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潮騒の音

今回は普段とは毛色の違う話ですので、普段のノリが好きな方はご注意ください

「……あんた今何時だと思ってんですか」

 深夜、けたたましい着信音に叩き起こされて聞かされた第一声がこれだった。

『海だよ。海に行きたいんだ』

 傍若無人にも程がある。文句の一つも言おうと思っていたのだが、電話越しでもはっきりと分かる声の震えに気付き、それを引っ込めた。

 代わりに、あーと意味の無い音を喉から絞り出し、その間に考えを巡らせた。

「それじゃあ今から迎えに行きます」

 支度する時間と到着までの所要時間、それから深夜で道が空いていることを差し引いて、到着予測時間を伝えて電話を切った。

 頭を掻きながら寝床から這い出て、まとわりついている寝汗を冷たいシャワーで洗い流せば、頭も少しは回り出す。

 手早く身支度を整え、財布と車の鍵、それにスマホと携帯電話を持って部屋を出る。

 薄暗い街灯の下を歩いて、借りている駐車場へと向かう。夏の虫が五月蝿いくらいに鳴く夜だ。昼間に比べてかなり過ごしやすい気温ではあったが、空調の効いた室内とは比べるべくもない。そろそろ汗が出そうだというタイミングで、アスファルトの敷かれた住宅街の中にぽっかりと空いた砂利の地面が見えた。土地の持ち主が駐車場として貸し出している場所だ。

 ようやく運転に慣れてきた車は、街灯の光も届かない夜闇の中で佇んでいる。手早く乗り込みエンジンに火を入れてシートベルトを締めると、この夏で何度も通った目的地までの道を走り始めた。昼間の風景しか知らないものだから、まるで違う三を走っているようで不安になる。それでも時折見覚えのある建物を見つければ、道は間違っていないのだと確信できた。

 危なくない範囲で、法律を守りながら、それでも可能な限り急いで。先輩の住む建物の前へと辿り着いたのは、先程予告しておいた通りの時刻だった。

 停車してからスマートホンを取り出し、到着した旨のメッセージを送る。程なくして、ジーンズにシャツというラフな格好の先輩がやってきた。

 正直、到着した段階で外に居るのではないかという懸念もあった。大人しく部屋の中で待っていたようで、少しの安堵が胸に湧いた。

 先輩は何も言わずに助手席に乗りこむと、真っ先にカーナビの操作を始めた。いつもは横からでも表情が見えるのだが、今は髪の毛に隠れて伺えない。見守っていると、勝手に目的地をセットしてシートに勢い良く背を預けた。

「シートベルトは締めてくださいよ」

 返答は無かったが、しっかりと手は動いた。かチャリという金属質な音を確認して、カーナビの示す通り、海へ向かって出発した。

 

 車内は静かだった。いつもは騒がしい先輩が黙り込んでいたし、いつのまにかカーステレオも消音されていたからだ。エンジンの唸るような駆動音、空調が冷たい風を吐き出す低音。タイヤとアスファルトの擦過音。頼りないヘッドライトが進行方向を照らしているが、頼りになる光源は街灯だ。

 今は声を掛けない方がいいだろう。そう思い、途中で眠気覚ましを買うためにコンビニへと寄る際意外は話しかけなかった。先輩も終始無言を貫いたから、必然的に奇妙に静かなドライブになる。

 小一時間ほどナビの指示に従って進むと、ついに目的地に着いた。

 道路沿いにある停車できそうなスペースを見つけてそこに停めると、先輩はやはり無言のままで車を降りた。

 そんな先輩の後ろを、やはり無言でついていく。

 潮の香りというには、生臭さの方が強かった。風は穏やかだが確かに吹いていて、汗ではないベタつきが確かにここは海辺なのだと感じさせた。引いては寄せるさざ波の音だけが耳に届く。静かな夜だった。

 先輩も流石に浜辺へと降りるつもりはなかったのか、堤防の上をゆっくりと歩いている。かと思えば不意に立ち止まり、海を見て、その場にぺたりと座り込んだ。

 しょうがないので先輩用に買ったペットボトルのお茶を彼女のすぐ側に置いてから同じように座り込んだ。

 運転中から飲んでいたカフェオレに口をつける。甘みの強い味付けが、寝不足の頭にはちょうど良い。

「疲れた」

 ぽつりと、本当に小さく。気を抜いていれば聞き逃しかねないほどの小ささで先輩が呟いた。

「そうですか」

「あぁ、疲れた疲れた」

 再びの沈黙。潮騒の音。波の音。そんな音しか聞こえない。

 今日は月が出ていて、星の煌めきも見える。夜空の綺麗な良い夜だった。

 濃紺の空に浮かぶ星々と、黒く、暗く、本当に何もかもを吸い込んでしまいそうな水面のあちこちに、月明かりで浮かんだ白波が生まれては消えていく。

 こちらから先輩には話し掛けない。

 普段から明るくて、騒がしくて、いつも笑顔を浮かべているこの人が。悩んだり、落ち込んだり、時には何かに八つ当たりしそうになることがあるという事を知っている。

 例えば、大学構内で見かける顔。頼り甲斐のある、綺麗で、芯のある人柄ということになっている。

 知らないけれど、家族の前で見せる顔。聞いた愚痴から察するに、生活態度や仕草から注意深く躾けられそれ相応の振る舞いを要求されるのだとか。

 それぞれの場所で、それぞれの立場で。

 自らを偽っているということではなく、どれが本当の自分というわけでもない。それぞれがすべて先輩という人間なのだ。

 ただ。

 例えば、実家に帰ること自体は苦痛でなくても、求められる立ち居振る舞いをするのに酷く心を砕く必要があれば。

 それは、疲れることだろう。

 だから先輩の疲れというのはそういうことだ。

「やはり、月が綺麗ですねと言うべきだろうか」

 ほんの少し調子を取り戻したのか、それでも平坦な声音で先輩が言う。

「死ぬわけにはいかないんですよ。帰り道の運転があるので」

 そうか、と先輩が少しだけ笑った。

 自惚れと勘違いで無いのなら。先輩が、この人が、油断しきって気を緩めて無警戒になっているのは、自分といる時だ。

「じゃあ、帰ろうか」

「もういいんですか」

 もういいよ、とまるで鬼ごっこの始まりのように先輩が言う。

 来た時よりも足取りは軽く、表情は明るく。

 この人がこういう表情に戻れるのなら、夜中に叩き起こされるのも悪くない。まあ、連日となると身体が保たないのだけれど。

「では頼んだよ、専属運転手」

「給料を請求しますよ」

「……金で君の時間が買えるというのは、もしかしておトクなのでは……?」

「真剣に悩むな」

 いつものように、くだらないやりとり。

 帰りの車内が騒がしかったのは、言うまでもないだろう。

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