11.旅立ちの決意
「こんなものは、聴いたことがないよ。本当に凄い」
と、ジンはそれだけしか言えない。
「テツ、ほんとに凄いわ」
ユウカの声も震えている。
「恥ずかしい。あたし、踊りでは自分でもそこそこだと思ってたんだけど。今、聞いてて、あれに負けない踊りなんて、全然考えられないもん」
ジンには音曲と舞踏では比べられない気もするが、人を魅了する何かを求めている点では、ユウカには競う部分があるのかもしれない。
「テツ、あなたは間違いなく天才よ」
ユウカは静かに言ってから、続けた。
「でも、だったら、尚更、ここで修遊館を辞めちゃうのはもったいないじゃない」
テツは首を横に振る。
「でも、これだって聖和音に戻らない。今、僕が作りたいものを創ると、聖和音に戻るはずがないんだ。それは分かるんだ。どう、僕の音曲は間違いだと思うかい」
「間違ってるかどうかは、分からないけど…。」
ジンは迷いながら言葉を選んだ。
「ただ、もう凄いよ。こんなにどっかに連れてかれそうなのは初めてだ。そう、それに、確かに、今、考えると、美しいよね。美しいって言葉が嵌まるのかどうか分からないけど。んん。何だろう。間違いとは違う、多分。邪悪とかそういうものじゃない。でも、危険なほど力がある音だ。そういう感じ。あぁ、テツが言葉で考えるのが苦手って、よく分かるよ。こんなもの、こんなに言葉にならないものを創ってれば、無理ないね」
「これが間違いっていうなら」
ユウカは簡潔に力強く言い切った。
「あたしは音曲なんか要らないわ」
「ありがとう、ジン、ユウカ。よかったよ、聴いてもらって」
テツは嬉しそうだった。
「そんな風に感じてもらえれば嬉しい。でもね、修遊館の先生や館生の中には、僕の創る音曲は全然分からないって人もたくさんいたんだ。気持ち悪い、奇妙な音ばかりだって。その人たちの耳は本来は悪くない。ずっと琴や笛を聴いてきた、鍛え上げた耳なんだ。それがいつの間にか聖和音に戻るお定まりの音しか受け入れられない耳になってる。だから、それも辞める理由。修遊館でずっと修行を続けてると、こういう音が聞こえなくなってしまいそうで、嫌なんだ。即興をやっていても、僕にはいつも聞こえてる音がある。辿るべき音が聞こえる。その音の形を追ってるんだ。この耳が駄目になってしまったら、曲はもう作れない。演奏だってできないかもしれない」
「でも…、テツの耳が駄目になると思えないわ。だってこれだけ創れてしまうんですもの、型通りの曲を習ったからって無くなってしまわないと思う。それに修遊館の先生でも、分かってくれる人はいるんでしょ」
「本来の音曲の姿とは言えない、って断りつきでね。僕はそう思わない。音曲の目的が四宮八聖を描き讃えることだとは思えないんだ。むしろ四宮八聖は音曲を縛る枷になっている。聖和音も四宮八聖に縛られていなければ、もっと美しい使い方、響き方があるはず」
「ちょっと待て。それ以上は、言葉にするな」
ジンが声を低めて遮った。音曲の世界のこととは言え、テツが口にしているのは明らかに四宮八聖批判なのだ。テツは少し蒼ざめた顔のままポツリと言った。
「…じつは、今度の四宮新聖祭で、御前披露の弾き手に内定してるらしいんだ」
「おい、それはおそろしく名誉なことなんじゃないか」
「そう。館生の身分で選ばれるのは僕だけみたい。後はみんな講師の先生方ばかりで」
「それを蹴って辞めるのか…。ひどい騒ぎになりそうだな」
「だから正式に決まる前に辞めるんだ。四宮新聖祭での御前披露なんて勤めたら、もうこの先ずっと、修遊館付のお抱え楽士になるしかない。そして、祭りだの、祝い事だの、国軍の演習だののために弾き続ける。そこでやるのは、四宮八聖のための音曲だけなんだ。それは僕の音曲じゃない。ジンだってさっきので分かっただろう」
「でも、じゃ、テツの音曲って何だ」
「それは、まだ分からない。今は僕の中、いやこの世界にあって、でも形になっていない音を追いかけて、紡ぎだしていくのに精一杯だから。その先に答えがあるかもしれない」
「そうか」
ジンは腕組みをして、深くため息をついた。
「テツの気持ちは、まぁ、分かった。だけど大変だぞ。修遊館を辞めるだけでも、楽士としての道は無いも同然なのに、正式じゃないとは言え、御前披露の弾き手まで蹴ったとなっちゃ、まずこの国で楽士はできない」
「うん。国を出て流れの弾き手になるしかないと思う。唄ものの伴奏とかしながらね。そういうのは嫌いじゃないんだ。みんなが喜んでくれるし、あちこちの国の民謡なんかには、また面白い音が混じっていてね。とりあえずは首府まで行ってみようと思ってる」
「陽都か。遠いな」
しばらく黙っていたユウカが口を開いた。
「深草の小父様や小母様はどうするの」
「母上はいいんだ。そりゃ、がっかりするだろうけど、あの人は父上が全てだから。跡継ぎに養子を貰うしかないって嘆くだけ。心配はしてくれるけど諦めてくれる。父上は…」
テツはしばらく口を閉じて何かを思い出すようだった。
「父上は分かっていらっしゃる。聖和音に戻らない曲を初めて創ったとき、僕はまず父上にそれを聴いてもらったんだ。父上は、こう仰ったよ。どうやら深草流は、またとない腕の跡継ぎを失うことになるらしい、とね」
「それは、そういう曲を創るなっていう戒めじゃないのか」
「いや。あの時、父上はとても静かだったし、僕の音曲をきちんと聴いて下さっていた。父上は多分、四宮八聖に縛られない音の世界を、前からよく知っていらっしゃったのだと思う。知っていてその世界に踏み込まなかった。深草流を守るためにあえて留まられた。だから踏み込んでしまった僕の音を聴いて、僕に跡を継がせることを諦められた、許してくださったのだと、僕は思う」
ユウカもジンも言葉が出なかった。
「御前演舞の弾き手に内定したこと、教えてくれたのは父上なんだ」
テツはまた、ぽつんと言った。
「で、おまえ、どうするってね。父上は、だから、もうよく分かっていらっしゃる」
「だったら」
ユウカは怒ったような口調で言った。
「小父様がそこまで覚悟してらっしゃるなら、もうあたしたちが止める筋合いじゃないわ。陽都でも西夷でも行きなさい」
ユウカはテツの袖を掴んで睨みつけた。
「ただし、帰ってくるのよ、絶対」
瞳がきらきらと輝いている。
「あたしはあなたのお嫁さんになるつもりなんか、最初っからこれっぽっちもなかったけど、でも、あなたは友達よ。仲間よ。あなたが帰ってくる場所は、いつでもここにあるの。そしてそれまでに、あたしはあなたの音曲ででも、舞ってみせる。あの音、あの調べに負けない舞を、ここで創り上げて待っているわ」
テツは微笑んで肯いた。
「ありがとう。もちろん、帰ってくるよ。それにここを出るのも今すぐじゃない。ジンとユウカには隠し事をしたくなかったからね。旅に出る前には、また知らせるよ」
ジンも肯いて、拳で眼の辺りをこすった。拳が濡れた。
「さて、今日はもう帰ろう。ユウカ、家は大丈夫なのか」
「大変。今頃、大騒ぎしてるかも。あたし、走って帰るわ。ジンとテツはゆっくり。ジン、傷はちゃんと冷やして薬草をこまめに塗るのよ」
言うなり、ユウカは駆け出した。
「へ、照れてるんだ、あいつでも」
と、ジンが言うと、テツは、
「うん。ユウカはそれでも、いつも僕を姉のように気遣ってくれてたよ。ジン、ユウカをよろしく頼むね」
「よろしくって言われても、あいつにはこっちが振り回されるばかりだよ」
ジンは肩をすくめた。ユウカが事実上、テツの許婚という立場ではなくなったことに、軽い戸惑いを感じたが、だからと言って急に何がどうなるものでもない。
「なんだか妙に掌が熱いな」
ジンはごまかすように呟いてから、ふっと思いついて懐にある念筒を取り出した。両手に握り、丹田に力を入れて意識を集中させる。たちまち二筋の光が吹き上がる。
「やっぱりな。念剣の位相が上がってる」
ジンはその光を見ながら言った。
「いつもと違うのかい」
とテツが眩しそうに眼を細めて尋ねた。
「ずっと強くて大きな力が籠もってる。さっきテツの音曲を聞いたときから、何か変な感じがしたんだ。これは制御に慣れるのが大変だな」
「僕の音曲のせいなの」
「僕の感覚だと多分ね。どういう因果かは分からないけど」
ジンはヒュウヒュウと音を立てて、念剣を十字に振るった。
「念剣演舞の時に、動きに狂いが出ると危険だからな。うん、思ったよりは軽い。これならすぐに慣れそうだ。じゃ、帰るか」
「僕はもう少し、ここで練習をしていく。月が群雲で翳って、うん、あれを見てると面白い音が出せそうだ。ジン、今日は忙しいだろうにありがとう」
ジンは無言で肯いてから歩き出した。
後ろから、琴の音が紡ぐ高く震える不思議な旋律が、丘の上の夜空に上っていくのが聞こえた。
懐に入れていた椎の実を指先で弄びながら、ジンはテツが言っていた、四宮八聖は音曲を縛る枷になっている、という言葉について考えていた。
エイキとテツという全く似ていない二人が、そして自分と最も縁の深いと思われる二人が、共に四宮八聖に異を唱えていることを思った。これは偶然とは言い切れない。何かの予兆なのか。何かが始まっているのか。そう、リュウトも言っていた。
「世の中ががらりと変わっちまうような、俺たち自身もその中で、何かしなきゃいけないような、そういう時代」。
本当にそんな時代が来ると言うのだろうか…。
「ん」
ジンは気配を感じて辺りを見回した。と、
「やぁ、ジン。こんな遅くにどうした」
リュウトの声だ。彼の言葉を思いおこしていた時だけに驚く。
「リュウト、そっちこそ、こんな時間に」
「父の使いっ走り。届け物の帰り。今日は災難だったらしいな、念剣闘技で。聞いたよ」
「全くね。その前は政体原理のジュンサイ先生に睨まれるし。最悪の一日だったよ」
「そうだったな。エイキ様に連れ出されたんだよな。何か言ってたか、エイキ様は」
「別に、特には」
エイキの話はいつも危険過ぎて、リュウトにはストレートに話せない。けれども、リュウトは世の中が変わりそうだと感じたら、教えてくれと頼みはしなかったか。
「言ってたよね。世の中ががらりと変わって…」
「何かあったか」
飛びつくように訊いてきたリュウトの勢いに、ジンは気圧された。
「いや、そういう時代って、どんなものなのかなって」
やはりうかつにテツの話はできない。テツは音曲のみを純粋に追い求めている男だ。万が一にも何かの騒ぎに巻き込まれるようなことになったら、申し訳が立たない。
「なんだ。期待させるじゃないか。どんな時代かは来てみなきゃ誰にも分からんさ。ただ、もし自分の腕を試せる機会があるなら、それを見過ごす手はない。そうだろ。じゃ、俺は急ぐから。しっかり傷を治せよ。近々に組演舞の型も念剣でやるんだろ」
「まだ三日もあるよ。大丈夫、体の動きには影響ないからね。じゃ、明日」
応えながら、月のない夜道を小走りに帰っていくリュウトの背中を見送った。
何かひどく胸騒ぎがしたが、原因は今日一日だけでも思い当たりすぎて、かえって分からなかった。
ジンは椎の実を指先でぽんと弾き飛ばした。実は寂しげに道端の闇に転がった。




