20
「はあっはあっはあっ」
息が苦しい。
足が軋む。
人気のない路地裏に俺とクララは隠れていた。普段なら絶対にしないが、地面に腰をおろし壁に背を預ける。そうしないとこの疲労に耐えられそうにない。眼鏡が曇って邪魔だったので、外してレンズを拭く。
体力は一般的な俺にとって獣耳族である彼女と一緒に全力疾走するのは骨が折れる。
いや彼女の場合、全力ではないのだろう。
俺の横に立っているクララに疲労の色は見えない。まるで定規でも背中に入れているのではないか? と疑うくらい美しい姿勢で周りに気を配っている。
「はあっはあっはあっはぁー……クララ。連中は撒いたのか?」
携帯を片手に険しい表情をしていたクララが俺を見下ろす。
走り出した時からクララはどこかに連絡を取っているようだった。おそらくレイシアさん率いる護衛部隊に電話しているのだろうが、繋がる様子はなかった。
「いえ……まだ完全には逃げ切れていません。ここが見つかるのも時間の問題でしょう。すぐに別の場所に移動します」
「……そうか、わかった」
誰? 一瞬そう思ってしまった。
冷静な口調と態度。そこにデートの時の面影はない。
さっきまで笑い合っていた雰囲気はとっくに霧散し、緊迫した空気だけが支配していた。
路地裏にいるせいか緊張のせいか、呼吸を整えても息苦しいことに変わりはなかった。
「仲間に連絡をしましたが応答がありませんでした。どうやら交戦しているのかもしれません」
「な! 大丈夫なのかレイシアさんたちは!」
慌てて立ち上がる。知り合いが戦っていると聞いたら平静ではいられない。
「私たちの部隊は優秀です。柚月さんのメイド隊の応援も期待できるのでおそらく負けることはありません。ですが相手の勢力がわからない以上、遥真様の守りが手薄になるのは否めません」
「勝負を仕掛けてきたっていうわけか……これからどうするんだ?」
「はい。ひとまずは私の家に行きたいと思います。セキュリティーは万全ですので。こちらへ」
「ちょっと待って」
クララがまた腕を掴んで進もうとするが俺は動かなかった。
「? どうかしましたか? 今は一刻も早くここを逃げなければいけないのですが……」
「わかっているよ。すぐ終わるから」
眼鏡をかけ直すとクララが不思議そうに首を傾げ、俺と向き合う形になっているのがはっきりとわかった。
「右腕だして」
「?」
俺の言葉が意外だったのか、目をパチクリさせるクララ。
「怪我、してるんだろ? 見せて」
「ぁ! こ、これはたいしたことはありません。お気になさらずっ!」
俺の腕を離し、その手で右肩を庇うように隠す。
「いいから、見せてくれ」
「あっ……」
傷を刺激しないために左腕を掴み引き寄せた。そして斬られた服の隙間から傷を確認する。
「……よかった。浅かったようだね。血も止まっているみたいだし。これは俺が倒された時についた傷だよね?」
クララの言葉は嘘ではなかった。血で汚れた服を見た時から酷いものだと覚悟していたが傷は浅いようだった。
「……はい」
こく、と首を縦に振る。
「ありがとう。助けてくれて」
「当然のことをしただけです。……それより、あの……遥真様。ち、近いです」
「え? ……っ!」
その言葉で我に返り、自分たちの姿を確認した。
無意識でこうなるのもすごいが、俺はクララを後ろから抱き締めるような形になっていた。掴んだ腕を腰に回し、もう片方でクララの傷の具合を確かめるため服に手を添えている。
どちらかというと前より背中側にあった傷なので、見やすいように……そう考えていただけなのに!
クララの尻尾が俺達に挟まれ窮屈そうに忙しなく動き、首筋は真っ赤に染まっていた。
「ご、ごめん! 夢中で気づかなかった!」
バッと飛び退り距離を取る。
「い、いえ……お心遣いありがとうございます。この通り問題ありませんのでご心配なく」
お互い顔をそむける。
追われているこの状況下で俺たちは何をやっているんだ……。
「そ、それでは遥真様。参りましょうか」
「あ、ああ……」
改めて手を引かれる。クララの手はやわらかく温かい。緊張しながら俺は握り返し、クララの横に並んだ。
「お熱いところ申し訳ありませんね。お姫様」
「っ!」
「!」
唐突に後方からくぐもった男の声が上がる。
刺客か! と思い俺が振りかえった時には、先に反応していたクララが一歩前へ前進して俺を庇うように佇んでいる。
「おやおや、クララさまがここまで勇猛果敢だとは思いもしませんでしたよ」
嘲るように笑う男の風貌は奇妙の一言だった。
黒いマントで身体を覆い隠し、獣人族とわかる特有の獣耳に尻尾が見え隠れしている。クララの膨らみのある豊かな尻尾とは違い、彼のそれは肉食獣の豹の尻尾のように細く鋭利的だった。
そして何より特徴的なのが顔をつけている仮面だ。のっぺりとした白い仮面から目だけ覗けるようになっていて、その特徴のなさが逆に不気味さを訴えている。ご丁寧にも言葉が日本語なのは仮面に翻訳機能でもあるのだろう。
「……あなたはどこの手の者ですか」
そう言ってクララは睨みつけながらわずかに相手との距離をとり、俺もそれに習う。男としてはクララとあの男の間に立ちふさがるべきなのだろうが、相手の狙いは俺自身。軽率な行動は取るべきではなかった。
「そんなの答える訳にはいかないとわかっておいででしょう? クララさまがこれから知らないといけないのは新しい婿が誰か………幸い私の依頼人は次が同族の方であれば誰でも構わないそうです」
「………」
クララは黙り込んだ。
新しい婿か……つまり俺を殺して再度儀式を行うってことか。
「人間の坊ちゃん。あなたも大変ですねぇ。勝手に選ばれ、勝手に振り回され、そして殺される。……理不尽だと思いませんか?」
「俺を殺そうとしているやつが言うな」
自分のことを棚にあげこいつはなにを言っているんだ。侮蔑の意味を込め睨みつける。
「おお! 怖い怖い。そんな目で見つめないでくださいよ。別に私たちは好きでやってるんじゃないですよ? 仕事として依頼されたんですから。恨むなら依頼主にしてくださいよ」
「貴様っ!」
クララが耳と尻尾を逆立てている。
「……お前、何がしたいんだ」
この男の行動が不思議でならなかった。
「はい?」
「なぜすぐに俺を殺そうとしない。さっきのように投げてこないのか?」
刺客のくせにお喋りな男はその場から一歩も動こうとはしない。まるで会話を楽しむのが当たり前と言わんばかりに、そこにたたずむだけだった。
「ふむ……確かに先程攻撃したのは私の手の者ですね。本来ならあそこで死んでもらうはずだったのですが予想外のことが起こりましてね」
「予想外だと……?」
「ええ、まさかクララさまが私たちの行動に気づき、なおかつ身を挺してあなたを助けるとは思ってもみなかったことなので焦りましたよ。おかげで迂闊に手出しするわけにはいかなくなりました」
やれやれといった風にわざとらしく首を振る男。
「あなたの暗殺命令は出されていますが、姫であるクララさまには指一本触れるなとの命令も受けているのでね。クララさまがべったりとあなたに付き従うものですから迂闊には狙えませんでしたしね……クララさま。そこをどいてはくれませんか?」
「戯言を……あなた方もこれ以上王家に逆らうのはおやめなさい!」
怒りをあらわにしたクララの方が、今にも刺客に襲い掛かりそうだった。
「まいりましたねぇ~退いてくれそうにありませんねぇ。やぁ~困った、困った」
言葉とは裏腹に愉快そうにしている。
この余裕はなんだ? 自ら任務の内容まで暴露し、クララがいる限り襲うこともできないと言っている。
油断を誘っているのか?
それとも他になにか策でもあるのか?
「ん~では取引でもしましょうか」
「取引だと?」
「ええ、そうです。あなたの命と引き換えにこちらもそれ相応の対価をお支払いしましょう」
「は?」
「っ! あなた方は、何をふざけているのですか! そのような取引が成り立つわけがありません!」
あまりのバカバカしさに俺は呆け、クララは激昂する。
だが、男は平然と「成り立ちますよ。もちろん」と、頷いた。
「いい加減に……」
クララが言葉を発しようとしたが、男に遮られた。
「七瀬雫と鳳条柚月」
「「!」」
こいつ今なんて言った?
「ははは、予想通りの反応ですねぇ」
「っ!! 妹と柚月になにをした!」
「そう怒らないでくださいよ。いえね、お姫様のデートを監視していたら拙い尾行がついていましてねぇ。誰かと思いきや暗殺対象の義妹と親友じゃないですか」
「な…ん……だ、と?」
雫と柚月が俺たちの後を追っていたのか!
「下調べは事前にやってあったのですぐわかりましたよ。本来なら何の用もなかったんですがね。予定が狂っちゃいまして人質にさせてもらうことにしました」
「てめぇっ!」
「遥真様! 落ち着いてください!」
男に殴りかかろうとしたが、前に立っていたクララに抱きしめられ動くことができない。
「まだ捕まったという証拠がありません。それに柚月さんにはメイドの方々がいます。私もこのような事態を想定して妹さんには我が親衛隊の約半数を護衛に付けています!」
「そ、そうだったのか?」
「はい。ですから安心してください」
初耳だったがクララが俺に嘘を言っているとは思えなかった。
雫と柚月が狙われていることに変わりはないがクララの言葉に勇気づけられ俺は平静を取り戻すことができた。
「あらあら、そのまま私に向かってきてくだされば楽に殺して差し上げたものを……」
「くっ」
なんて情けないんだ俺は。俺の命が危険だとわかった時から、周りにも被害が及ぶことを考えていればよかった。現にクララはそれを想定して雫にも護衛を付けていてくれたらしい。
それにクララがいなければ俺はのこのこと男に近づき、殺されていただろう。本当にクララには感謝の言葉しか思いつかない。
「話を戻しましょうか。たしかに私たちはまだお嬢さん方を捕まえてはいません。ご存知のとおり王家直属の親衛隊の方々と、人間の護衛が彼女たちの周りを警備していましたから誘拐も簡単ではありませんので……あぁ、もちろん取引材料なので捕まえた場合手厚く保護させて貰いますよ」
「ずいぶんと余裕がおありなのですね? まるで捕まえられるのが当たり前のように」
「ええ、もちろんですともクララさま。私たちの規模はあなた方のおよそ二倍。精鋭を揃え、他の同業者と共同までさせられていますから」
「二倍……」
クララは苦虫を噛み潰した表情をした。
「えぇ、そうですとも。まったくこれでは隠密ではなくなりそうで困ってしまいますよ。報酬がいいぶん条件が厳しいですがね。とくにクララさまを傷つけるな、という条件には手を焼いています。おかげでこのような取引をしなくてはなりませんから。間違ってお姫様を殺したとあっては意味がありませんからね」
男はわざとらしくため息をつき肩を落とす。
「わかりました。つまり私が遥真様の側にいては攻撃することができず、怪我でもされ死なれては報酬もこない。だから柚月さんたちを人質にとり、確実に殺せる方法を取ったというわけですか」
「そうです。よくできましたお姫様!」
男は愉快そうにクララに拍手を送ってくる。
クララはそれを冷ややかに見つめ、口を開いた。
「ですが、まだ捕まられないようですね。失敗したのではないですか?」
手を叩く音が止んだ。そしてだらりと腕を下ろし、男が仮面越しにクララを睨みかえす。
「そうなんですよ。本来ならもうそろそろ報告があってもいいんですがね。こんな無駄話をせず、円滑に取引の話でもしようと思ってきたのですが何を手間取っているのでしょうね、あいつらは」
その時、緊迫した空気にそぐわない電子音が響いた。
「あぁ、噂をすれば……ってやつですね。これで交渉ができそうだ」
男はおもむろにコートに手を突っ込むのを見て、俺は内心で舌打ちした。あの様子では二人が捕まったという報告かなにかかもしれない。そう思うと穏やかではいられなかった。
「遥真様。大丈夫です。私の親衛隊と柚月さんのメイドの方々は優秀です。あのような者たちに後れを取ることはありません」
クララが俺の手を握って見上げてくる。
……うん。そうだな。今日までずっと俺のことを見守ってくれた人たちが負けるわけがない。この娘の真摯でまっすぐな瞳とレイシアさんたちを信じてみよう。
「ありがとう。クララが側にいてくれて心強いよ」
俺が礼を言っている時には、男はもう無線のようなもので誰かと連絡を取っていた。
意気揚々と機器を耳に当てていた男だが、すぐさま態度が急変した。
「……お前、誰だ」
低く唸るような声は、俺が初めて見た男の暗殺者としての一面だったのかもしれない。
だがそんな恐怖は隣でずっと手を握ってくれているクララと突然鳴りだした俺の携帯によって吹きとばされた。
「遥真様出てください。あの男は私が警戒します」
クララに無言で頷き、俺は携帯をポケットから取り出し宛名を確認した。
「ユリア……?」
ディスプレイにはユリア・ストーレットと映っている。
雫か柚月からだったら安心できたのだがそう都合よくはいかないらしい。
出ないで切ることもできたのだが、このタイミングで掛かってきたことに疑問を覚え出ることにした。
通話のボタンを押す。耳に近付け喋ろうとしたが、すぐに出たことを後悔した。
『はぁい。ハ・ル・マ。愛しのユリアちゃんですよ~』
腰が砕けそうになったが何とか踏ん張った。
刺客と対面して、緊迫した雰囲気が漂っていたところにこのふざけたセリフ。
俺は頭を抱えて彼女の名を呼んだ。
「ユリア。すまないが君の悪ふざけに付き合っている暇はないんだ」
『ふざけてないわ……ホ・ン・キ。きゃっ』
「……」
ダメか……相手はユリアだ。こっちの状況もわかってないんだ。俺は怒ってはいけない。いけないんだっ!
『あれ? もしもーし、遥真くーん。聞こえてますか~?』
「……用件はなんだ」
刺客の男はまだ無線らしきものに耳を傾けていたが、悠長に無駄話をする余裕はない。ユリアには悪いが早々に話を切り上げたかった
『もう、遥真くんのいけず。愛の語らいをしてくれてもいいのに。……えっ? もう? しょうがないな~すぐ代わるからちょっと待っててね』
意味のわからないことを口走っていたと思ったら突然声が遠くなった。どうやら隣に誰かいるらしく、せがまれているようだ。
「誰か隣にいるのか?」
『ん? えぇ、雫と柚月が隣にいるわ』
「……はぁっ!?」
なんだって!? どういうことなんだ? 雫と柚月は今、俺のせいで刺客たちに襲われているはず……。
見た目通り耳がいいのかクララもその言葉を聞いて驚いた顔をして見上げてくる。
『さっきから代わってくれ代わってくれと頼まれてね。私としてはもっと遥真くんと愛の言葉を囁きあいたいなーと……』
「すまん! ユリア。すぐに代わってくれ!」
ユリアが言い終わる前に割り込む。毎度お馴染のトークをすることは、今の俺にはできなかった。
『……遥真くんのいけず。……わかった。今代わるわね』
そう言って数秒もしないうちに今一番聞きたかった声が俺の耳に響いた。
『兄さん! 無事ですか!』
「雫!! 俺は大丈夫だ。クララは少し怪我をしたが大事ない。雫は無事なのか!? 怪我してないか? 柚月は?」
『よかった、兄さんっ……私たちは怪我もしていません。今、柚月先輩に代わりますね』
「頼む」
とりあえず安心していいようだ。二人にけがはないようだし、平気で電話に出られる状況のようだ。
『遥真。無事のようね』
電話にでた柚月の声は思いのほか落ち着いていた。
「ああ、なんとかな。そっちも無事で何よりだ」
『遥真……あの、ごめんなさい。実は今日、私たちは遥真の後をつけていたの』
柚月は申し訳なさそうに謝って自分たちのが二人でいたことを暴露した。
「ついさっき知ったよ。そんなことより柚月たちが無事で安心した。それでなにがあったんだ? 話が通じている時点で状況は同じだったみたいだけど、クララの親衛隊やメイドさんたちが守ってくれたのか?」
彼女たちが無事ということは暗殺者から身を守ることに成功したということだ。だが柚月の答えは俺の予想を斜め上にいく回答だった。
『うっ……心配してくれてありがとう。……たぶん、遥真が最初に襲われて逃げ出した時だと思うけど、後を追おうとした矢先にユリアに声をかけられて……そのまま助けられたみたい』
「ユリアに?」
魔界人であるユリアは魔法が使えるが、だからといって一介の学生がプロの暗殺者の相手が務まるのだろうか?
そんな俺の疑問をよそに柚月は言葉を続けた。
『えぇ、ユリアが現れたあとすぐに暗殺者らしき者たちに囲まれたんだけど、彼女の魔法で守ってもらっ……あっ!』
『聞いた? 遥真くん。そういう訳だからこっちのことは安心して私に任せて』
たぶん柚月から携帯を奪い取ったのだろう。
ユリアの声が自信に満ちていたからだろうか、なぜだか俺は安心して任せることができた。
「ありがとう。ユリア。君も怪我はしないでくれよ」
『……ええ。約束するわ。でも大丈夫。あいつらはもうほとんど片づけたから、残りは遥真くんの目の前にいる奴だけよ』
「え? どうしてそれを……」
なぜユリアがそんなことまで知っているんだ……いや、まて。ユリアは俺が命を狙われていることすら知らないはずじゃなかったか? 雫たちが事情を話したのだろうか……。
『彼女……クララにもよろしく伝えといて。……あ! あと追伸。柚月は落ち着いているように聞こえただろうけど、遥真が電話に出るまで泣きそう……』ブツッ、ツーツーツー
もう少し聞きたいことがあったがいきなり切られてしまった。
切れた携帯を眺め、俺はポケットにしまった。
けっこう長い会話だったはずだが未だ刺客の男は機器を耳にあてている。
「聞こえた? クララ」
クララは宣言通り会話中ほとんど身じろぎせず男の動向を見守ってくれていた。
「はい。これで人質を取られる心配はなくなりました」
小刻みに獣耳が揺れている。やはり聴力はいいらしい。
「ああ、そのうちユリアにはお礼でもしなきゃいけないな」
「そうですね」
クララは緊張感を残しながら振りかえりほほ笑む。
ユリアが言うには目の前にいる男が最後の一人。他の刺客は柚月のメイド部隊やクララが手配した親衛隊によって捕まるのも時間の問題だろう。
それにも関らず男は微動だにすることはなく、ただ無線機を耳元に当て黙していた。
獣耳族のあの男ならこちらの内容が聞こえていても不思議はない。俺がユリアと話している時も仮面の奥から鋭い眼光に睨まれているような気がしてならなかった。
「ふふふ、くく、くくっく。はーはっはっはっは!!」
動く気配すらなかった男から突然哄笑がした。それは酷く歪で自虐的な笑いに満ちている。
「な、なんだあいつ……」
「……」
俺の独り言は男の笑いに掻き消され、クララはただ警戒を緩めず見守っていた。
「はぁっはっはっはっはっ、……ふう……はっ!」
笑い終え、ため息をついたと思ったその刹那、男の行動は迅速だった。
掴んでいた無線機らしき機器を俺にめがけ投げつけ、獣のように俊敏な動きで迫ってくる。
「なっ!」
一歩も動けなかった。男の高笑いに寒気を覚え、妙な恐怖感に駆られていたから反応できなかったからだ。いや、反応できたとしても、人間である俺には彼の動きについてはいけなかっただろう。
刺客の男は獣耳族。その名の通り獣の化身なのだ。
だが投げられた無線機は俺に届くこともなく、男は俺に近づくことすら儘ならなかった。
「くく、やはり邪魔ですねぇお姫様。武術の心得でもあるのですか?」
「さあ? どうでしょうね」
一瞬の出来事だった。クララは向かってくる無線機を手で弾き、同時に迫ってくる男を掴んで、投げ返していた。
素人目で確認できたクララの動きはそれだけ速く、なおかつ踊っているかのように美しく無駄のない動きだった。
そして彼女の側に落ちている粉々になった無線機の残骸が威力を物語っている。
「クララ……助けてくれてありがとう……でもその動きはいったい……」
彼女も獣耳族なので人間離れしているのは当たり前だが、刺客と対等に渡り合っていることに疑問が残る。男の言う通りなにか武術の心得でもあるのか?
「その答えは後ほどお答えします。遥真様。……それにまだお礼を言われるのは早いですよ」
「ええ、そうですとも少年! 私の計画はあなたのお友達のせいで台無しになってしまいましたが、まだ終わっていませんよ。私が直接殺しますからね」
おどけた態度で喋りだす男の右手には、いつの間にか小刀が握られていた。
「まったくふざけた連絡です。私の部下から人質を確保したと報告が来たのかと思えば、少年の同級生と名乗る少女がでてきましてね。そのあとはずっとあなた方の電話でのやり取りを無線越しに聞かされましたよ」
ユリアは敵から奪った無線を片手に俺に電話していたのか……まったく何者なんだあいつは。
「あまりの不快さに思わず無線機を投げてしまいましたよ。お姫様のせいで外れてしまいましたがね。お怪我はないですか?」
「気遣いは無用です。私が守ることをわかっていて投げたのでしょうから。そしてあの動き……私も殺すつもりでしたね」
「おやおや、わかっていましたか。正確にはお姫様には気絶あるいは重症を負って動けなくなってもらおうと思いまして。あなたがいなくなればその少年を殺すことなんて雑作もないことですから」
「なっ! お前目的が変わってるじゃないか!」
「まぁ、それしかないのでねえ、しょうがないですよ」
ゾクっと背筋に嫌な汗が流れる。
この男は手段を選ばなくなっていた。クララを傷つけないために俺に対して人質を取るはずだったのに、それが不可能となれば依頼主の意向にそぐわないことになろうとも任務を遂行しようとしている。
自ら枷を外した。それは男が全力で俺を殺しに来ることを意味するはずだ。
もうだめなのか? ……俺は刺客に狙われているとわかった時点で死が決まっていたのか?
深く考えないように過ごしてきたが、今ほど死に密着している瞬間はないだろう。
男はクララを傷つけてから俺を殺すだろう。
その結果が変わらないなら俺は自ら命を差し出すべきなのか? そんな馬鹿な考えが過ぎる。だがそれで誰も傷つかないなら、とも思ってしまう。
クララの親衛隊と柚月のメイド部隊が俺たちの所に援護にくるまでどれくらいかかるかわからない。待っていたら手遅れになる……。
それなら俺は……!
「遥真様」
一歩踏み出した瞬間。温かいものに手を包まれた。
「クララ……?」
それはクララの手だった。
彼女は振り返ることなく、刺客を見つめながら宣言する。
「大丈夫です。私が遥真様をお守りします。すぐにあの男を片付けますから安心してください」
「言ってくれますねぇお姫様。それじゃあ容赦はしませんよ」
男はせせら笑い、二本目の小刀をどこからともなく取りだした。
「無茶を言うな! お姫様である君が勝てる相手じゃない!」
俺はそう言って彼女の腕を引いて逃げるつもりでいた。それが出来なくとも俺が盾になることを視野にいれていた。
だが、次のクララ……いや、彼女の言葉を聞いて俺は一歩も動けなくなった。
「いいえ。ご心配には及びません。……私はお姫様でもなんでもありませんから」
「え?」
いったい何を言っているんだクララは?
「私は……私は騎士。王家直属の親衛隊隊長。そして……遥真様の護衛ですから負けはしません」
突然。
彼女の周りを淡い光が包みこんでいた。魔法の光りだ。それは彼女に変化をもたらしていた。
小麦色の髪は根元から獣耳や尻尾の毛先までいっきに銀色に染め上がる。それはまるで太陽から月へと交代するかのようにまったく別のものへとなっていた。くりくりとした愛嬌のある目はどこか鋭利的になり、クララ特有の溌剌さが抜けていた。
光が霧散していき、彼女の口元が淑やかに微笑んでいるがわかる。
元から俺の隣にはクララなどいなかった……そう思わせるかのように目の前の少女は別人でしかなかった。
そして俺はこの娘を知っている。
街でたまたま出会い、異世界の動物を大事そうに抱いていた少女。
「君は……」
隣でいまだ手を握ってくれている彼女の存在を確かめるために声を絞り出す。
だがそれはゆっくりと離された手によって遮られた。
「……まずは目の前の輩を排除します。全てはそれから」
男に向きなおった彼女は服に手を忍ばせ刃物を取りだす。
まるで刺客の男と同業者と見間違うほど鮮やかに取りだされ、脇差ほどの両刃剣は彼女の両手に違和感なく収まっている。
使い慣れている……そう思わせるほど持ち方、構えが堂に入っていた。
「……くくく、なるほど。そういうことですか。どうりでこちらの動きについてこれるわけだ。一杯食わされたが……まあ、これで遠慮する必要もなくなったぁ!」
男は彼女を見た途端己の武器を構え臨戦態勢をととのえた。
俺ももしかしたら暗殺者と一緒で、彼女に一杯食わされたのかもしれない。だけどそれは以外にも不愉快ではなかった。
このあと彼女は男と戦い勝利し、俺に全ての事情を話してくれる。そんな根拠もないことを確信していたからかもしれない。
「遥真様親衛隊隊長レイシア・ラスティム。参ります!」
彼女――レイシア・ラスティムと刺客との決着は一瞬で終わり、俺の初デートも終着を迎えた。