其の壱
春眠暁を覚えず。
布団の中でうつらうつらしている私の下腹部にダイブしてきたものがあった。
途端に私は潰れた蛙のような呻き声を出す。ダイブした主は明るく無邪気な声で声を掛ける。
「お父さん、起きたー?」
「おう、お父さんは沖田だよ~。蒼、いつも言ってるけどその起こし方は苦しいからやめてくれ」
私は今年で五歳になる愛息である蒼に懇願する。
「だってお母さんが、どんな手を使ってでもお父さんを起こしなさいって。じゃないと、シャカイノハグルマからはみ出しちゃうわよって言ってたんだもん」
正論過ぎてぐうの音も出ない。
「ねえ、お父さん、シャカイノハグルマってなあに?」
「今、お父さんがハムスターの車輪みたいにカラカラ回ってるもののことだよ」
「変なのー、お父さんは向日葵の種も食べないのに」
きゃらきゃら笑う蒼の、少し色素の薄い髪の毛をくしゃりと撫でて、私は布団から、蓑から出る蓑虫のように這い出した。
蒼の小さな手を引いて台所に行けば、香ばしい匂いがしてくる。
妻が、フライ返しを持って私たちを振り向き、笑顔を見せた。
「おはよう」
「おはよう」
「ハムエッグとブロッコリー炒めが冷める前で良かったわね」
今朝の献立を聴いた途端、お腹がぐぐう、と鳴るのだから我ながら現金なものだ。蒼と一緒に食卓に着き、いただきますと声を揃える。蒼は保育園に通っているが、基本的に行きは私が送っている。何のことはない、会社に行く道の途中だからだ。そして蒼は剣道場にも通っていて、行きは一人だが帰りは遅くなるのでこれも私が迎えに行く。庭を見れば桜が盛りで、私はふと、沖田君のことを思い出して、蒼を見た。解っている。あの沖田君はもう、どこにもいない。今はこの子が、蒼がいる。
沖田総司は愚かだったと苦しんでいた魂は、今、安らかだろう。そのことが、一抹の寂しさを感じる私のささやかな救いだった。
その日は晴天だった。春の柔らかな薄絹めいた空気が人々を包み込むようで、私は会社の帰り、直接、剣道場に出向いた。外はもうすっかり日が落ちていた。町内会の理事長が道場主の剣道場で、蒼は威勢の良い掛け声を上げて稽古に励んでいた。私の顔を見た理事長がにこにこ笑みながら来る。
「蒼君は本当に素質がある。末恐ろしいお子さんを持たれましたな」
「恐縮です」
「沖田さんも相当、お遣いになるのでは」
「いえ、私は蒼に比べると素質などからきし」
「ご謙遜を。ああ、沖田と言えば……。蒼君の剣筋は、彼の剣豪・沖田総司に似ていますな。書籍で読んだものですが」
ぎくり。
「そうですか? それは光栄だなあ」
目を泳がせながら返事をするが、理事長の眼光は鋭い。その眼光がふ、と緩む。
「ま、良しとしましょう。蒼君。お父さんが見えられたよ。そのくらいにしておいで」
「はい!」
帰り道、蒼の手をまた握りながら、夜空の星を数えつつ歩く。この小さな手の、どれ程愛おしいことか。この手と引き換えに沖田君は消えたのだ。妻と、息子と。私の宝だ。
「ねー、お父さん、今日のご飯何かなあ」
「お母さんがカレーライスだって言ってたぞ。蒼の好きな国産牛肉がゴロゴロ入ったやつだ」
「お口の中でホロホロ崩れるやつ?」
「そうだよ」
「やったあ!」
私と手を繋いだまま、ぴょんと跳ねる。
帰り着いた私は、リビングのチョコレート色のソファに来客の姿を認めた。
「あ、土方のおじちゃんだ!」
蒼が私の手を振りほどき走り寄る。
そう。今、我が家のソファーに座る優男こそ元祖イケメン・新撰組の鬼の副長、土方歳三である。
「やあ、土方君、いらっしゃい」
「お邪魔してるぜ」
馴れ馴れしいと言うなかれ。私と彼の間には確かな友誼があるのだ。少なくとも私と彼は互いを認め合っていた。……反目していた、過去もあったが。
「土方君、カレー目当てで来たでしょ」
「何のことかな。蒼、真面目に稽古してるか?」
「してるよ! おじちゃんにだってその内、勝つよ!」
土方君の顔が笑み崩れる。あこれ、女子には堪らんだろうな。
「そいつあ楽しみだな」
それから皆で食卓を囲む。蒼を中心に、和やかな空気が流れている。
私はたまに思うのだ。もしあの時、沖田君が消えなかったらと。私は彼の存在に拘泥していた。彼がいてさえくれれば本物も偽物もどうでも良いと思った。だが、沖田君が正しい判断をしてくれたからこそ、彼は狂気に身をやつすことなく、そして蒼が生まれてくることになったのだ。
年かな。涙もろくなったかな。いや、これはカレーが辛いせいだ。蒼はカレーを食べるのに忙しく、妻と土方君は私の顔を見ないようにしてくれた。
私はスパイスの効いたカレーと共に、今の幸福を噛み締めた。
この上なく幸福な、春の夜だった。




