この指に白球を
数年前に坊っちゃん文学賞に応募した作品です。書き直してアップしました。よろしくお願いします。
「松山青雲高校、ピッチャー交代をお知らせします。ピッチャー矢崎君背番号1に代わりまして佐久間君背番号11。矢崎君はライトの守備位置に代わります」
投手交代を告げるアナウンスが流れると、球場内にざわめきが起こった。
矢崎英太は右の掌に打球の直撃を受け、人差し指を突き指してしまったのだ。応急処置を受けたのだが、大きく腫れ上がった指は触れるだけで激痛が走る。とても投げられる状態ではなかった。
夏の全国高校野球愛媛県大会決勝は松山青雲高校対愛媛栄商業高校が相まみれることとなり、古くからの因縁の対決と言われ前評判の高い組み合わせだった。ここ坊ちゃんスタジアムは超満員となり、フアンの熱い視線が二人の選手に集中していた。
プロ入りを表明している青雲高校の矢崎英太は150キロの速球を誇る超高校級、右の本格派だ。ここまで県大会4試合を一人で投げ切り、ゼロ更新を続けていた。一方、愛媛栄商業の、これまた10年に一人の逸材として注目を浴びる桜山希一は、今大会すでに4ホーマーの活躍を見せていた。
どちらが甲子園へと駒を進めるのか、プロ球団のスカウトたちが熱い視線を投げる中マスコミも大いに煽り立ていた。全国の注目が集まる一戦だった。
ここまでは矢崎の投球が冴え渡り、終始青雲高校がリード、スコアを4対0としていた。桜山は惜しい当たりを連発していたが、運にも見放されヒット一本のみに抑えられていた。いよいよ9回裏の栄高校最後の攻撃という場面でのアクシデントだった。
これまで公式戦での出番はほとんどなかった2番手ピッチャー佐久間に最後のマウンドが託された。矢崎は後方ライトの守備位置から佐久間の投球を見守ることとなった。
「4点差ある。大丈夫だ。頼んだぞ、佐久間」矢崎は祈るような気持ちで佐久間の背中を見つめていた。
全校総出の応援だった。学校関係者全員が固唾を飲んで佐久間を見守った。
佐久間の全身から汗が噴き出た。一身に受けた大きな期待。だが佐久間は応えることが出来なかった。
冷静さを欠いていた。制球に苦しみフォアボールを連続で与えて打たれたのだ。あっという間に3点を奪われてしまった。なおもワンアウト満塁の大ピンチとなった。
ネクストバッターズサークルに向かう桜山の威風堂々たる姿はすでに佐久間を完全に飲み込んでしまっていた。
「タイムッ」
これには堪らず監督がタイムを取った。絶体絶命のピンチだ。この場を凌ぐにはやはり彼に頼るしかない。監督はライトの守備位置から矢崎を呼び寄せた。
「矢崎、どうだ。投げられるか?」
「大丈夫です。行きます」
監督のすがるような顔に、矢崎は笑顔で応えた。
ピッチャー交代のアナウンスが流れた。マウンドに向かった矢崎はうなだれる佐久間の肩を叩いた。
しかし、投球練習を始めた矢崎の球はいつもの伸びに欠いていた。それでも彼なら何とかしてくれるはずだ。きっとなんとか……。チームの全員が矢崎に運命を託した。
一人目はなんとか打ち取った。当たり損ねのファールフライに仕留めてツーアウトだ。
あと一人コールが場内を包み込む。
次の打席に桜山が入った。いよいよ宿命の対決が、今大会最後の大詰めで再度実現した。球場が静まり返った。今大会の最高潮を迎えたのだ。
矢崎は鬼の形相で投げた。投げるたびに指には激痛が走る。だがそれをものともせずに投げた。これまでの17年間の人生全てを賭けて投げた。
1球目、外カーブ低めのボール。
2球目、直球インサイド高めボール。
3球目、外の直球。ストライク。
4球目、外へスライダー。空振り。
5球目、直球、外へ大きく外れてボール。
3ボール2ストライク。フルカウントだ。
おそらく最後となるであろうこの一球。矢崎は腫れあがった人差し指と白球を見つめた。渾身の力を込めて魂を込めて投げた。
ど真ん中の直球だった。スピードは150キロを越えていた。
桜山は狙い澄ましたかのように鋭いスイングで白球を捕らえた。ジャストミートした打球はまたしても矢崎を襲った。
咄嗟に右手が出た。左のグラブでは間に合わないと瞬間に判断した。腫れた右の人指し指を打球を掴むために差し出したのだ。
打球がまたしても指に当たった。衝撃が脳髄を貫いた。鋭いスピンが掛かった打球は掌には収まらず、暴れて弾けてこぼれ落ちた。
衝撃は人差し指とさらに中指までをも砕いてしまった。矢崎はうずくまった。ボールは彼の背中で転がり、カバーしたショートがすぐさまキャッチャーに送球したが大きく逸れた。悪送球だ。
ランナー2人がホームへ帰った。試合は逆転サヨナラで決着した。
試合終了のサイレンが響き渡った。
松山青雲高校の甲子園出場はこの瞬間に露と消えた。
暗い病室のベッドの上で、矢崎は右手を包帯でぐるぐる巻きにされ静かに横たわっていた。
「よお、どうだ。大丈夫か」
佐久間が病室に現れると、矢崎は笑顔を見せてゆっくりと起き上がった。
「ああ。右人差し指、中指の複雑骨折だって。全治2か月。骨がバラバラに砕けてるから上手くくっつくかどうか。例えひっついても、この先ボールを握れなくなるってさ。指が曲がらなくなるみたいだ。日常生活には問題ないってことだから……まあ、しょうがないよな」
明るい口調だった。無理に作っているのがわかり過ぎて却って痛々しい。
「本当にすまん。申し訳ない。俺がふがいないばっかりに、こんなことになってしまって……」
「まあええよ。お前が悪い訳じゃない。俺のミスだ」
佐久間は見舞いの品として野球雑誌や野球関連の本を数冊差し出した。
矢崎はありがとうと言いながら、嫌悪の表情を見せた。
「なあ、矢崎。例えピッチャーが駄目でもさ、打者としてどうだろう。野球を続けないか。なあ、そうしようぜ。俺はそのつもりで待ってるから」
佐久間はもちろん本心でそう投げかけた。
矢崎は雑誌を放り投げて静かに背中を向けた。
「悪いけど、投げられない野球人生なんか全く興味がないんだ。野球はもういい。何か別の道を探すよ。俺のことはもういいから」
「そんなこと言うなよ。リトルリーグから中学高校とずっと一緒にやってきたじゃないか。お前は俺にとっては誇りであり目標だ。絶対に届かない雲の上の存在でもあった。今でもそう思ってる。まだまだやれるって。頑張ろうぜ」
「いいから、ほっといてくれよ。もうたくさんだッ」
「そうか。わかったよ。こんなことで挫けるようじゃもう目標でもなんでもない。でもさあ、野球が好きならさ、例えどんなことがあっても続けるんじゃないのか。指が駄目でも腕があるじゃないか。投げてみろよ。右が駄目なら左があるじゃないか。挫けたら、諦めたらその先にいったい何があるっていうんだ」
佐久間の口調は次第に激しくなっていった。
「やめてくれ。いいからもう……慰めは」
佐久間は何も言えなくなった。
「待ってるからな。俺はお前をいつまでも待つよ。じゃあ」
病室を出て行った。
矢崎は毛布をすっぽりと頭までかぶり声を上げて泣いた。
瞬く間に20年が過ぎた。
秋のペナントレース終盤、ここ札幌ドームではパリーグ優勝争いの最後の大詰めを迎えていた。
5試合を残して優勝マジックを1とした北海道ベアーズの今季優勝が掛かった大事な一戦、対戦相手はリーグ2位の神戸オリエンタルズだ。
9回表まで進みマウンドには矢崎が立っていた。彼にとってはプロ入り通算200勝達成となるかどうかの大事な試合でもあった。スコアは3対1、ベアーズのリードは2点。2アウトランナー1塁3塁の場面。次のバッターは今季ホームラン王、打点王の2冠を狙う桜山だった。相変わらずの鋭いスイングを見せつけている。
監督は動かない。今日はどっしりと構えて試合の全てを矢崎に託していた。抑えピッチャーが故障者続出でボロボロ、使えない台所事情もあった。
矢崎は丁寧にコースを突いた。ボールはさほど速くはない。というか100キロも出ていない超スローボールだ。スローカーブを中心に投球を組み立てていた。
2ボール2ストライクと追い込んだ。
矢崎の右人差し指と中指はあらぬ方向へと曲がっている。その曲がった指の間にぎゅっと白球を挟み込んだ。
投げたボールは、打者の手前で微妙な変化を見せて感覚を狂わせる、独自のカーブ、というより魔球だった。
桜山は泳ぐような姿勢でかろうじてバットにボールを当てた。打球はふらふらとライト方向へと飛んでいった。完全に引っ掛けてしまった。
桜山はしまったという顔をしてバットを地面に叩きつけた。
「ライト佐久間、前進前進。取ってアウト。試合終了です。ベアーズ10年ぶりのリーグ優勝です!」
大歓声が巻き起こった。
「そして矢崎英太、とうとう200勝を達成しました。プロ入り19年目37歳での大台到達。リーグ優勝が懸かったこの大事な試合を見事完投勝利で飾りました。そして魔球矢崎スペシャルは今日も健在。お見事」
ウイニングボールを佐久間から受け取り、二人は抱きあった。矢崎の目から思わず大粒の涙がこぼれ落ちた。
やがて監督の胴上げが始まった。大柄な体が10回宙に舞った。
次は矢崎の番だ。2度3度と矢崎の身体が宙に浮かんだ。
(この指のおかげだ。指が無事だったなら、きっとここまで続かなかった……)
大きく曲がった右人差し指と中指を空にかざし、矢崎は栄光の瞬間を味わった。
次は今季首位打者をほぼ手中にしている佐久間の番だった。今日もツーランホームランとタイムリー全打点を叩き出したのだった。
佐久間は育成出身だったが人の4倍5倍の努力を積んでやっとここまで来れた。苦労の人だった。
矢崎が佐久間に後押しされ、同じだけの努力を積み重ねたことは言うまでもない。
「一番はお前のおかげだ。ありがとう佐久間」
佐久間を胴上げする矢崎は涙が止まらなかった。
終わり