さくらだよ、よろしくね!
「お帰りヒロ君、びっくりしたでしょ?」
玄関でお母さんが言う。大きな犬の後ろにいたのに、ぜんぜんお母さんに気付かなかった。それくらい犬が大きいからだ。犬のとなりには、知らないおじさんがいたことに今きづいた。
「どうしたの?この犬、それに、そのおじさんは?」
玄関の前で僕はお母さんに聞いた。中には犬とおじさんがいて入れないからだ。
「やあ、こんにちは、あっ、もうこんばんはかな?ぼくは介助犬の指導をしている髙野って言うんだ。よろしくね」
はぁ、と僕はいまいち理解できずに返事をする。
「そして、この子が今日から君のリハビリをお助けしてくれる『さくら』ちゃん、女の子だよ。でも力はすごく強くて頼りになるんだ。ちょっとのんびりやさんだけどね」
髙野さんが言った。
お助け?この大きな犬が、僕を、助ける?
よく分からない。助けるって言っても、犬になにができるんだろう?
それにちょっと恐い。顔はどこか間抜けだけど、すごく大きい、僕よりもだ。体にいたっては僕の2倍はある。いやもっとあるかも、3倍かな?
「ふふっ、いきなり言われても分からないだろうね。さくらがどうやって助けてくれるかは、今度の土曜日に説明するから、場所は犬の学校でするからね。それまではこのさくらと一緒におうちに住むんだ」
「一緒に?犬を飼うっていうこと?」
「まぁ、そうかな。でも飼うというよりは、家の中で、君と一緒に行動させて、生活に慣らすんだ。これは君に寄りそうために、そして君を助けるためにね」
「そうなんだ・・・」
僕はいまいち、パッとこないけどうなずいた。
「それじゃあ、まずは最初にあいさつだ。君の名前を言ってから、さくらの頭をなでてあげて。それがあいさつだから。手はなるべく横からね、包むようにで」
「あ、えと、はい・・・川島ヒロだよ、よろしく」
僕は戸惑いながら、犬に手を伸ばそうとする。でも手が途中で止まる。
恐いんだ。そもそも犬に触れたことはあまりないし、触ったのも小さな犬くらいだ。車イスの僕には、危ないからって、大きな犬に近付くことはなかったし、向こうも寄ってこなかった。
初めてだから、こんな大きな犬に、こんな近くまできたのは初めてだから恐いんだ。
手がふるえる、大きな口だ、かまれたらきっと痛いし血が出る。
「大丈夫、この子はぜったいかまないよ」
髙野さんがやさしく言う。僕はお母さんを見る。お母さんはやさしくこっちを見ているだけだった。
僕は犬の顔を見る。犬はどんぐりみたいな、まん丸おめめでこっちを見ていた。
近くで見ると目も大きい。
なにもかも大きい、こんな大きな生き物、動物園でしか見たことがない。
近いと余計に恐かった。手が、動かない。
すると、犬がゆっくりとこっちに、ちゃっ、ちゃっ、と足音を立てて近づいてきた。
「えっ?うわぁっ」
犬はほっぺを僕の手に当ててきた。僕はビックリして手を引っ込める。すると犬は大きなあごを、車いすに座った僕のひざの上に、ぽんと置いた。
「えっ、あの、どうしよう?」
僕は不安になって、髙野さんを見る。
「さくらはね、なでてもいいよ、って言ってるんだよ。大丈夫だよって言ってるんだよ」
髙野さんが言うけど、本当にそうなんだろうか?だって犬は言葉を話さないし、そうなればなにを言ってるのかも分からない。
僕はゆっくりと、手を犬の頭の上に置いた。すると犬は少し口を開いて、ハッ、ハッ、と笑うように舌を見せた。
「ほら、大丈夫だった」
「すごい、ヒロ、はじめて大型犬さわったんじゃない?」
髙野さんとお母さんが嬉しそうに言う。
僕は二人の方を見ずに、犬の頭や顔を、あちこちさわった。
頭は白い毛でふわふわしてるけど、少し押すとかたかった。おでこはもうちょっとかたい。
耳はどうだろう?ちょっとつまんでみる。なんかぶよぶよだった。食パンをつまんでるみたいだ。
鼻はどうかな?大きくて黒いお鼻に指を当ててみる。すると犬は少し鼻を横に動かした。
「あっ、なんかダメだった?」
じっとしていた犬が急に動いたから、僕はつい犬に聞いた。
犬は答えず、こっちを大きなおめめで見ているだけだった。代わりに答えたのは髙野さんだった。
「そう、さくらは、ちょっとそこをさわられるのはイヤだなって言ったんだよ。ちょっとだけさくらの言うことが分かったかな?」
「そんなこと、一言も言ってないよ?」
僕は聞く。
「うん、言ってないね。だけど、さくらの顔を見れば分かるんだ。長く一緒にいるとね、誰でも色々と分かるようになるんだよ。そしてお話もできるようになる」
「お話ができるの?犬と?」
僕はビックリして大きな声で髙野さんに聞いた。
「そうだよ、犬はけっこうかしこいんだ。それに、こっちの言ってることも少しは分かるんだよ。だからお話しができるようになるんだ」
「へぇー、そうなんだ、へぇー」
僕は犬の頭を、もう一度、ゆっくりとなでる。犬はまた、口を開いて舌を見せた。
そこで一つ、不安がでてきた。
「あのお世話とかどうしたらいいの?僕は足がダメだから、なにもできないし」
「ああ、それなら大丈夫さ。お世話ならお母さんがやってくれるから。説明もさっき受けてもらったからね。それにさくらはかしこいから、あまりお世話はいらないんだ。おしっこもちゃんとトイレでするんだよ」
「へえ、そうなんだ。えらいんだね」
僕は犬を見る。犬は変わらず、アゴを僕のひざにのせてこっちを見ていた。
「あっ、でもご飯はあげてほしいかな。さくらは君の大事なパートナーだから。お皿にご飯を入れてあげてほしいんだ。そうするとさくらも喜ぶから」
「あ、うん分かった。それくらいなら、できるかも」
「うん、それじゃあお願いね。ぼくもう今日は帰るから、今度の土曜日に会おうね。では何かあったら連絡をください」
言って髙野さんは僕やお母さんにじっちゃん、そして犬にお別れの挨拶をして出て行った。
いつものご飯を食べるテーブルに座り、僕はテレビでいつもの番組を見ていた。
お母さんはいつもみたいにご飯の後の食器を片付け、じっちゃんはいつもみたいに新聞を読んでいた。
だけど、いつもとは違うことがあった。僕の座る椅子の足元には大きな犬が寝ていた。
こんなの、昨日もずっと前からも、なかったことだ。どうもそっちが気になって、テレビに目がいかない。
それはみんなも同じようで、お母さんやじっちゃんもチラチラと見ていた。
じっちゃんが新聞をたたむ。
「なぁ、リカ、こんな大きい犬を飼うよりも、ええ車いす買ったほうが良かったんちゃうの?電動とかあるやんけ、保証もきくし」
じっちゃんの言うリカとは、お母さんのことだ。
「もう、お父さんたら、前も言ったでしょ、それだとヒロのADLが落ちるって、そりゃ、お金もけっこうしたけど、その分、だいじなものを与えてくれるのよ。友達にもなってくれるし」
「ふんっ、犬が友達って、それもどないやねん。だいたいワシは犬が好かん。あいつらは昔からワシの畑を荒らしよるしな。畜生の害獣やで」
じっちゃんが、嫌そうな顔で僕の足元で寝ている犬を見る。
「そんなん言わんと、お父さん。それにこのさくらは違うって、ごはんもお皿の上のものしか食べないんだから」
「さくら言うんか、この犬の名前、生意気に立派な名前やな。種類はなんや、畑にくる犬は色々混ざって変な色しとったけど」
「えっとね、グレートデンとグレートピレニーズのミックスなんだって。顔は柔らかなピレニーズで毛は抜けにくいグレートデンの交配種だって言ってた」
「ミックスってあれやろ、雑種やろ?んな血統書ついとるなら分かるけど、雑種にそんな高い金だしたんかいな?」
「もう、お父さんっ!お金の話はしないでよ、グチなら後で聞くから」
お母さんはムッとして言う。そしてため息をひとつだすと、キッチンから廊下に出ていった。
ちょっとしてから、お母さんが骨組みの目立つ車イスを押してキッチンに戻ってきた。
お母さんはその車イスを、椅子に座る僕のところへ持ってくる。
「さっ、ヒロ、お風呂の時間でしょ、これに乗ってね、明日は早いんだから」
その車いすはお風呂用の車いすだ。座るところ以外はほとんど金属の骨組みだけで、体が洗いやすいようにできていた。
お風呂に入るのはだいたい自分でできる。足が使えなくても服は車いすの上で脱げるし、体だって洗える。ただお湯につかれない。シャワーだけだ。
お母さんは風邪をひくからお湯には入りなさいって言うけど、それは嫌だった。
なぜなら、お風呂の中、お湯に入るにはお母さんの手を借りないとだめだからだ。
去年までは週に一回は入っていた。だけど、最近はずっと断っている。だって恥ずかしいんだもん。
色々と毛が生えてきて、見られたくはなかった。
お風呂が終わって、体をふいて、洗面所にでる。
洗面台のうえに置かれた籠の中からパジャマをとりだすと、まずは上を着る。そして下はタオルを巻いて、お母さんを呼ぶ。それからシャワーで濡れたお風呂用の車いすから室内用の車いすに乗り換える。
「あとはできるから」
お母さんに言って、お母さんが洗面所を出ていってから、タオルを外して残りのパンツと下のパジャマをはく。
そのまま洗面台で歯をみがき、トイレに行く。椅子から椅子への乗りかえは移乗って言うんだけど、当然これも一人じゃできない。お母さんを呼んでトイレに移乗させてもらって、あとのズボンを脱いだり拭いたりは自分でできる。
そしてトイレを終わらすと、僕はまたお母さんにトイレから車いすに移してもらって、車いすで僕の部屋に行くと、またまた車いすからベッドへ移してもらう。
「おやすみ」
そう言ってお母さんが部屋から出ていく。
これで僕の一日は終わりだ。
色々と面倒だなって、思うでしょ?でもこれが僕の日常なんだ。
あとは寝るだけ。僕は目を閉じた。
「ヒロ、ちょっと入るよ~」
ノックと同時に、お母さんが入ってきた。
何かな?と思って目を開いて体を起こす。
お母さんの手には、クッションのようなものを持っていた。そして足元には犬がついてきていた。
「え、なに?どうしたの?」
僕は目をパチパチさせてお母さんと犬を見た。
「あのね、パートナーは一緒に寝るといいんだって先生が、あっ、髙野さんがね、言ってたんだ。一緒の部屋で寝て、仲良くなるんだって?」
「え?ベッドで一緒に寝るの?」
「あははっ、まさか、このベッドじゃさくらにはせますぎるよ、ヒロ君が押しだされちゃう。さくらはね、このさくら用のベッドで寝るの。この大きなクッションがそうよ」
そう言ってお母さんは床にクッションを平たく敷くと、ポンポンと叩く。すると犬がそのクッションの上に移動してうつぶせで横になる。
「さくらも気に入ったみたい。じゃあね、ヒロ君、さくら、二人ともおやすみなさい」
そう言って出ていった。
ええ、ちょっと待ってよー。って僕はお母さんを呼び止めたかった。
だって恐いよ。こんな大きな犬、もし寝ているときに何かされたら、僕は逃げることもできない。きっと、赤ずきんにでてくるおばあさんのように何もできず、オオカミにペロリと食べられてしまうんだろう。
そんなことを考えると、恐くて目もつむれない。寝ることができない。
もう夜もおそくなってきた。早く寝ないとだめなのに、こんな時間まで起きているとお母さんに怒られる時間なのに、目を閉じることが恐くてできない。
僕はそっと、ベッドから床で眠るオオカミのように大きい犬を見る。
すると犬はこっちに気付いたのか、体を起こして、ベッドに大きなアゴを置いた。
「うわっ、うわぁ」
僕はビックリして体を後ろに起こした。大きな顔が目の前にあるからだ。ちょっとでも動いたら食べられてしまう距離だったからだ。
そのまま僕の体はかたまる。ちょっとでも動いたら、向こうも動いてくるんじゃないか?そう思ったからだ。
そのままじっとする。僕も、向こうも何もせずにじっとする。おたがいに目を合わせたままで動かない。
すると犬がとつぜん、大きなあくびをした。
「眠いの?」
僕は犬に聞いた。すると犬は首をななめに傾けた。
これは何を言っているのだろうか?もしかして「そうだよ」って言ったのかな?
「眠くなってきたの?」
僕はもう一度聞いた。すると、犬は少し口を開いた。
口から、舌が見えた。僕はなんでかその舌をさわってみようと、指をのばした。
恐くはなかった。きっとさわってみたい気持ちの方が強かったからだろう。
指が舌にふれる寸前で、犬はプイッとそっぽを向いた。
イヤってことなんだろう。僕はガッカリして手の平を上にしてベッドに下す。
するとその手の平の上に、犬がアゴを乗せてきた。ちょっと重かった。
ぼくはそのままアゴやほっぺをなでた。なんかブヨブヨしてた。
だけど、あったかくて、やわらかかった。
さわっていると、なんだか気持ちよくなってきた。
僕はウトウトとしてきて、まぶたが重くなってくる。
目を閉じる前に、僕の手の上にアゴを置いた犬の顔を見る。
犬はそのかっこうで、目を閉じていた。僕より先に寝ちゃったのかもしれない。
おやすみなさい、さくら。
僕は手に、少しの重たさと温もりをそのままに、目をつむった。
※歩行の介助(補助)をする犬って、日本じゃまだ聞いた事がないですが、アメリカやオーストラリアだと実例が数件あるんですよね。
有名な所ではベラちゃんと犬のジョージでしょうかね。
この物語はその体験をいくつかベースにして創っていこうと思います。