其の弐
手を伸ばせばそこに愛おしいと思う命がある。
それがどんなに得難いことか、私はよく知っている。妻と息子は私の宝だ。
それは沖田君がいなくなってからも、いや、いなくなって一層、変わることはない。
よく晴れた日曜の朝。青がどこまでも透き通って青い空。
桜がひらりはらりと散りゆく中、私は竹刀を持って蒼と向き合っていた。しばらくの沈黙のあと、鋭い掛け声と共に蒼が打ち込んできた。私はそれを軽くいなした。いなしながらもまだ幼い息子の内に眠る剣の才に感嘆する思いだった。
剣の才に優れた息子を私が指南出来る理由ははるか遠い過去にある。私は口惜しそうに俯く子の頭を撫でて、妻の待つ縁側に戻った。そこには牛乳とオールドファッションが置いてある。すると現金なもので、食べることの好きな蒼は無念そうな顔もどこへやら、ぱ、と顔を輝かせて私と一緒にいそいそ手を洗うとオールドファッションにかぶりついた。うん、この甘味が牛乳のまろやかさと実によく合う。
「貴方が剣道を習っていたなんて、私、ちっとも知らなかったわ。沖田さんが来るまで隠してたわよね?」
だって私も知らなかったんだもん。
沖田君が来てからだ。思い出したのは。
しかし私はぬけぬけと言う。
「能ある鷹は爪を隠すってね」
妻は、解ったような解らないような曖昧な表情で頷いている。
そしてその日は姪の芽依子の襲来があった。
「やっほー。来たよー」
来なくて良かったよー。
大学生になった芽依子は相も変わらず腐のつく趣味に没頭し、薄い本とやらを拵えているとのこと。沖田君や土方君、斎藤君などがモデルとして出ており、読んだ私の感想は「うわあ……」だった。もちろん、良くはないほうの意味でである。まあ引き籠る訳でもなくキャンパスライフを謳歌しているらしいし、良いか。しかし相変わらず化粧っ気がないなあ。花の大学生なんだから、もう少しお洒落すれば良いのにとはセクハラに抵触する感想かしらん。
「どう? 蒼。真面目に稽古してる~?」
「うん! 芽依子お姉ちゃん!」
くしゃりと芽依子が蒼の頭を撫でる。年の離れた従兄弟を、芽依子は可愛がっている。有難いことだ。今日も薄い本持参したとか言わなきゃ良いのに。流れ上、その本を読んだ(読まされた)私はただ唸るのみだ。あー、土方君と沖田君が恋仲で、斎藤君がそっと沖田君に想いを寄せていると。はいはい。こういうのが需要あるから怖いよなあ。本人たちにはとてもじゃないが見せられない。
「どうも」
「ぎゃあ」
重低音の挨拶に振り向くとそこには斎藤君が立っていた。心臓に悪いよ!
私はすすす、と薄い本を背後に隠し愛想笑いをする。
沖田君や土方君とも違う苦み走った色男は怪訝そうな顔だ。
「斎藤君、久し振り」
「はじめちゃん、やっほー」
芽依子よ。
泣く子も黙る剣豪の斎藤君をはじめちゃん呼ばわり出来るのはお前くらいのものだぞ。
そして無断で薄い本のモデルにしていることに少しは良心の呵責を覚えなさい。
「お久し振りです。蒼の調子はどうですか」
思わず笑みがこぼれてしまう。蒼は、色んな人に愛されている。
「すこぶる良いよ。剣道も上達してる」
「そうですか」
「斎藤のおじちゃんもドーナツ食べるー?」
「どうなつ……」
「西洋のお菓子だよ」
「いただきます」
蒼は土方君だけではなく、斎藤君にも懐いている。元来、人懐こい子だが、剣の腕を尊敬しているのだ。まあ、幕末に生きた剣士たちだからなあ。私より余程良い師匠になるだろう。時々、このようにふらりと現れては、お茶を飲んだり蒼の相手をしたりして行く。斎藤君の剣の指導は、私はおろか土方君より容赦ないものなのだが、蒼は喜んで稽古をつけてもらっている。
「…………」
あの子が、まだあの子でなかった頃のことを思う。過ぎた時間は川の流れと同じで取り戻せない。だからこその今の貴さでもあるのだ。
「良い時代ですね。今は」
ドーナツを食べ、牛乳を飲んだ斎藤君がぽつりと言う。
「そうかな」
「ええ。幕末の血生臭さとは比べるべくもない」
切れ長の一重の目が僅かに細められている。
「今は今で、色々あるよ」
「血の臭いが薄い。それだけでも御の字です」
現代にも様々な問題がある。だが、斎藤君の生きた幕末は時代の転換期、言わば最も血の流れる時代であり、それを生き抜いた彼からすれば、現代は確かにまだまともに見えるのかもしれない。
「ねえねえ、斎藤のおじちゃん、稽古つけて?」
臆せず頼み込む蒼に、斎藤君が優しい顔で笑う。
ああ、君もそんな顔が出来るようになったんだな。
「俺の稽古は厳しいぞ?」
「知ってるもーん」
斎藤君は隊服の羽織りを脱いで、竹刀を持った。無敵の剣と称された男の横顔は、今はとても寛ぎ、安らいで見えた。
芽依子。スマホでの撮影は程々にしなね。