メガネを、かけて、ください!
私がピ ピ ピ、と佐野課長のお車のナビにうちの実家の住所を入力し終えると、課長は静かに車を発進させた。
あの夕立ちが嘘のようにあがり、地面は濡れているが、空は晴れていた。
時刻はまもなく18時になるかというところ。
ほんの、1時間くらいの出来事だったんだよね……
ナビ画面には目的地まで36分、と出ている。18時半頃には家に着くらしい。
今はまだ明るいが、着く頃には薄暗くなっている事だろう。
ホントこの1〜2時間の間で、色々、あり過ぎる……
私はふぅ……と息を吐いた。
あの、駅の出口で。
傘を買ってくるからここで待っていろ、という佐野課長の言葉を大人しく聞いていれば、私は、今頃何事も無かったかのように帰宅していたのだろうか。
まったく……
即断即決と言えば聞こえはいいが、考え無しの無鉄砲、とも言える。
「お前はそれでいいんだよ」
右隣のエスパー……じゃなくて佐野課長が仰られた。
「お前はそのままで、いいんだ。思ったように行動してみればいい。間違えたらちゃんと、改良できるやつなんだからな。後ろには俺がいてフォローはしてやるから、お前は行ってみればいい。それに……」
佐野課長がふわり、と微笑んだ。
「歩き出した先にあったものは、案外悪いものでは無かっただろう?」
「ん?」と感想を求められ、ハイ、と私は素直に同意した。のだが。
私の眉間に寄った皺に気付いた佐野課長が「じゃ、なんだコレ」と人差し指で弾いてきたので、私は「いやー、」と話し始めた。
「なんか、佐野課長が私のことなんでも知っているのがずるいなぁ……と思って。ちょっと悔しい、というか……」
「お前も俺のことが知りたいのに……って?」
もうやだ。エスパーやだ。
「……そうです」
「知りたいことがあったら聞けばいいぞ。俺に。何が知りたい?」
改めて言われると……
うーん。あ。あった。
「佐野課長の身長は、実は何センチなんですか?」
「えー? 182cmだけど……なんだソレ。知りたいか?」
「知りたいです。重要です」
私の脳内の字数がこれで大分減るんですよ。
182cm。うん。すごい言いやすくなった〜。
眉間の皺はどっかに行って、私はヘニャリ、と笑った。
機嫌を直した私をみて、佐野課長も破顔する。
「やっぱり可愛いな、美由は」
私は再びボン! と赤くなった。
なんか、時々さらりとぶっこんでくるな……
「あの、課長。あまり下の名前で呼ばれると、会社でうっかり口を滑らせてしまい、二人の関係がバレたら私、部署移動とかさせられちゃいます」
「いや。俺もお前もオンオフの切り替えが出来るタイプだから、問題ないぞ。俺と美由の場合はむしろ呼び方変えないと、会社とプライベートの切り替えが上手くいかん」
そ、そういうものですか……
当たり前だが社内恋愛なんて初めての経験だから、よくわかりませんが……
「だってお前、ベッドの中でも課長って呼ぶつもり?」
ぬあ。
そそそそれは! 私が今はまだスルーしていたかった問題いいぃぃ。
顔を真っ赤にして、頭から湯気が立ちそうな私をみて、課長はさらにぶっこんできた。
「前から思ってたんだけどさー、美由は男慣れしてないよなー。あれか。えすじぇ……」
「口閉じて下さい。セクハラですよ。訴えますよ」
「まぁ別にどっちでもいいんだけどなー」とか呟きながら課長は口を閉じてくれたのに、会話を続けたのは、まさかの私だった。
「どっちでも、いい……んですか?」
「んー? いいよー。どっちの美由でも俺は好きだからね。初めてなら俺が大事に大事にして、ぜーんぶ教えてあげられるし。そうじゃないなら痛い思いさせなくてよくて、嬉しいし。それでやっぱり大事に大事にして、ぜーんぶ上書きしちゃうし」
なんだろう。
物凄いことを言われている気がするのだが不思議とイヤでは無い。
なんか、私すごく、愛されているのでは?
そう思ったら、私も、課長に好きって気持ちを表現したくなった。
さっきの件、教えてもいいんだけど。課長がどっちでもいい……って言うのなら、それはもう、今あえて言わなくてもいい気がする。
何か、ないかな。今、言えること。
あ。あった。
「あの……私は確かに恋愛偏差値とか低くって、今はまだ、いっぱいいっぱいなんですけど……。でも、これから色々教えてくださいね……弘也さん」
キキーーーッッ!!
あわわ!
ブレーキの音が響き、体が前方に倒れ、シートベルトに圧迫された後、ガクン、と車が止まった。
停車した車を路肩に寄せて、サイドブレーキをギ、と引き、弘也さんがハンドルに突っ伏した。
「悪い……大丈夫か?」
「ハイ、私は大丈夫です。弘也さんは?」
「! ……だい、じょぶ、だけど、だい、じょぶ、じゃない……」
「ええ⁈ どっちなんですか」
私がオロオロしていると、弘也さんがハンドルから頭を上げて、ハァ……と息を吐いた。
「いや。大丈夫。ちょっと不意打ちすぎて、動揺しただけだ。……美由、俺の名前、知らないかと思ってたから」
私はキョトンとした。
「知ってますよ。上司ですから」
「いや、だって、呼ばれたことないし……」
「上司を下の名前で呼んだら、私はそいつはアホだと思います」
「……ですよねー……」
弘也さんは、またハァ……と息を吐き、メガネをダッシュボードにポン、と置いて両手で顔を覆った。
ああ!
メガネさんがっ……!
「俺ヤバイ……嬉しすぎて、泣きそう……」
メガネかけててもらわないと、こっちが泣きそうなんですが!
「弘也さん……今は運転中ですから、ちゃんと、メガネ、かけないと……」
「うん。かけるけど、その前に、」
抱きしめていい? と聞こえて、え、と思っているうちに、ガバッ! と弘也さんの腕が私の背中に回されて、ギュウ、ってされた。
うひゃあ!
私の顔は弘也さんの胸に埋もれている。あ、また、あのいい匂いがちょっとした。夕立ちの時、なんの匂いだろうって思った、あの匂い。
こんど、聞いてみよう……そんなことを考えているうちに、弘也さんの腕が徐々に弱まり、隙間ができたので、私はゆっくりと、弘也さんの顔を見上げた。
うっひゃあ!
そこには、あの、ふぇろもんダダ漏れの人が! 正面から私の顔を覗き込んでいるではないか!
メ、メガネ、メガネ!
私が脳内で昭和のコントの様な台詞を叫んでいることなど知るよしもなく、弘也さんはそれはそれは愛しそうに私を見つめて、耳元に唇を近づけた。
「…………好きだ、美由」
低音ボイスで囁くと、そのまま唇を下げて、首筋にチュ、とキスをする。ゾクゥ!
ひゃ、
な、な、な……
真っ赤になってワナワナしている私を、ふぇろもんダダ漏れの人が覗き込む。
近い近い近いーー!!
ん? と首を傾げている彼に「メガネを……」と声を絞り出すも、伝わらなかったらしく、何? と聞き返され、私はもう一度、声を大にして叫んだ。
「メガネを、かけて、ください!!!」
やっと課長のフルネームが(笑)
お読み頂き、ありがとうございます。