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雪の花  作者: 雉ヶ坂子子
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 エルリオットの父が治めるラジーク法国は大陸の中央部に広大な国土を持つ。

 古くは大陸全土を統治していたと伝えられるが、幾度カの戦乱ののち今の形へと安定した。しかし、けして国力が衰退したわけではなく、現在において、ラジークは大陸内で他に肩を並べる国がないほどに繁栄と安寧を保っている。

 国のほとんどが温和な気候により作物の実りが良く、東には大陸で最も険しいながら鉱物を排出する山岳を持ち、南には山脈より伸びる大河が通る。大型船も行き来可能な港が国の南部にいくつもあり、中型の船を用いれば国の隅々まで伸びる川により交易も盛んになっている。

 正式な礼装に着替えながら、エルリオットは自分が知る限りの母国の状況を思い浮かべつつ通された部屋に目を配った。

 神を尊ぶムルカでは王宮にあたる場所が、今エルリオットがいるこの大神殿である。

 歴史書にも称えられるようになった母国の自室よりも、いささか手狭な部屋は装飾こそ少ないものの綺麗に掃除は行き届いている。

 エルリオットがラジークの王子である以上、他国では国賓として大切に扱われる。おそらく他国の賓客たちも祝辞に訪れているのだろうが、ラジークは大陸一の国家だ。成人していないとは言え、ラジークの王子を粗末に扱えるはずがない。

 すなわち、この部屋こそがムルカの中枢の中で最も優美な客室ということになるのだろう。

 ラジークとムルカの国力の違いを目の当たりにし、エルリオットは目を伏せた。

 いつのことだったか、ようやく読み書きを覚えたばかりの頃、エルリオットは一人でラジーク王宮の図書館へと足を運んだ。

 文字の読み書きは裕福なラジークの民にとって当たり前の教育とされているが、書物などはとても高価な値段で取り引きされ、大きな街にでも行かなければ目にすることさえ稀であった。そんなことなどまるで知らず、たくさんの本の並びを見上げ、幼い少年だったエルリオットはドキドキと胸を躍らせた。

 今までは乳母や女官達にせがんで読み聞かせてもらっていた本が、自分の目で読むことができる。小さな自分の手でも持つことができる薄い本を棚から取り出し、幼きエルリオットは日が暮れるのも忘れて本の世界に没頭した。

 文字を目で追うたびに次々と広がっていく世界は、なんとも言えない高揚心を与えた。

 その日以来、エルリオットは作法や剣術の勉強が終れば、好きなだけ本を読むようになった。王宮の図書館にあるすべての本を読み終えたのは、ちょうど10才になって数日後のことだった。

 その本の中に、ムルカの伝承を記した書物も含まれていた。

 管理が行き届いた王宮の図書館にありながら表紙の一部が擦り切れ、中の紙までもがよれていた本はその一冊だけであったため、今でも良く覚えている。

 後になって聞いた話では、その本は母が祖国から持ってきたものであったという。

 従者が後ろで構え持つ薄青の上着に袖を通しつつ、エルリオットは細く感慨深い息を吐き出した。

 今、自分は本でしか知りえなかった世界にいる。

 母が大切に大切に携えてきた、本の仲の世界に。

 そう思うと、切ないまでに胸がチクリとうずく。

 母の顔は、もうおぼろげにしか覚えていない。

 先端に玉が飾られた銀糸で織った帯紐を閉め、伏せていた目をゆっくりと開く。

「さあ、参りましょう」

 従者が静かにエルリオットを促す。

 その声に小さくうなずき、エルリオットは簡素な客室を後にした。

 まだ成人の儀も終えていないエルリオットが、使節団の代表に選ばれムルカを訪問したのには訳がある。その役目の為にも一度客室を出れば気を抜くなど出来ない。

 少年が後にした室内では、鈍く赤く光る黒石の小山が暖炉で音もなく火を弾いていた。






「ムルカに神のご加護を」

「新族長に神のご加護を」

 ムルカの伝統に倣い、済んだ水が入れられた杯を胸元より少し高い位置で両手で持ち上げ、大国ラジークの王子は深々と頭を下げた。

 今、一段高くなった祭壇上では新たにムルカの民の長となった男に、杯に入れられたものと同じ水が滴として掛けられている。

 数十人の神官達が三ヶ月も掛けて清めたという水はムルカの旧神殿から湧き出る神聖な泉から汲み取られたものらしい。エルリオットが過去に呼んだ伝承にも、その泉による数々の奇跡話がいくつか記されていた。

 その代表的な話が、まだムルカが未開の地であった時代に、すべての川や泉が氷に閉ざされている中、その泉だけが清涼な水を湛えていたという。それを見つけた男は神の奇跡に違いないと、その地に神殿を建て、神を称える国を興したというものだ。

 現在ではそれがムルカの始まりとして、ムルカの民には信じられている。

 祭壇では高らかに聖句が述べられ、そしてそれが終ると同時に男は堂々と立ち上がり、参列する人々へと振り返った。

 遠めには白としか見えない法衣をまとったその男は、やや恰幅の良い体躯はしているが、それが逆にどこか人の良さそうな穏やかな男の顔を引き立てている。なにより、その瞳の柔らかな青い色味が、人柄までもを杯に入れられた水のように澄んで見せた。

 ムルカでは王という地位はない。

 あくまでもムルカを統治するのは神であり、民を神の御心に従って導くのが神官の役目である。

 その神官の長こそが、ムルカの民の長となる。

「我が神の御心のままに」

 胸の前で両手を合わせ、男は高らかにそう宣言した。

 人々の間から盛大な歓声が上がる。そして周囲の挙動に倣い、エルリオットは杯の水をぐいっとあおった。

 いささかピリリとした刺激を舌先に与え、水は喉元をするりと落ちていく。しかし、喉を通ったあとには不思議な清涼感が身を潤してくれた。

 これがムルカ立国の味なのだろうか。

 壇上では白い法衣に身を包んだ神官達が、神を称える歌を歌っている。

 不思議な国だ。

 歌の伴奏として、見事な手捌きで楽器の弦を弾く一人の神官の指先に見惚れながら、エルリオットは神官たちの歌声に酔い痴れた。

 歌も儀式も、たしかに華麗なものだ。

 だが、どこか荒涼とした侘しさを感じるのは、開かれた宴がラジークのそれよりも閑散としているだけではないだろう。

 新たな長を迎えながらも、他国からの賓客にもムルカの人々の顔にも喜びの色は見えない。歓声をあげた者たちですらも、どこか気もそぞろで落ち着かない様子だ。

 壇上で杯を傾ける長の満足気な表情を見やり、エルリオットは周囲に漂う異様な空気との差に唇をギュッときつく結んだ。

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