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さくら、わるいことした?


 リハビリは順調に進んだ。最初は松葉杖とさくらに体を支えてもらい、立つことからで、左手に松葉杖、右手にさくらで10分立つことができれば、今度は杖とさくらを反対にして行う。それができたら時間を少し伸ばして行った。

 家でも同じリハビリをして、一ヶ月もすれば、片方20分、休憩5分はさんで、もう片方20分、計40分立てることができるようになった。

 そして、新しいリハビリが始まった。

 『歩く』リハビリだ。

 はじめは左手に松葉杖、右手にさくらで、やってみた。

 まずは松葉杖を前に出すことだ。僕は立った状態で左手の松葉杖を前に出す。そして、左足を前に一歩出す。

 ここからだ。僕は緊張で額に汗を浮かべながら口を開く。


「ムーブ」


 僕がさくらに言う。さくらが少し前に進む。そして僕はそれに合わせて右足を前に一歩出した。


 一歩だけ、歩いた。 


 その瞬間、前より大きな拍手が教室をつつんだ。みんなが笑顔で、僕のところへ「おめでとう」って言いにきた。僕は「ありがとう」って言った。

 お母さんはやっぱりその時も泣いていた。でも今度は立っていた。

 さくらは口を開いて、舌を見せて僕を見ていた。


 僕は言った。


「ありがとう、さくら」



 歩くという感覚は案外自転車と同じようなもので、体が覚えていればすぐに感覚を取り戻すことができるって、ヤスちゃんが言っていた。僕は自転車を運転したことがないから分からないけど、そういうことらしい。

 僕が三歳になるまでは普通に足で歩いていたので、僕はだいたい8年ぶりに一人(と言いたいところだけれど、さくら付き)で歩いたことになる。


 それから僕は何度もそのリハビリをくりかえした。

 とにかく歩く練習だ。松葉杖を使って何度も同じ歩行訓練を行った。

 すると脇が痛くなった。西本さんの言う通りだ。思っていた以上に脇が痛い。

 松葉杖にタオルを巻いたりしたけど、あまり効果はなかった。脇が赤くなって、シャワーをすると、しみて痛かった。

 足もそうだ。足の装具の内部は柔らかいけど、動かすたびにこすれて、僕の皮膚を傷つけた。足にテープを巻いたりしても、やっぱり痛くなる。

 でも、痛ければ痛いほど、僕は歩くのが上手くなっていってる気がして嬉しかった。


「ケガは恐くない。それは成長の証だ」


 ヤスちゃんが言っていた言葉だ。僕はその通りだと思った。


 それに歩くのも恐くなかった。


 たまにヒザに力が抜けてこけそうになることがあったけど、「倒れそうになったらさくらにしがみつきなさい」と髙野さんの言う通り、僕はさくらにしがみついた。

すると、さくらはガッシリと僕を支えてくれた。


 さくらは絶対に倒れなかった。だから、僕は恐くなかった。

 こける事よりも、僕はもっともっとさくらと歩きたかったからだ。



 このリハビリを始めて、早くも二ヶ月が過ぎた。本当にあっというまだった。



 夏休みになって、僕には学校の宿題とは別に、リハビリ教室からも宿題を渡された。

 家でもしっかり、歩行訓練をすること。これが皆にはない、僕だけの宿題だった。


 二ヶ月のリハビリで僕は、百歩も歩けるようになっていた。これはかなりの進歩だ。だけど、歩行訓練を家の中でするにはせますぎた。だから僕は家の前の道でリハビリを行っていた。


 地面は固いコンクリートだ。だから僕は体を守るためにヘルメットやプロテクターをつけてリハビリを行った。だけど今は夏だ。この格好はかなり熱い。だから歩行訓練の時間は早朝と夕方に決まっていた。


 リハビリにはいつもじっちゃんが横についていた。お母さんは仕事でいないから、じっちゃんが畑仕事を始める前と、終わった後にリハビリを見ていてくれた。

 僕が松葉杖を使い、さくらに支えられながら歩く。最初は慣れない地面で、何度もこけそうになったけど、僕が前にこけそうになるとさくらが頭で支えてくれて、僕が後ろにこけそうになるとじっちゃんが支えてくれた。


 それを繰り返すうちに、こけそうになる回数が減ってきた。ちょっとずつだけど、足に力がついてきて、バランスもとれるようになった。立つだけなら、松葉杖だけで立てるようになったんだ。

 これにはみんな、喜んでくれた。お母さんもじっちゃんも、リハビリの先生やリハビリのお友達もみんな笑顔になってくれた。さくらも舌を出して笑っていた。


 そうして僕は夏休みの間、ずっと歩行訓練を行ってきた。

 夏休みはお母さんが忙しくて、どこかにお出かけすることはほとんどなかったけれど、僕は寂しくなかった。さくらがいたからだ。


 それにじっちゃんが近くの川に釣りに連れていってくれたりもした。もちろん、さくらも一緒だった。

 釣れた魚をさくらに見せると、すごく慌てていた。さくらは魚を鼻でつついては、魚が飛び跳ねて、ビクッ!ってなって後ろに飛び退けて魚をじっと見つめて、魚が静かになるとさくらはまた鼻でつついて、魚が動いて、さくらはビクッてなって、また魚をじっと見つめていた。


 僕はそのさくらの様子がおかしくて、じっちゃんと何度も笑った。

 お腹が痛くなるくらい、アゴが痛くなるくらい、笑った。

 さくらが来てから、たくさん笑顔を見ることができた。たくさん笑顔になることができた。

 さくらがいれば、なんだってできる気がした。ずっと遠く、見えないくらい遠い遠いところまで歩いていける気がした。

 


 夏休みが終わる八月の最後の日の朝に、僕は一つ、じっちゃんにお願いした。


 家の前の、じっちゃんの畑を一周したいと言った。


 普通の人なら五分で歩ける距離だ。だけど、それを聞いたお母さんはとても難しい顔をした。


「少しそれは早いんじゃないの?何かあったらどうするのよ、危ないわ」


 お母さんは心配そうに言った。だけどじっちゃんは僕の頭をなでると、


「できるんか?」


 と聞いてきた。僕は正直、できるとは思っていなかった。でも、


「やりたい」


 そう思い、言葉に出した。


「よっしゃ!」


 じっちゃんが手をパンッ!と叩いた。


「それなら、夕方にやろか、ワシの仕事もそんなないし、明るいうちにできるやろ」

「お父さん!そんな無茶を言っちゃ駄目よ!」

「リカ、ワシはヒロの歩く姿を夏休みのあいだ見てきた、歩くんも長くて家から畑までやったけど、ワシは行けるんちゃうか思う。なによりヒロがやる言うとるんや。その気持ちを押さえつけても良いことはないやろ。そのせいでヒロは今まで良くならんかったんちゃうか?」

「でも・・・」

「ワシがおるがな。それに、この犬もおるやろ。なんか色々できるみたいやし。ちょっとはワシもこの犬を信じたろ思うてな」

「・・・うん」


 お母さんが、しぶしぶうなずいた。


「よし、決まりや。ヒロ、今日はがんばろな」

「うん!」


 僕は大きな声で返事した。



 夕方になるまで、僕は家の中で何度か立ち上がりの訓練をした。


 前まではさくらの力を必要としていたけど、今は壁に取り付けてあるバーを持てば立つことができる。少し足はガクガクと震えるけど、僕は頑張った。だって、となりでさくらが見ているからだ。「がんばれ」って応援してくれているからだ。


 ある程度の自主リハビリをこなしていると、夕方になった。

 お母さんは仕事で帰りが少し遅くなるらしい。あまり長く待っていると、日が傾いて暗くなり、足元が見えなくなるから、じっちゃんと僕とさくらの三人で畑の周りを歩くことになった。


 僕は今、松葉杖とさくらに支えられて立ち、畑を見ていた。


 畑の周辺の長さは、だいたい家が20軒分、大人が歩いて五分、車いすをこいでも十分はかからない距離だ。それが僕にはすごく長く、遠く思えた。


 僕は大きく息を吐いて、覚悟を決めると、口を開いた。


「行くよ、さくら、ムーブ」


 僕が松葉杖を前にだし、そしてその後に足を出す。それをさくらが支える。

 ゆっくりと、一歩一歩、まるで亀が歩くようなスピードだ。そのスピードで歩く僕にあわせて、さくらも一歩一歩ゆっくりと歩いた。

 僕はゆっくりと、だけれどペースを下げることなく歩いた。

 少し辺りが暗くなったころには、畑の半分まできていた。


「少し休憩しよか」


 後ろにいたじっちゃんが言う。じっちゃんは車いすを押してついてきていた。


 僕は車いすに座って、休憩した。少し、いや、けっこう疲れた。病院でも同じ距離を歩いたことがあるけど、それとは違って、初めてなこともあってドキドキするせいか余計に疲れがあった。

 じっちゃんに水筒を渡されて、僕はごくごくとスポーツドリンクを飲んだ。

 疲れた時に飲むドリンクはすごく甘く感じた。


 じっちゃんが畑のすみに生える小さな木から、実を何個か取ってきてくれた。


「今年は涼しかったからな。まだなんとかキイチゴが残っとる」


 僕はその赤くてツブツブの実がなったキイチゴを食べた。


 それはすっぱくて、でも甘くてプチプチしておいしかった。


「キイチゴもこれが最後の実やな。いつもこの頃には子供が全部かってに食ってまうからな。運が良かったわ」


 じっちゃんがムッとして言う。


 このキイチゴは子供に人気だった。よく車で学校に送られるさいに窓から登校する小学生を見ていたけど、みんなプチプチとキイチゴを取って食べていた。


 僕はその姿を羨ましく見ていた。いつか僕も自分の手でキイチゴを取って食べたいと思っていた。


「ほれ、犬、最後のキイチゴや、ありがたく食え」


 じっちゃんがキイチゴを手に乗せて、さくらの口元に持っていく。しかし、さくらは口を開くどころか、そっぽを向いてしまった。


「なんや?ワシの育てたキイチゴを食べたくないんか?」


 じっちゃんが何度もさくらの口に持っていくが、さくらはプイプイッと横を向いて、それを拒否した。


「じっちゃん、さくらはお皿に乗ったものしか食べないんだよ」


「なんや、食べ歩きはせん言うんか、犬のくせに上品やな。ゆとり教育っちゅうやつか・・・」


 じっちゃんはつまらなさそうに言う。


「ワシが子供の頃は落ちとるもんでも食いよったのにな。ここらには犬も野良がよおけおったのに、てんで見いひんなったし、代わってべべ着てすました犬が歩き回っとるわ。ほんで人の手伝いする犬やろ、時代も変われば犬も変わるんやな」


 僕とさくらは、じっちゃんが何を言っているのか分からず、首を傾けて話を聞いていた。


「まあ、ええわ。ほれ、もう暗くなってきたし、そろそろ行こか、残り半分や」

「うん!」


 僕は残りの力を起こすように、大きな声で返事した。


 さくらに体を支えられ、車いすから立ち上がると、畑の残り半分の距離と、僕の家が見えた。


「行こう、さくら、ムーブ」


 僕とさくらは前に進んだ。

 暗い道、僕は足元に注意しながら、ゆっくり、ゆっくり、前に進んだ。

 家が、帰る場所が、どんどんと近くなっていく。

 畑の虫や、カエルの大きな鳴き声が、僕たちを包んでいた。まるで僕たちを応援しているかのようだった。


 あと少し、僕は一度、足元から視線を前に向けた。するとそこにはお母さんが待っていた。


「あっ!」


 よそ見したせいか、僕はつまずいて、ヒザから前に倒れた。


 手を地につけて、頭を打つことは防いだ。ヒザはプロテクターが守ってくれていたから痛くはなかった。けど、松葉杖を持っていた左手は、手のひらは地面にこすって、血がにじんでいた。


 僕の様子に、お母さんがあわててこっちに来ようとしていた。


「大丈夫!待ってて!」


 僕は大きな声でいった。お母さんは、それを聞いて、足を止めた。


 後ろにいるじっちゃんは、何も言わなかった。


 僕は、真っ赤な手のひらを見つめる。すると、さくらが僕の手のひらをペロペロとなめた。


「・・・うん、大丈夫だよっ!」


 僕は言った。さくらは口を開いて、舌を見せた。


「さくら、ダウン」


 さくらがしゃがむ、僕はさくらに上体を預ける。とても大きな背中だ。


「さくら、アップ」


 さくらと一緒に、僕はゆっくり立ち上がる。


「さあ、あと少しや、行ってこい」


 じっちゃんが拾った松葉杖を僕の左手に渡す。

 僕は脇に松葉杖をしっかりと挟んで、頷く。


「さくら、ムーブ!」


 僕は、僕たちは進んだ。帰る場所に向かって、一歩一歩、一生懸命に進んだ。

 あたりはすっかり真っ暗だ。でもぼくたちは真っ暗を抜けて、玄関からあふれる優しい光の中へと入っていった。


「おかえり」


 お母さんが言った。


「ただいま」


 僕が言った。


 玄関の庭で立つ僕に向かって、お母さんが走ってきた。別に走る距離じゃないのに、全力で走ってきた。


 走ってきて、僕はお母さんに力強くだっこされた。

 小さな僕の体は赤ちゃんのように、抱き上げられた。

 そして、ぐるぐると回された。


「もう、恥ずかしいよ、お母さん」


 僕は照れながら言った。

 でもお母さんは止めてくれなかった。

 まるで踊っているかのようにくるくると回らされた。

 お母さんは僕の言うことが耳に入らないくらい嬉しいんだと思った。僕も嬉しかった。

 すると、さくらが、大きく立ち上がった。


「え、なに!?」


 お母さんが大きく目を開いて、さくらを見る。

 さくらが立ち上がると、お母さんより大きかった。恐いと思うほど、大きかった。

 そんなさくらが、大きな体で、大きな前足でお母さんを、ドンッと押した。


「きゃあッ!」

「うわぁっ!」


 お母さんと僕は倒されて、地面に体を打ち付けた。


「いたたた、さくら?」


 僕はさくらを見た。なんでこんなことするの?ってさくらを見た。

 さくらは、僕のところに歩いてこようとした。だけど、


「なにをやっとんのじゃあッ!」


 さくらの横腹に、じっちゃんの蹴りが入る。

 蹴られたさくらは地面を転がった。


「リカ、ヒロ、大丈夫け?怪我はないんか?」

「う、うん。私は大丈夫、お尻を打っただけ」

「僕も、背中を打っただけだから」


 お母さんと僕は言って、さくらの方を見た。

 さくらは、頭を下げて身を丸め、小さくなって震えていた。


「さくら、なんでこんなことしたの?」


 さくらはじっと、どんぐりのような大きな目で、こっちを見ていた。

 頭を大きく下げ、上目づかいで、ふるえながら、こっちを見ていた。


「そんなん聞いても犬が答えるかい!やっぱり、犬は犬やなっ!何をするか分かったもんやないっ!」

 

 じっちゃんが吐き捨てるように言った。


「さ、はよ家の中に入り、手を怪我しとったやろ、中に入って手当てせな」


 じっちゃんに言われ、お母さんが僕を抱きかかえて、家の中に入る。


「あっ、ねえ、さくらは、さくらは家に入れないの?」

「あんな何するか分からん犬、家に置いとけるかい!」


 じっちゃんは言って、さくらのリードを玄関の柱にくくりつけた。


 その日、さくらは庭につながれて、夜を過ごした。


 僕の部屋は、久しぶりに広く、寂しくなった。



※この犬の飛びつく行為なのですが、困ったことにたまにいるんですよね(笑)

 さくらの場合は次の話で判明しますが、飛びつく理由というのも様々なんですね。

 甘えたり、寂しかったり、恐かったりで、犬も生き物ですから飛びつきたくなるのでしょう(笑)

 

 もちろん、盲導犬でそれは失格です。

 滅多に介助犬で飛びつく犬はいませんし仕事中は犬も仕事を優先します。

 ただON、OFFも犬にはあり、OFF時、つまり仕事以外では犬も甘えたりジャレたりします。

 じゃなきゃストレスで最悪死んでしまいますからね。

 盲導犬の寿命が短いのもストレスが普通の犬よりストレスの負荷がかかるからだそうです。

 もちろん、それを苦に感じず、長生きする子もいますけどね。

 話を戻しまして、このOFF時の行動でジャレてのし掛かれたという話はたまにあります。

 これで盲導犬の契約解除は時折耳にしますね。


 ただこれ、日本では厳しいだけであって、海外ではよくあることなんだそうです。

 勢いよく飛びつくのは危険なんで厳しく躾けられますが、ゆっくりのしかかるという行為を躾けることは少ないようです。

 というのもハグの文化でしょうかね。ハグは愛情を注ぐツールのようなものですから。

 欧州なんかは犬に対して家族として迎えることも多く、人と同様、犬に対しての法律が厳しい反面、意外とそういう部分はゆるいのですよ(笑)

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