笑顔
今回も楽しんでくれると嬉しいです。
「ーーねぇ、アリア……人間にとっての幸せとは、一体何かしら?」
窓から日が差し込み、小鳥の囀りが耳に付く。
あの後、一睡もせずに朝を迎えたアシュレーは、現在鏡の前で、アリアによって髪を結われていた。
「アシュレー様、突然如何したんですか?」
アリアが手を止め、不思議そうな顔で問う。そんな彼女に、アシュレーは長い睫毛を伏せた。
「別に……何となく疑問に思って……」
ポツリと呟く。アシュレーは、決意を固めてから、一晩中、ずっと考えていた……幸せになる方法を。
だが、幾ら考えても、幸せになる方法は疎か、自分自身の幸せすら、アシュレーには分からなかった。
ーー手を伸ばせば、伸ばすほど、『幸せ』なんてものが遠く感じられて仕方がない。
「はぁ……」
アシュレーは、小さく溜め息を吐く。そんな彼女を他所に、アリアは首を捻ると、悩ましげに呻く。
「うーん……難しい質問ですね……幸せは、人それぞれ違いますし……」
「ーーじゃあ、アリアは?アリアの幸せは、何?」
顔を上げて、鏡越しにアリアを見つめる。そんなアシュレーの問いに、アリアは目を見開いた後、ふわりと微笑んだ。
まるで花が咲くかのように。
「それは、勿論ーーアシュレー様にお仕えする事です。」
「アリア……」
目を輝かせて断言するアリアに、アシュレーの紺碧の瞳が揺れる。
彼女が自分の侍女で、本当に良かったーーそう心底思うと同時に、かつて王妃だった時、彼女の前で自死を図ってしまった事が、申し訳なく思えて、仕方がない。
そして、改めて思うーーこんなにも自分を慕ってくれるアリアの為にも、死して尚、心から愛してくれている母の為にも、絶対に幸せになろう、と。
「アリア、ありがとう……大好きよ。」
改めて決意し直し、アシュレーは鏡越しに、微笑む。その笑みは、天使も斯くやという程、美しいものだった。
アリアの頬が薔薇色に染まる。そして、感極まったように、ふわりと笑みを象る。
「アシュレー様、永遠にお支え致します。」
アリアの一言一句が、胸に沁みる。アシュレーは、胸に湧き上がる温かな感情に手を当てながら、長い睫毛を伏せた。
§§§§
身支度を整え、髪を結い終えたアシュレーは、窓際にある椅子に座りながら、家庭教師が来るのを待っていた。
今日は、午前に、音楽の家庭教師がやって来るーーと言っても、アシュレーの中身は、二十五歳であり、かつて学んだ事は、全て頭に入っているし、身に付いている。
故に、本当は、父の揃えた国の誇る家庭教師達など必要ない。
見下されても、アシュレーは王妃だったーー教養も、勉学も、完璧であり、政に対する造詣も深いのだ。
それなのに、また、あの厳しく嫌味な家庭教師達に、会わないと行けないなど、反吐が出る思いだった。
「はぁ……」
深くため息を吐き、ぼんやりと窓の外を見つめる。
そんな元気のないアシュレーを、傍に佇んでいるアリアは心配そうに見つめた。
「アシュレー様、大丈夫ですか……?」
「ええ、大丈夫よ……」
返答したアシュレーの声には、明らかに元気がない。アリアは、そんな彼女を明るくしようと、あたふたしながら、言葉を弾ませた。
「ア、アシュレー様!今日は、とっても良い天気ですね!」
「……そうね……」
「こ、こんな良い天気だったら、街であるお祭りも、とても賑わいますよね!」
何となく発したアリアの言葉。それに、ピクリとアシュレーは反応する。
「……お祭り?」
視線をアリアに移し、アシュレーは問いかける。そんな彼女に、アリアは戸惑いつつ、頷いた。
「は、はい……今日は、国王陛下のお誕生日ですから……」
その言葉に、アシュレーはハッと思い出したーーローデンヴィージャでは、現国王の誕生日に、どんな小さな村でも、祭りを行う事を。
リーゼハルトの時もそうだった。
まぁ、アシュレーは産まれてから一度も、祭りに参加した事など無かったが。
「お祭り、か……」
睫毛を伏せ、祭りが開かれているであろう、領内の街に想いを馳せる。
馬車の窓からしか見た事がない。父親からは、祭りは疎か街さえも、自由に行く事は許されなかった。
ああ、でもーー。
「いいな……」
ポツリと呟き、はにかむ。祭りや街の事を思い浮かべると、心が弾む。
そんな少し明るくなったアシュレーに、アリアは微笑む。
「アシュレー様は……祭りに行きたいのですか?」
その問いかけに、アシュレーは儚く微笑む。
「……ええ。行きたいわ……無理だと分かっているけれど、一度でいいから、行ってみたい……」
青空の下を自由に歩いて、露店を見て回りたい。そして、気に入ったものがあったら、自由に買ってみたい。
公爵令嬢である事も、自分の身に起こった出来事も、全て忘れて。
ふっと切なげに笑う。そうして、アシュレーは、哀しみを称えながら、睫毛を伏せたーーその時だった。
「じゃあ、行きましょう!」
突然、アリアがアシュレーの手を握り、声を上げた。
その声色は、決意に満ちて、晴れ晴れとしていた。
「えっ……?」
顔を上げて、小さく声を上げる。そんなアシュレーに、アリアは声を弾ませる。
「今までお勉強、とても頑張って来られたんですから、秘密に息抜きしたって良いですよ!お祭りは、とても楽しいですから!色々な店があって、色々な人が居て、とっても華やかで……」
滔滔と話を続けるアリアに、アシュレーは酷く戸惑う。
「で、でも、アリア……私はーー」
秘密で屋敷を抜け出し、祭りに参加するなんて、大問題だ。バレたら、あの恐ろしい父親に、頬を叩かれるだけでは済まない。
それにーー。
「アリアは……どうなるの?」
バレたら、自分の侍女である彼女だって、酷い目に遭わない筈が無い。
あの冷酷無慈悲な父親が、彼女の事を許す筈が無い。
娘にでさえ、容赦が無いのだから。
故に、そんなハイリスクな事、出来る筈が無い。
ーー絶対に無理だ。
「私には、無理ーー」
行きたい感情を封じ込め、ポツリと呟く。
そうして、一粒の涙を零した時だったーーアリアが、アシュレーの頬に手を伸ばしたのは。
「アシュレー様、顔を上げて下さい。」
優しい手の温もりに、ゆっくりと顔を上げる。すると、其処には、慈愛に満ちた表情をした、アリアの端正な顔があった。
そのまま、彼女はゆっくりと口を開く。
「アシュレー様、今朝、私に幸せを問いましたよね……その時に私、一つ言い忘れました。」
「えっ……?」
「私の幸せは、アシュレー様に仕える事と……」
一呼吸置いて、アリアはふわりと笑う。
「アシュレー様に笑顔になってもらう事です。」
その言葉に息を呑む。そんな目を見開くアシュレーに、アリアは話し続ける。
「アシュレー様、どうか、笑って下さい……貴方が笑顔で居てくれさえすれば、何も恐れる事はありません。必ず、私が貴方を守りますから。」
ぼろぼろとアシュレーの目から、大粒の涙が零れ落ちる。アリアは、そんな彼女を抱き締めると、優しく言った。
「アシュレー様……此処とは違う世界を、一緒に見てみませんか?」
その言葉に、深く心を抉られる。
耐え難い感情が、漣になって押し寄せる。アシュレーはグッと拳を握りしめると、立場も何もかも忘れて、叫んだ。
ーーただ只管に、心から。
「見たい……見たいわッ、私はもう、何にも縛られたく無いッッ!!」
閉塞された世界では、呼吸が出来なくなる。従順に生きるのには、もう疲れた。
今度こそは、ただただ自由に、何にも恐れる事なく生きたい……そう、心底思う。
ーー幸せを見つける為に。
アリアから離れ、涙を拭う。そして、アシュレーはふわりと笑うと、アリアを真っ直ぐ見つめた。
「ありがとう、アリア……私、お祭りに行くわ。今度こそ、自由に生きるの。」
日差しが、前を向くアシュレーの横顔を照らす。
それは、凛として、とても美しかった。
次回も読んでくれると嬉しいです。