10.テツの調べ
人気のない見晴らしの良い丘で、テツは待っていた。子供の頃、三人でよく遊んだ場所だ。潅木の茂みの間を縫うように通った道は、子供たちの足で踏み固められてできたものだ。まだ道が残っているということは、今も変わらずどこかの子供たちが、ここで遊んでいるのだろう。ジンは足元の椎の実を一つ拾ってからゆっくり近づいた。
「こんな時間に呼び出して悪かったね。ジンも修錬舎で忙しいようだから」
「いいよ、そんなこと気にするな」
ジンはテツの横に並んで立った。見下ろすと池が見え、林を越えてその向こうに屋敷町が黒い影になって広がっている。
「久しぶりだな、ここに来るのは」
「僕はよく来るよ。笛の稽古をするんだ。このあたりは夜は静かだからね」
テツも念剣を使えるから、夜道に不安は無いのだろう。念剣を使えないものには、林を抜けて続く曲がりくねった細い道は、夜にはちょっと通れない。テツは今日も琴と笛を持ってきているようだ。
「ユウカから、少し聞いたよ。…修遊館、本当に辞めるのか」
「うん」
「届けは」
「まだ、これから。辞めることは、ユウカとジンしか知らない」
「でも、決めてるのか」
「そう。決めた」
テツの細い小さな声に、けれど何の迷いもないことを感じて、ジンはため息をついた。
「テツが決めた、と言ったら、もうどうしようもないな」
「そうだね」
テツは静かに微笑った。
「そうじゃないでしょ」
怒りを押し殺した声がジンの反対側から飛んだ。ジンは苦笑いをした。
「ユウカ、無理だって言っただろ」
「止めてもいない癖に。男同士の話の邪魔したくないと思って、黙ってたら、全く」
「隠れてたつもりなら、悪いけど、最初から気配は分かってたよ」
「ジン相手に隠れたりしないわ。ただの遠慮、配慮よ」
ユウカはジンの横に歩み寄って、いきなり肘で脇腹を突いてから、うっと呻いたジンを見て叫び声を上げた。
「ちょっと、何よ、その顔。ひどい傷じゃない。どうしたの」
「念剣の稽古で少ししごかれただけだよ。ッ痛、で、ちょっと体の方も打たれててね。お手柔らかに頼むよ」
「ご、ごめんなさい。気が付かなくて、あの、大丈夫なの」
「叩かなきゃね。それより今はテツのことだろ」
「そ、そうね」
言いながらもユウカは気勢をそがれたらしく、下を向いてしまう。代わりにジンが訊ねた。
「ま、止めるか止めないかは置いといて、どうして、って聞いてもいいか」
「うん、ジンには言うつもりだった。ユウカにもだけどね」
テツはしばらく口をつぐんだ。ジンとユウカは待った。
「もともと僕は、言葉は得意じゃない。言葉で創れるものと、音で創れるものは違いすぎるから。僕はその、音で考えるから。考えるとは言わないかな。うん。だけど、…ジンには言おうと思ったから、ずいぶん考えた。言葉でね。だから、説明できるかな、と思う」
テツは本当に言葉を手探るように訥々と言った。
「…そう、修遊館が、違うな、と思ったのは、正しい音と正しくない音、って区切り方が、最初だった」
「正しい音って」
ジンが問い返す。
「うん。ちょっとこれを聞いて」
テツは四弦の琴を撫ぜるように鳴らした。四つの柔らかな音が互いに溶け合って明るい一つの音調を創る。続いて別の四つの音、更に別のやはり四つの音。明るく、物悲しく、と音調が変わるが、どれも美しい響きだ。
「これが聖和音。正しい音なんだ。だけど、これは」
再び鳴らした四つの音は、やや落ち着きの無い不安感を誘う響きだ。
「これは違う。不聖和音。正しくない音だって、修遊館では言われる。もちろん不聖和音も使うよ。ジンだって聞いたことはあるだろ」
確かに儀礼祭典の場で使われる音曲の中にも、テツの言う不聖和音はあったと思う。
「だけど、不聖和音は長くは続けてはいけないし、一つの調べの中は聖和音から始まり、必ず聖和音に戻ることが求められるんだ。それが音曲の正しい在り方なんだと。修遊館では、音曲も四宮八聖を描き讃えることが究極の目的だと言われる。そして聖和音は四宮八聖のたたずまいを現す音なんだ」
「それが、どうしたのよ」
ユウカが少し苛立ったように言った。テツはしばらく言葉を探して、諦めたように、
「僕はそう思わない」
と言った。
「何を思わないのよ」
「ユウカ、急かすな。聖和音に戻らなくちゃいけないっていうのが、違うってことだな」
「そう、それも。聖和音に戻らなくても、不聖和音だけでも、美しい調べは創れる。いや、そうじゃなくちゃ創れないものがある。だから僕は創ってみせた。修遊館でも聞かせたよ。でも、それはどんなに巧みで美しく響いても、正しくない、四宮八聖の道理に背いた音曲だと言われた」
「うん」
「僕の創った調べは、まだ危うくて脆い美しさだったかもしれない。でも、曲がった邪悪なものではないはずなんだ。だから、そう、正しくないと言われるのは辛かった。それに正しいとか、正しくないとか、そういうのは、音ではなくて言葉の世界の物差しだ。僕の音を、言葉の物差しで量られるのも、何かが違う、そう思った」
テツは葦笛を取り出し、首に竹細工の輪をのようなものをかけて、その輪から伸びた二本の棒で固定した。葦笛と琴が同時に奏でられる器具だ。
「ねぇ、ジン。これが正しいか正しくないのか、何かが間違っているのか、聴いてみて、そして正直に言って欲しい」
琴が低く鳴り始めた。
一弦づつ、一音づつゆっくりと。
そして徐々に音が重なるように、速度を上げて繰り出されていく。
低音だけの音の群れが、溶け合わないままに単調な重苦しい旋律を生み出していく。
突然、葦笛が悲鳴のように鳴った。
そのまま葦笛も高音で不思議な旋律を醸し出し始める。
重くはない。けれど、歓びと不安が交互に立ち現れるような、とらえどころのない響き。
琴と葦笛の旋律は、時に絡み合いながらも、己の色調を守って溶け合うことがない。
その溶け合わない音の間に立ち現れる気配。
混沌としていながら静かな何か。
その存在が大きくなるにつれて、葦笛の高音の調べが、はかない美しさに満ちていく。
琴は地に潜ったように深い響きで和していく。
何者かがゆっくりと、立ち上がる。
不意に葦笛の高音が途切れた。
何者かは立ち尽くす。
続いて琴が高音低音を織り交ぜて響き渡る。
先ほどまでと同じ旋律を辿りながらも、これは何と言う力強さ、荒々しさか。轟々と唸り、低音で形作った大地が波のように沸き上がって天に届くようにうねる。雷雨のような高音がそれを叩き伏せる。飛沫。
瞬間、
稲光のように葦笛の音の束が、競り上がる大地と荒れ狂う天の中心を貫いた。
そこに確かに居たはずのものが消えた。
全てが撃ち抜かれ砕け散った後のような静寂。
いや、何か聞こえる。
月の影。風。初めから変わらずあるもの。移ろうもの。
弦が数度微かに鳴って
消えていく。
ジンは身体が芯から震えて止まらない。両手が熱を持っている。
「どう、ジン。ユウカも」
いつもと同じ穏やかなテツの声が聞こえてくるのが不思議な気さえする。
「凄い、な」
それ以外の言葉がすぐには浮かばない。




