さくらはね、力持ちなんだよ!
朝が来た。
僕はいつものようにお母さんに起こされる。そして着替えて、車いすに乗って、トイレに行って、顔を洗い、歯をみがいて、ごはんを食べる。
いつも通りの朝だ。でもこの後に少しちがう部分がでてくる。
この後はいつもテレビを見るんだけど、僕は車いすをこいで、大きなバケツのような箱の前に移動する。そのバケツにはスイッチがあって、それを押すと、バケツからカラカラとエサが出てきて、お皿に一定の量が落ちてくる。
その音を聞きつけて、さくらがゆっくりとこちらに近づいて来る。
「朝ごはんだよ、さくら」
さくらがエサの入ったお皿の前でお座りをする。
僕が「お手」と言ったら、さくらが僕の手に前足をのせる。「おかわり」と言ったら反対の足をのせてくる。
そして、僕が「よし」と言えば、さくらはご飯をモサモサと食べはじめる。
たくさんあったご飯は数えるうちに無くなった。もし僕がさくらのご飯を食べるとしたら30分はかかる量なのに、あっという間だった。
きっと僕のご飯をさくらが食べたら、まばたきする内になくなるんだろう。
さくらが、空のお皿をぺろぺろとなめて、その後に鼻で皿をつつきカラカラと音をたてる。これがさくらの「ごちそうさま」らしい。
さくらが家に来て3日が過ぎた。その間に、色々とさくらのことをお母さんから教えてもらった。
さくらにはさくらの生活の時間割があるらしい。だいたいで、どこどこの時間で、ごはんやトイレとか決まっているんだそうだ。僕はその時間割にそってさくらにご飯をあげる。
これが僕の一日に新しく加わった、僕の仕事だった。
ご飯を食べ終えたさくらのお皿をお母さんが片付ける。
「そうそう、ヒロ、上着が椅子にかかってあるから、もうちょっとしたら着といてね。今日冷えるらしいから」
うん、と僕はうなずく。
今からおでかけなのだ。どこに行くかと言えば学校なんだけど、僕の学校に行くのではない。今日は別の学校へ行くんだ。
さくらが来たのが水曜日で、3日が過ぎて、今日は土曜日になる。そう、髙野さんとした約束の日、さくらと一緒に犬の学校に行く日だ。
そこで、僕がさくらにどう助けてもらったらいいかを教わるらしい。
この3日間は特にさくらには何もしなかったし、してもらわなかった。お母さんがさくらの散歩をさせて、僕が車いすをこいでついて行くくらいだ。散歩の場所はじっちゃんの畑の周りをぐるっと回る。それくらいだ。
だけど、今日は初めてさくらと車に乗っておでかけする日だ。さくらは車でじっとしていられるのかな?それに犬の学校ってどんなのだろう?そこでなにをするんだろう?
ちょっと不安で緊張するけど、ワクワクもしていた。
さくらもあちこち、キョロキョロと僕やお母さんの動きを見ている。
いつもはじっと床で寝ているのに、なにかソワソワしていた。
きっと僕やお母さんの会話を聞いていて、おでかけをすることを分かっているのかもしれない、なんて思った。
「さあ、時間よヒロ、行きましょう。さくらにハーネス付けたから、リードはヒロがつないでね」
「うん分かった」
これも僕の仕事だ。さくらと散歩に行くときは、お母さんがハーネスをさくらにつけて、僕がリードと呼ばれるヒモをつなぐ。さくらもそれを理解しているようで、リードを結んでもらうために、僕のところへと一人でやってくる。
さくらが僕の前で背中を見せる。そこにはリードのヒモを繋ぐフックがあった。
僕はカチャリと、リードのフックとハーネスのフックを結ぶ。
これで準備完了。僕は車いすで玄関を出て、外用の車いすに乗り換える。そして車いすから車の座席へと移った。
家用の車いすから外用の車いすへ、外用の車いすから車の座席へ、計2回、移乗をした。お母さんにだっこされて移してもらった。
でも、もし、僕がさくらに助けてもらえるようになったら、お母さんの助けはいらなくなるのかな?
ちょっと、その姿が想像できなかった。でもそうなったらいいなって思った。
「ヒロ、もう少し右によって、さくらが乗るから」
お母さんが僕の座る反対側の座席のドアを開く。僕は腕を使ってお尻を右に少しずらした。
「それじゃあ、さくら行くよ、ジャンプ!」
するとさくらがゴワッって車に乗ってきた。もうピョンって感じじゃない。ゴワッて感じだ。
僕はさくらのスゴいジャンプに、思わず体を後ろにかたむける。ぶつかるんじゃないかって思ったからだ。でもさくらはぶつかることなく、座席に静かに着地して、お座りをする。
「はぁ、びっくりした」
僕が言うと、すぐ横にいるさくらは首を傾げる。どうかしたの?ってさくらに聞かれてるみたいだった。
僕はそれが恥ずかしくて「なんでもないよ」って言った。
「さあ、乗ったね、行くよ」
お母さんが言って車を発進させた。
車の中はせまかった。助手席に座らず、さくらと一緒に後ろで座るって言ったのは僕だけど、まさかこんなにせまいとは思わなかった。
この車の後部座席には大人が3人座れるくらいに広いし、僕だと5人は座れるだろう。だけど、さくらは席の3分の2、いや4分の3を使って座っていた。
せまいし、さくらの息も臭いし、熱いし、すごく嫌だった。帰りは助手席に座ろうと思った。
そんなさくらは、僕の気持ちも知らないで、前の窓から外の景色をながめていた。
犬の目はすごくいいって聞いたことがある。きっと僕には見えないものをさくらは見ているんだろう。
「さくら」
ぼくはなんとなく、さくらの名前を呼んだ。するとさくらは僕の方を見た。
特に用事はない。だけどさくらはこっちを見て、僕が何かを話すのを待っていた。
でも僕は何も言わなかった。するとさくらはまた、窓の外へと目を移した。
「さくら」
また僕は呼んだ。またさくらはこっちをみた。そして僕が何も言わないと、また外を見る。
そんなことを、犬の学校に着くまで、何回もやった。
「さくら」
犬の学校にやってきた。自然の多い緑に囲まれたその学校は、大きなフェンスで囲まれていて、そのフェンスの中で犬たちが訓練をしていた。
それを車いすに乗った僕と、地面にお座りをするさくらが並んで見ていた。
「ここでさくらも介助犬になる勉強をしたんだよ」
ブルーの作業服を着た髙野さんが歩いてきた。
「あっ、おはようございます」
僕はあいさつをする。さくらはしっぽをふった。
「やあ、おはよう、ヒロ君。さくらもおはようって言ってるね、それと久しぶりとも言った」
「さくらは本当にそんなこと言ってるの?」
「言っているさ、さくらが今年の春で三歳になるまで、ずっと一緒にいたんだ。それくらい分かる。ヒロ君も3日、さくらといて、何が言いたいのか少しは分かったんじゃないかな?」
「ん~どうかな?ほんの少しだけ、分かるかも」
「そのほんの少しが、1ヶ月、2ヶ月になると大きくなっていくんだよ。なっ、さくら」
髙野さんはさくらの頭をなでる。さくらの顔はいつも通り、少し口を開いて舌を見せていた。でもしっぽはさっきよりも強くブンブンと横に振れていた。
きっと、「そうだね」ってこたえているのかもしれない。
「あ、先生、おはようございます」
受付に行っていたお母さんが戻ってきて、髙野さんにあいさつをした。
「あぁ、川島さん、おはようございます。どうです?さくらの様子は」
「ええ、すっごい大人しいんですね。こんなに静かで鳴かない犬は初めて見ました」
「あはは、そうですか?まぁ、それくらいは簡単な訓練でどの犬でもできるんですけどね。でもさくらはもっとすごいことができるんですよ。それを今から学びに行きましょう」
髙野さんは言って、僕たちを一つの部屋に案内した。
部屋は広く、学校の多目的ホールのような場所だった。
その場所に一人、見知った顔があった。
前に僕が病院で入院していた時から、今もお世話になっているリハビリの先生だった。名前はヤスヒコ先生だ。僕はヤスヒコ先生をヤスちゃんと呼んでいた。病院ではみんなそう呼んでいたからだ。
「やあ、ヒロ君、来たね。聞いたよ、このまえ学校でこけたんだって?」
「あ、うん、おはよう・・・ヤスちゃん」
僕は言葉を詰まらせながら言った。
「あっはっは、落ち込んでるね。でも怪我をしないで強くなる方法はないからね。そりゃあ、怪我しないにこしたことはないけど、そのぶん強くなっているはずさ」
「うん、そうだね」
僕は頷いた。本当はそんなことで落ち込んでいるんじゃないんだけど、それを口には出さなかった。
「さて、それじゃあ始めようか」
髙野さんが両手を打ち、前に立つ。
「今からさくらの扱いについての授業をするよ、ヒロ君。あっ、ちょっとドキドキしてるね?大丈夫、それは僕も同じだから。リハビリの先生に見られながら、授業するのっていつも緊張するんだ、なんだか参観日みたいだ」
髙野さんが笑顔で言って、ヤスヒコ先生が苦笑いで返す。
「ぼくがするのはリハビリ面での監修ですから、犬は関係ありませんよ」
「そうだね。それじゃあ、説明するよ。川島さん、さくらをお借りしますね」
はいどうぞ、とお母さんがリードを渡した。さくらはリードに従って髙野さんについていく。
「それじゃあ、さくら、ダウン」
髙野さんの指示で、さくらがフセをした。
「これでさくらはしゃがみます。指示を出すときは、名前を言ってから指示を出すこと。それでここからなんですが、ぼくが床で横になってさくらにしがみつきます」
髙野さんがさくらと同じように床にふせ、さくらの体に両脇を乗せる。
「そしてこう言います、さくら、アップ」
するとさくらは、大人の髙野さんを持ち上げながら立ち上がった。
「すごい、すごいんだねさくら」
僕はビックリして言った。
「すごいだろ、言っとくけど、ぼくの足は全然力を入れていないのに、簡単に持ち上げたんだ。ぼくの体重は70キロを超えるのにね。これで、もっと軽いヒロ君ならどうなるだろうね、ポーンって投げ飛ばされると思う?それが大丈夫なんだよ、さくらはパートナーに合わせて動いてくれるかしこい子だからね」
そうなんだ。僕はうなずく。僕もこんなふうにさくらに支えてもらえるんだろうか?
「で、ここからなんだけど、歩く方法を説明するね、まずはしっかりと進む方向を見ること。さくらはパートナーの目を見て、進む方向を理解するんだ。そして、こう言う。さくら、ムーブ」
するとさくらは髙野さんを背に乗せて前へと歩き出した。髙野さんの上体はしっかりとさくらに乗り、足は地面をずりずりと引きずられていたけど、さくらはなんともない顔で前へと歩いていた。
「ねっ、すごいでしょ?本来は松葉杖も使って移動するんだけど、これについては、まだその段階じゃないんで今後になるね。そして止まる時はこう言うんだ。ステイ」
そう言うとさくらはピタリと止まった。
「しっかりと止まったね。そして最後にこう言うんだ。さくら、ダウン」
するとさくらは体をゆっくりと床に下してフセをする。髙野さんはさくらにしがみついていた腕をはずして、床に座った。
「どう?こんな感じだよ。かんたんでしょ?」
「す、すごい!すごいよさくらっ」
「本当にかしこいのね、さくらちゃん」
僕とお母さんが拍手をした。
さくらは、僕たちの拍手に、大きなあくびで返した。
「わぁ、あくびしたね。きっとこんなの簡単だよって言ったのよ、ヒロ」
「あはは、生意気だね、お母さん」
「いや、ちょっと騒がしくてイヤだなって言ってるんです、これ」
髙野さんが言った。
「せっかくほめたのに、生意気ね、さくらちゃん」
「うん・・・」
お母さんと僕が言って、さくらは首を傾げた。
「簡単な説明はこれくらいで、なにか質問はあるかな?」
髙野さんが聞き、僕は「はい」と手をあげる。「どうぞ」と髙野さんが言う。
「進みたい方向を見たらさくらが進む方向を分かるって言ってたけど、さくらは前を向いてるのに、後ろに乗ってる僕の顔が見えるの?」
「おっ、いい質問だ。実はね犬の視界は広いんだ。人間が200度くらいなら、犬は280度くらい見えるんだよ。あっ、視界って分かる?目が見える広さのことね」
知っている、と僕はうなずく。
「それともう一つ、さくらは何度もこっちを見て、パートナーを確認してくれるんだ。『こっちで合っていますか?』ってね。間違っていると気付いたらすぐに止まるし、次の指示を待つんだ」
「へぇ~、そんなこともできるんだね~」
「移動はちょっと、今は無理かもだけどね、さくらと一緒に簡単なリハビリを続けていたら、すぐにできるようになるよ」
「そうなんだ」
そうだといいな、と思った。いや、そうなりたいなと願った。さくらと一緒に歩くのは、きっと楽しいはずだからだ。
「じゃあ、ここからは髙野先生に代わりまして、わたくしヤスヒコが教師を務めます」
「はい、お願いします」
僕が言って、礼をする。続いてお母さんも礼をした。
「まずは簡単な立ち上がりの訓練からになるね。さくらちゃんを使っての訓練は、体力を考えて1日20分で行うよ。毎週日曜日にヒロ君はリハビリに先生のところに来ているね。そのリハビリに追加して行う。それが上手くいったと先生が合格をだしたら、おうちでもリハビリをしてると思うけど、それにさくらちゃんを使った立ち上がりの訓練を追加してもらう。ここまではいいかな?」
うんうん、と僕とお母さんがうなずく。
「で、最初の訓練だけど、いきなりはヒロ君もさくらちゃんもお互いに慣れていないから、まずは、しがみついて乗るところから始めようと思う。立ったたり座ったりはなしで、車いすからさくらの背中にしがみついたり、離したりをしてもらうよ」
「うん分かった!」
僕は元気よく返事をした。
「あっはっは、早くリハビリをしたいって顔だね、そんな顔、病院では見たことないぞ~?」
そうかな?僕は少し恥ずかしくなった。
「よし、じゃあ、さっそくやってみよう。髙野さん、さくらをお願いします。ぼくはヒロ君を支えますので、川島さんは車いすをお願いします」
ヤスちゃんが指示をだして、さくらが車いすに座る僕のところへとやってくる。
そして僕に向かって90度横に立ち、僕が背中に乗るのを待っていた。
「それじゃあ、腕をさくらの背中の上に通して、場所は必ずハーネスの上だよ、そこが安定しているから、そこ以外はダメだからね。できたらさくらの反対側、ハーネスについてる取っ手を両手で持つんだ」
指示通り僕はさくらの背中を包むように腕を回し、僕とは反対側にある、さくらの横腹辺りにある布でできた取っ手を掴んだ。
「じゃあ、乗ってみようか?」
ヤスちゃんに言われ、僕は取っ手を握る力を強め、体を引っ張って、上体をさくらの背中に乗せる。
「うん、乗ってるね、じゃあ、川島さん、車いすを引いてください」
太ももにふれていた車いすが、後ろに離れる。
今の僕は、完全にさくらの背中に乗っていた。
足には力がほとんど入っていない。僕は体のぜんぶをさくらに預けていた。
「お~、すごいすごい」
お母さんが言う。でもこのすごいはさくらに言ってるんだ。僕は乗っているだけでなにもしていない。
「じゃあ、次にさくらの体を下げてもらうよ、さっきの髙野さんの言葉を言うんだけど、足に気を付けてね、さくらに踏まれないように折り曲げるんだ。正座をするような形でね。じゃあ、やってみよう」
「あっ、はい、さくら、ダウン」
するとさくらはゆっくりと床に体を下げる、同時に乗っていた僕の体も下がり、お尻がぺたんと床についた。
「できたね。どうだった?」
「えと、わかんない」
ヤスちゃんに聞かれて僕はそう答えた。
犬に乗るなんて初めてのことだから恐かった。でもさくらの背中はすごく大きくて、あったかくて、気持ちよくて、なんだかよく分からない気持ちだった。
「脇の下は痛くなかった?」
「うん、大丈夫だった」
僕が言うと、ヤスちゃんが、うんうんとにこやかにうなずいた。
「そうか、髙野さん、さくらの体高って何センチ?」
「背中は70ちょいだね。さくらは3歳だから、伸びたとしても少しだけだね」
「ヒロ君は脇下65センチってとこか、これから成長するだろうし、もう少ししたら、ちょうどいい感じになるな」
「うん、身長が伸びてもハーネスで調整できるから、多感な時期にはかなりいいパートナーになってくれると思うよ」
「そうなってくれると、ヒロも私も嬉しいです」
大人たちが色々とお話をしているなかで、僕はさくらの真っ白な頭をなでる。さくらは、僕の顔を見て、口を開き、舌を見せた。
そのまま、さくらがじっとこっちを見てくる。
さくらの目を見てると、僕は大丈夫だと思った。よく分からないけど、大丈夫なんだと自信がでてきた。
それで、ぼくは床にフセをするさくらの背中に両脇をのせて、さっきみたいに両手でハーネスの取っ手を掴む。そして、言った。
「さくら、アップ」
すると、さくらはゆっくりと立ち上がって、僕の体を持ち上げた。
「こら、ヒロ、なにやってるのっ!」
お母さんが悲鳴をあげるみたいな声で僕を叱る。
「先生の指示もなしに、勝手にしたらダメでしょ!」
「そうだよ、ヒロ君、ぼくも犬を使ったリハビリは初めてなんだから、せめて介助がないと、何か起こっても対処できないかもしれないだろ?」
ヤスちゃんが困った顔で言う。
「ごめんなさい、でも、できると思ったから。ねぇ、このままさくらを歩かせてもいい?」
「ヒロ、またそんな勝手なこと言って、まだ早いって先生が言ったでしょ!」
お母さんがまた叱ってくる。僕はヤスちゃんを見る。ヤスちゃんはアゴに手を置いて、難しい顔をする。そして、重く口を開く。
「・・・できるのかい?」
「うん!」
僕はさくらにしがみついたまま言った。体はぜんぜんしんどくない。
「髙野さん、いけそうですか?」
「ええ、さくらはむしろ、それを待っていますよ」
「そうですか・・・じゃあ、やろう。本当は色々と計画を作ってするんだけど、やりたいと思ったら、やるべきだ!」
先生二人のお許しがでた。髙野さんはさくらの横に、ヤスちゃんは僕の横に位置する。お母さんは僕を心配そうに見ていた。でも僕は、ワクワクしていた。
僕はさくらの顔の向こう、進行方向を見て言った。
「・・・さくら、ムーブ」
僕は言った。すると、さくらの頭、背中、お腹、足、全部が動いた。
それと同時にフワッと、僕の体が横に動く。
「あっ」
ぼくは慣れない体の動きに思わず取っ手を掴んでいた手に力が抜けて、さくらからずり落ち、べたんと、お尻を床についてしまった。
そのまま勢いで後ろにごろんと転がりそうになったけど、それはヤスちゃんの大きな手が守ってくれた。
「ヒロ、大丈夫?」
お母さんが心配して聞いてくる。
「だいじょうぶ」
僕は言った。そしてもう一回言った。
「だいじょうぶ」
これはさくらに言った。さくらは僕がさくらの背中から落ちてすぐにフセをして、僕の体にぴったりとくっついてきた。そして、じっと僕の顔を見ていた。
僕はもう一度、取っ手を握り、さくらの背中に体を預けた。
「さくら、アップ」
すると、さっきみたいに、簡単に僕の体を持ち上げた。
今度はもっとしっかり取っ手を握りしめる。
「さくら、ムーブ」
さくらの体が、前へと動き出す。でも、今度はさっきみたいにフワッてあまりならなかった。ゆっくりとゆっくりと、進みだす。僕を乗せて進みだす。
僕の足はずるずると引きづられているけど、そんなのおかまいなしに、さくらは歩いていた。
「さくら、ステイ」
さくらが、ゆっくりと動きを止める。
「じゃあ、ヒロ君、少しそのまま待っていてね。川島さん、車いすをヒロ君のお尻に持ってきてください」
ヤスちゃんの指示で、お母さんが僕のお尻に車いすを近づける。
「じゃあ、ヒロ君、手を離して、車いすに座ってみて」
「うん」
僕は手を離して、ポンと車いすに座った。
「できた」
「あっはっは、できたねー。すごいね、こんなにできるんだね」
ヤスちゃん嬉しそうに言う。その隣で、お母さんも嬉しそうだった。
「まぁ、すごいすごい、これならさくらにどこまでも連れて行ってもらえそうね」
「そうですね。でも、さくらはあくまで補助なので、それが可能になるかはヒロ君次第です。でも、この様子だとうまくいきそうですね」
髙野さんが言い、ヤスちゃんがうなずく。
「ええ。二人ともすごく安定していますしね。これなら、色々とメニューを組めそうです。きっとすぐにクリアしていきますよ。ね、ヒロ君」
「う、うん」
どうなんだろ?それはよく分からない。でも、すごく楽しかった。
まるで、船を動かす船長になったみたいで、とても面白かった。
僕はさくらの頭をなでる。するとさくらは車いすに座る僕のヒザにアゴを置いた。
「しっかし、すごいんですね~犬って、こんなことまでできるなんて」
お母さんが言った。
「ええ、犬は介助だけでなく、災害救助や捜査にまで役立ちますからね。すごくかしこくて、たくましいんですよ」
髙野さんが誇らしげに言った。
「いやぁ、僕もまさかここまでとは思っていませんでしたよ。それにさくらちゃんって女の子でしょ?それなのに、こんな力強いなんて。顔もどこかオッサンみたいで、間抜けなのに、ちゃんと言うこと聞くし」
ヤスちゃんが言って、さくらの頭をなでる。するとさくらは大きなあくびをした。
「あ、僕、これは分かったよ。さくらは『失礼だな』って言ったんだ」
僕が言った。
「正解!」
髙野さんが言い、みんなが大きく口を開けて笑った。
さくらの大きな口に負けないくらい、口を開けて笑った。
さくらは僕たちの笑っている様子を見て、首を傾げていた。
※犬による歩行補助の話は滅多に聞きませんが、動物介在療法というのは日本にもあります。
通称AAT(animal assisted therapy)と呼ばれ、全国で様々な活動をしています。
いわゆるアニマルセラピーです。
この犬たちの役割は何かを介助するわけではないのですが、例を出すと、患者とのコミュニケーションに悩む医者が間に犬を挟むことによって、犬を共通の話題にコミュニケーションを取るというものです。
コミュニケーションの潤滑油ですね。
そして両者のコミュニケーションが円滑になれば役目を終え、犬は離れます。
AATはそれだけでなく、手術の不安を緩和する心理的サポートであったり、一緒にさんぽに行こうって誘い、リハビリへのモチベーションを高めてくれたりします。
これは動物介在療法の犬だけにあらず、盲導犬や介助犬にも当てはまります。
介助犬はただ介助するだけだと思われがちですが、そこにいるだけで不安を取り除いたり、相談相手になってくれたりと、心のサポートもしてくれる温かい存在でもあるのです。
さくらの様な介助犬は、むしろそのような面を期待される部分が大きいのです。