がくれば知るだろう。いや、私が教えよう。今はその時ではない、と私は思っている。しかし、おまえには辛い思いをさせた。これからも、そういうことはあるかもしれん。おまえが吹き込まれた話は、噂話としてはかなり広がったものだからな。だが、真実とはほど遠い。マリエが陽都から来たのは事実だが、マリエも私も、誰かに恥ずべきことをしてきたわけでは決してない。それだけは信じなさい」

 カンは布団の上から軽くジンをたたいて、

「では、この話はお母さんには聞かせないことにしていいな」

 と訊ねた。ジンは思わず布団をはねのけて答えた。

「はい、絶対に言わないで下さい。お願いします」

「分かった、分かった。そうだ。そうやって守るべきもののために、いつでも跳ね起きることができるのなら、いくら泣いても縮こまっても構わんぞ」

 カンは優しく穏やかに笑った。


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