プロローグ
とうとうこの日を迎えてしまった。
結印日。
それは年に一度ある我が国フリディアの伝統であり仕来り。
普段はただの休日だが、王家の者が十六歳になった後に結印日を迎えると意味が変わり、王家の婚約者となるものを選定する日となる。
現王の娘である私は去年に十六になり、結印日の今日を迎えた。
儀式のために用意された一室は静寂に支配され空気が重く感じる。
部屋を見渡せる位置に、現王であるガンドール・ローゼンベルンと王妃のセラフィー・ローゼンベルンが座っている。
お父様……お母様……。
ついに最後まで告げることができなかった。本当は私がこの儀式を嫌っていることを……。
お父様たちは王家の者としてこの儀式によって結ばれた。
元々は貴族だったお父様と王族のお母様は昔からの幼馴染で、お互いを意識していたそうだ。
だがそれでもお母様は伝統に従い、儀式に参加することを選んだ。
するとどうだろう。
蓋を開けてみれば思いを寄せていた幼馴染が選ばれ、二人は晴れて結婚することとなった。その後生まれたのが私――クララ・ローゼンベルン。
私は生れてからずっとお父様たちにこの儀式のことを聞かされた。
選ばれた時どれほど喜んだか。どれほど幸せだったかを……。
あの笑顔を見るたびに私は憧れを抱き、そして不安を募らせた。
お父様たちはいつも新婚夫婦のように仲がよく、引き合わせてくれた儀式に感謝さえしている。
だから疑わない。私がこの儀式で幸せになってくれると。
でも私にはお母様のように想いを寄せている殿方はおろか、仲の良い異性もいない。
私の婚約者として選ばれるのは後ろに控えている貴族の誰か。
儀式前に貴族の若者たちは私に挨拶に来た。ほとんどの者と今まで数回しか顔を会わせていないのに、ここにいることが当たり前だと言わんばかりの顔をしていた。
内心では王家の仲間入りできる好機を逃すまいと必死なのだろう。
あの方達は私のことなど見ていない。必要なのは王族という肩書だけなのだ。
いつもそうだ。
王家の姫君という肩書が邪魔をして、私のことを真に見ているものなどお父様とお母様、親友を抜いたら数えるほどしかいない。
そんな中での結印日当日。私の望むような人が選ばれるわけがない。いや、そもそも望んですらいない。
逃げたかった。
自由が欲しかった。
でもお父様たちの笑顔を見ていたら何も言えなくなり今日を迎えてしまった。
お父様たちが結ばれる切っ掛けとなった儀式をやりたくないと伝えたら悲しませる。そう考えたから……。
だから私は諦め、ここに座っている。
私が俯いている間に儀式は着々と進んでいく。今はもう、目の前で魔法具の器を眺めているおばば様から結果を待つのみとなっていた。
おばば様はいつもどこからか姿を現す不思議な方で、昔から王家に仕えている従者の一族の一人と聞いている。
私もよく慕っているが、今の心境では私に判決を下す裁判者に他ならない。
「くっくっく」
突然、沈黙が破られた。
それは目の前にいるおばば様から漏れたくぐもった笑い声だった。
おばば様の行動を機に周りに動揺が走り騒がしくなる。
「静まれ」
お父様がそれを咎めるように場を一括した。ただそれだけで口を開く者はいなくなり、元の静けさに戻りつつあった。
しかし、おばば様は笑うことをやめない。
「おばば様。どうなさったのですか?」
お母様の声が聞こえる。でも顔を上げることができない。私の泣きそうな顔なんて誰にも見せられるはずがなかった。
おばば様が笑っている理由はわからない。でも私は――いや、この場にいる私も含めた全員が悟っただろう。
婚約者が決まったと……。
「面白いことになりおったぞ、王よ」
「面白いこと、とはどういうことだ? 娘の相手が決まったのではないのか」
「もちろん。そのお相手のことじゃ」
「っ!」
唇を噛み締め、涙が出るのを堪える。
こうなることはわかっていた。だけど……だけど……やっぱり結婚したくない!
決して口に出してはいけない言葉を心の中で叫ぶ。
もちろん誰の耳にも届くことなどなく、お父様の声だけが部屋に響く。
「では勿体ぶるな。それは百も承知のことだ。これはそのための儀式なのだからな」
「それで、お相手は誰なのですか?」
お父様とお母様は続きが気になるらしく、急かした物言いになっていた。
後ろに控えている貴族達も落ち着かないのか、衣服が擦れる音が聞こえる。佇まいを直しているのだろう。
そんな音に嫌気が差し、耳を塞ぎたくなった。
だが、おばば様はここにいる誰もが想像していなかったことを貴族たちに発した。
「お前たちの中には居らんよ」
はっきりとした声がそう告げる。
え……?
思わず顔を上げそうになるが思いとどまる。
どういうこと? あの方達の中にいない……?
零れそうになっていた涙は引き、疑問の渦が私を取り巻く。
その答えはすぐおばば様によって知るこことなった。
「婿は他種族………人間界の少年じゃ」
「なっ馬鹿な。選ばれたのが他種族……しかも魔力も持たぬ人間だと言うのか!?」
「だから面白いと言ったのじゃが?」
おばば様はただ笑ってそれが事実だと告げる。
「これのどこが面白いというのだ!」
お父様の焦ったような怒号が聞こえてくる。それとは逆に私の心は落ち着いていた。
人間界……異世界に住む少年が私の婚約者。
最初は結果を知ることが怖くて見ることができなかった。だけど好奇心のせいか、いつのまにか魔法具の器を眺めるために顔を上げていた。
水で満たされた器を覗く。そこには目もとが赤くなった私が水面に映り、獣の耳が揺れている。
その奥には眼鏡を掛け、穏やかな瞳をした少年が映りほほ笑んでいた。
周りの喧騒が激しくなっても私はそこから動くことはなく、ただ映し出された少年を見つめ続けた。
私は人知れず尻尾を揺らした。