2話 幽鬼との出会い
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冷たい感触。何だ? 死んだのか?
俺はゆっくりと目を開いた。横になった世界。見覚えのある森の景色。冷たいのは右頬だけ。口の中にはジャリジャリと砂のような感触がある。
何だか死んではいないようだ。
俺はゆっくりと身体を起こしてみた。そして口の中の不快な砂をぺっと吐き捨てる。
手足を確認すると泥と血が混ざり合い凄いことになっている。それを見て急に身体の節々が痛み出した。
振り向けばそこはなだらかな山の斜面。
そうだ、俺は雨の中下山していたらこの斜面から転げ落ちたんだ。
そう言えば雨はやんでいる。何時間くらい倒れていたのだろう。まあ何にしても、倒れている間にヘデラやオーク、獣の類に襲われなかっただけ幸運だ。身体は痛いが動けない程ではない。傭兵の鎧を着ていたお陰だろう。
──と、俺が立ち上がろうとしたその時、得体の知れない邪悪なものが近付いて来るのを感じた。
俺は咄嗟に背中の剣を抜き構える。
ヘデラやオークに実際に会った事はないから、近付いて来る邪悪なものが何なのか分からない。ただ、もうこの道をこちらへ向かって来ているというのは確実だ。しかもかなり速い。馬か? 山犬か? とにかく、逃げても無駄だという事も分かる。
ガタガタと震えながら剣を構える。こんな時にこのザマじゃ、確かにあれ以上山を登らなくて正解だったかもしれない。そう思ってしまう自分が情けないが……
「……え!?」
自分の弱さを嘆いていると、道の向こうから“白い何か”が“黒い何か”に追われながら猛スピードでこちらにやって来るのが見えた。
白い何かは……長い髪を靡かせた女の顔をしているが、宙に浮いているし半透明。その後ろから追って来る黒いものも半透明だが、こちらはローブを身にまとい、数は全部で4体もいる。顔はフードを被り良く見えないが、その4体全員が剣を持っているのだけは確認出来た。
「な、何だよあれ……幽鬼か!?」
俺は奴らを見た時1つだけ理解した。今まで感じていた邪悪な感覚の正体があの黒い何かであると。
その白と黒は確実に俺の方へと向かって来る。一瞬、白い女と目が合った──と思ったその時、白い女は真っ直ぐに俺の身体へと突っ込んで来た。
「うっ……何だ!?」
何かが身体の中に入った感覚。全身に今まで感じた事のない膨大な力を感じる。一瞬物凄く広大な空間に放り出されたような不思議な感覚だ。
そうこうしているうちに、黒いローブの奴らが俺を取り囲み一斉に剣を構えていた。
「待ってくれ! お前ら何者だ!」
黒いローブは俺の問に反応を示さない。
『お前、モルスが見えるのか?』
どこからともなく聞こえる女の声。
「え??」
『まあ、いい、死にたくなかったらその剣を頭上に掲げろ』
女の声は俺に命令してくる。
だがこの状況、命令するなら「剣を振り回せ」ではないのか? 頭上に掲げたら防御も出来ないではないか。
『早くしろ! 死ぬぞ!』
女の声に急かされ、俺はやけくそに剣を振り上げた。
『ルークス=フルクトゥス=アムレートゥム』
謎の呪文を唱えた女の声が頭の中に響いた瞬間、俺の剣の切っ先から眩い光が辺りに広がり、黒のローブ達は慌てて元来た道を引き返して行ってしまった。
「何だ……この光、まるで魔法みたいな」
『魔法だ。しかも上級の光の魔法』
「え!? また聞こえた!? だ、誰だ!? どこにいる!?」
『口の利き方には気を付けろよ。小僧。私はお前より歳上だ』
「ど、どこにいらっしゃるんでしょうか?」
辺りを見回すが声の主の女が近くにいる気配はない。
『お前の中だ、小僧。お前の脳に直接話し掛けている。たぶん』
「え!? そ、そんな事……」
『信じなくても構わない。ところで、小僧、名前は?』
「あ、はい。メルです」
女の声に俺は素直に名乗った。声だけなのに凄い威圧感があり、逆らわない方が賢明だと本能が教えてくれるからだ。
『そうか、メル。お前のお陰で助かった。礼を言おう』
「ま、待ってください。どういう事ですか? 助かったって?」
『ちっ、鈍いなお前。私がさっきのモルス共に追われてたのを見ていただろ?』
「え? もしかして、俺の中にいるのって、さっきの半透明の女の人??」
『そうだ。幽鬼化した私の身体では魔法を使う事が出来なかった。だが、運良く手頃な肉体があったんで、この身体を借りてモルスを追い払ったのだ。如何せん、この大魔法使いブーゲンビリア様と言えど、幽鬼化はあまり使わんからなぁ。本来の魔力が出し切れずモルス共を殺せなかった』
「ごめんなさい、ちょっと何言ってるか全然……って、え!? 大魔法使いブーゲンビリア!? 貴女が!?」
『ああ。見たであろう? こんなただの人間の身体で魔法を発動し、モルスを追い払ったのだ。こんな事、私以外に出来るものか』
大魔法使いブーゲンビリア。かつてこの世界に君臨していた大魔王ズォークを封印したという5人の大魔法使いの1人だ。だがそれは3千年も前の話で、しかもズォーク封印の際に5人の魔法使いは皆死んだと伝わっている。
「ダメだ、混乱し過ぎて状況が掴めない……! 俺の中に大魔法使いブーゲンビリアがいる?? そんな御伽噺みたいな事……」
『ああ、もういい! 頭の回転の悪い奴は嫌いだ。ただの人間の男の身体に長居は無用。さらばだ、メル。達者でな』
「ちょ、ちょっと待ってください! 1人にしないでください! せっかくなら一緒に街まで行きませんか? ブーゲンビリア様!!」
しかし、もうブーゲンビリアからの返事はなかった。
もう身体から出て行ったのか。はたまた元々ブーゲンビリアなんてのはビビり散らかしている俺の妄想だったのか……
「クソっ……またあの黒い奴らが襲って来たらどうすんだよ。魔法なんて使えないし……次こそ俺はここで死ぬ……」
『メソメソするな、雑魚メル!』
「え!? ブーゲンビリア様!? まだ俺の中に!? そうか、俺の事を心配して街まで一緒に来てくれるんですね! ありがとうございます!」
姿は見えないのに、俺は無意味にブーゲンビリアを探すように辺りを見回す。
『勘違いするな雑魚メル。お前のような弱虫な男など、この大魔法使いブーゲンビリア様が心配するか』
「じゃ、じゃあ何故まだいらっしゃるのですか?」
ブーゲンビリアは舌打ちをした。
『出られない』
「え?」
『この穢らわしい雑魚メルの身体から出られないんだよ! ああ、もう何と最悪な事だろうか! 他の魔法使いの女に入り直そうと思っていたのに! 以前はちゃんと出られたのだが……クソっ!!』
「え? 嘘でしょ?」
この日、この時から俺は、口の悪い傲慢な大魔法使いブーゲンビリア様との共同生活と長くて過酷な冒険が俺の身体を介して始まったのだ。