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困った。男は先程目の前で倒れた子供を見て、肘を抱えて顎に指をあてた。
この辺り一帯には侵入した者を術者に感知させるための結界が張られ、その結界を張ったのがこの男であり侵入者の確認と協会への報告までが務めであったりする。
何が来たのかと思えば浮浪の子供が一人。
子供一人にぎゃあぎゃあと騒ぎ立てたくはないし、かと言って黙っていれば敵国の人間を匿ったとかで因縁付けられるし。兎角、人間は困るのだ。
男は気怠そうに少年の胴に腕を回すと、掛け声とともに一息に持ち上げた。
「かんっる!」
何日も食事をとっていないのだろう少年の身体は想像よりも軽く、饐えた臭いがした。もう少し長く放置していたらきっと死体と勘違いしていたかもしれない。
「よっこらせ、っと…やぁと運び終わった」
言葉にしては大して苦労することなく男は少年を家に運び入れ床に寝かせた。タンスの引き出しから取り出した麻布で身体を拭いていると、足の裏に痣があることに気付いた。目を凝らす。
「……数字か?かなり古い文字だ。なんでこんなもんがガキの身体に……」
「――…うぅん」
黙考しかけたところで耳に届いた呻き声に顔を上げる。
少年はまだ意識がはっきりしないなか、ぼんやりとかすむ目で回りを見ているようだった。
男は顔にかかった髪を横にどけてやり、目の中を覗き込んだ。少年の目は雲一つない空の色をしていて、髪同様、睫毛も薄い灰色を帯びていた。
「ここ、は……」
「大丈夫か。水持って来てやるからちょっと待ってろな」
男は水差しの水を杯に移して少年の口に当てた。
ゆっくりと水が飲み下されていくのを見ながら男は次の水を注いだ。それを何度か繰り返してやっと落ち着いたところで男が訊いた。
「お前、名前分かるか。ていうか言葉通じてるか?この辺じゃ見ない髪色だし、サルベストの人間でもないよな。おい、どこから来た」
「ん……水」
「水?まだ飲むか?」
「…水の、音がする。ずっと…ずっと」
水、か。海でも渡って来たんかね。
大陸の外は未だ誰にも暴かれず知られていない場所が多い。だから外から来た人間はすぐに判るし、その分捕らえやすい。人一人でも、未開の地に関する情報は喉から手が出るほど欲しいものだ。
このガキが協会の奴等に見つかりでもすりゃあ都合の良い研究対象として何されるか――。
男はすぐに頭を振ってその考えを打ち消した。
碌でもない考えだ。少なくとも今目の前にいる子供に聞かせる話ではない。
「俺はウェルトンのアルフォンスだ。お前の名前は?」
「……パル」
「パル、何?」
「……パル」
それ以上何を言うわけでもない少年を見て、アルフォンスは額に手を当ててため息を落とした――その時、扉の外から戸を叩く音がした。
「おい開けろアルフォンス、居るのだろう」
「うへえ、めんどくささが増した…ヘイヘイ、開けるからちょっと待て」
辟易して肩をすくめる。アルフォンスはパルを抱きかかえて本の陰に隠すように寝かせ、服かけにかけていたタオルで顔の上半分を覆った。
「おい、聞いているのか」
「わーかってるって。たく、年々うるさくなるな」
ぶつぶつと文句を言いながら向かうアルフォンス。扉を開けた先に待ち構えていたのは、予想通り、不機嫌な顔のイグノルだった。イグノルは開口一番に言った。
「貴様、異民を匿っているな。隠さない方が身のためだぞ」
「何だよ藪から棒に。異民なんかいねえよ。行き倒れのガキならいるけどな——っと」
アルフォンスの軽口を遮るふうに、イグノルが胸倉を掴んだ。
二人の間に流れる空気が凍り付く。
「ならばそのガキとやらを見せてもらおうか……誤魔化すなら今上手い理由を考えろ」
「なに、監視でもされてんの?こんなイケメンに囁いたりなんかしちゃって」
「うるさい、早く中に入れろ」
アルフォンスはイグノルが家に入るのとほとんど同時に視線を森へやり、ゆっくり扉を閉めた。振り返り見ると、イグノルが相変わらず寝ているパルの横に膝をつき、しげしげと見降ろしていた。身に付けていた協会支給の外套は、許可を与えるまでもなく近くの椅子に丁寧に折りたたまれて置かれていた。
「…この少年は何処の者だ。この髪、この肌の色…大陸の者ではないだろう」
「知らん。俺もさっき拾ったばかりだ」
アルフォンスは肩をすくめて見せた。
イグノルが眉間に刻まれたしわを軽く揉んだ。
「協会にはどう報告するつもりだ。場合によっては牢獄行きになるぞ」
「あら心配してくれるの、イグノルってばやーさしっ――」
「茶化すな!」床を殴りつけるイグノル。「ただでさえ貴様は協会の上層部から恨みを買っているのだ。これ以上目を付けられるような素振りを見せるならば、本当に命を失いかねんぞ」
「そうなりゃ協会は勢力の半分を失うことになるだろうな……ま、俺は一向にかまわないぜ?」
不敵に笑ったアルフォンスはいつの間にか用意していたマグカップをイグノルに差し出した。中身の入ったそれをイグノルは静かに受け取り、一言、「頂く」とだけ言って口を付けた。そして口に広がるお茶の渋味の中に、ほのかな酸味を感じ顔を上げた。
「カリツの実か」
「行ってもらいたい所がある。魔力消しの実の力がうってつけの頼みだ」
「だからといって不意打ちで飲ませるな」
「秀才のイグノル君なら一口で分かるだろう?現に一発だったし。それに既存の相殺魔術で解ける程度だ。問題ない。で、その効果で外の奴を撒いてここに行ってほしい」
すでにテーブルの上に広げられていたウェルトン国内の地図をトンと指さした。パルと木箱が流れ着いた砂浜だ。
「こんな場所に何がある」
「パル――あ、そいつの名前な――が海を流れてきたらしくてさ。入って来るならここしかないだろ。もしかしたらそん時の痕跡が残ってるかもしれないから、行って回収してきてくれ」
「承知した。回収した物は私が調べよう――邪魔をした」
置いていた外套を着直し、イグノルは部屋を後にした。
残されたアルフォンスは空になったマグを流し台に戻し、パルに視線を向ける。
タオルで顔半分を覆われた少年は浅い呼吸を繰り返している。しかし、アルフォンスの耳がふとした瞬間、その呼吸音が詩のような言葉に変わるのを聞き取った。
「最後は皆、地上で散った。散った、散った、ちった」
言葉が終わり、パルがまた寝息を立てるのを見ながらアルフォンスは考えた。
『最後は皆…か』
フラッシュバックする過去の光景がパルの言葉と重なった。
それは十年前、アルフォンスが魔術師教会の要請により魔術大戦に出兵していた時の事だった。死闘によって四方八方を炎に包まれながら前方を見据えるアルフォンスの目には、自らを燃やし尽くしていく兵器たちの影がゆらゆら揺れていた。いまだ夢に現れるその姿は、当時少年であった彼にとっても蜃気楼の如く捕らえ処のないままだ。
「やべぇ、変なことまで思い出しちまう」
掻き上げた前髪に覆われていた瞳の色は、深く淀んでいた。