後篇
しばらくの時間経過の後。
朝のシャワーから俺が戻ると、久美子は、部屋着ではなく少し余所行きの服に着替えていた。
「朝食は、スパゲッティにしましょう」
「ん? パスタの買い置き、あったっけ?」
わざとからかうように、そう俺は言ってみる。久美子の意図は、なんとなくわかっていたのだが。
「かー君の意地悪。外食よ、外食!」
「ああ、うん。『サードハウス』へ行こうか」
なんだかんだで、もう昼に近い時間帯だ。近所のお店――パスタとケーキが美味しいという『サードハウス』――も、そろそろ開店している頃だろう。
部屋を出た俺たちは、手を繋いで歩く。いわゆる恋人繋ぎだが、付き合い始めた頃――というより付き合い始める直前――は、もっとギュッと密着する雰囲気だったので、これでも大人しくなったと感じる。
「……あれ?」
久美子の呟きに、あらためて彼女の顔に視線を向けると。
その頬に、不自然な水滴が一つ。
何だろう、と思うまもなく。
ポツリ、ポツリと、俺の頭や肩にも雨が落ちてきた。
「降ってきちゃったな」
傘を取りに帰るべきか。そう思いながら、空を見上げる。
まだ本降りという感じではない。小雨だから、しばらくの間は、傘なしでも大丈夫そうだが……。
「そういえば、天気予報なんてチェックしてなかったわね。そろそろ梅雨の時期なのに」
確かに、久美子の言う通りだ。いつ雨が降ってきても、おかしくないシーズンだった。
そう考えると同時に。
「梅雨か……」
俺の頭の中には、全く違うイメージが浮かんでいた。
その少し後。
テーブルを挟んで座る久美子は、仏頂面になっていた。
彼女を鼓舞するかのように、俺は、努めて明るく言う。
「やっぱり美味いな、ここの麺は」
「そうだけど……」
久美子も、同意はしてくれる。
俺と同じく、定番メニューのざるそばをすすりながら。
「……でも、私たち『サードハウス』へ行くはずだったのよね? なんで『蕎麦の小山』にいるのかしら?」
ここは「学生でもリーズナブルな値段で本格的な手打ち蕎麦が楽しめる」という評判のお店。
あの時『梅雨』という言葉から、つゆに浸して食べる『蕎麦』を連想したので……。
俺は急遽、行く先を変更したのだった。
「久美子だって、文句は言わなかったじゃん」
一応『サードハウス』より『蕎麦の小山』の方が近い、という理屈もあった。雨が本格的に降りそうなら、より近場の方が良いはずだ。どうせスパゲッティも蕎麦も、どちらも麺類だし。
まあ、そこまで久美子には説明しなかったが……。
黙って俺に従ったのだがら、彼女も理解してくれている。そう俺は解釈したのだった。
「かー君って、思ったより勝手なところ、あるのよねえ」
今頃になって言う久美子を見ていると、『思ったより勝手な』という言葉が心に引っ掛かって、ふと考えてしまう。
俺は中学も高校も男子校だったせいか、大学に入ったばかりの頃は、女性と喋るだけで緊張していた。
やがて普通に接することが出来るようになってからは、人並み程度に、恋愛も経験するようになった。
それでも。
誰と付き合っても、三ヶ月くらいで別れることになってしまう。
久美子とは、その『三ヶ月』ラインを越えたので大丈夫かと思ったが……。
これまで色々な女性から何度も聞かされた、あの言葉。「こんな人だとは思わなかった」とか「もう気持ちが冷めてしまった」とか、俺にとっては呪詛のようなセリフ。
それが久美子の口から出る日も近いのだろう。そんな嫌な予感と共に、俺は蕎麦を飲み込むのだった。
(「梅雨だから」完)