メガネの向こう側、です。
「シャワーとお着替え諸々、お借りしました。ありがとうございました」
佐野課長が用意してくださったお着替えは、黒のポロシャツとライトグレーのハーフパンツであった。当然だが、でかい。
半袖なので袖が余ることは無いが、裾は太もも半ば位まである。
つまり、一枚でもワンピースみたいな感じで成立するが、どんなにぶかぶかでも、シャツ一枚だけ、とかそんなことは絶対にしない。
だってそんなことしたらいわゆる彼シャツみたいじゃないですか! アホですか!
ピンクの空気は回避だしね。あとアホは嫌だ。
そんなわけでポロシャツの下にハーフパンツもしっかり履く。もちろんウエストはぶかぶかだが、紐で調節できるタイプなので、極限まで締め付ける。それでも緩いわけだが、ずり落ちる程では無くなった。
ポロシャツの方も、肩は落ちてしまうが、第一ボタンまでしっかりとめれば、胸元が見えてしまうなんてことは無い。
佐野課長が用意してくださったこのお洋服のチョイス……やっぱりできる子なんですね。
彼の方としてもピンクの空気は回避、に激しく同意なようだ。ですよねー。
「課長、恐れ入りますが、タクシーを呼んでいただけますか。私では現在地が説明できないので……」
「そんな格好でタクシーは却下だ。俺が後で車で送ってやるから、安心しろ」
そんな格好? え、ダメですか?
第一ボタンまで止めたし、ハーフパンツも履いたし、ピンクの空気回避できてますよね⁇
さすがに電車には乗れないと思うが、タクシーの後部座席にひっそりと座るのもダメな状態ですか?
はて。
よくわからないが、タクシー代を考えると佐野課長の申し出は財布に優しかったので、素直にお受けすることにした。
「ありがとうございます。助かります」
私はぺこり、と頭を下げた。
「それじゃ俺も軽くシャワーして着替えてくるから、これでも飲んで待っていろ」
佐野課長は白いマグカップをコトリ、とテーブルに置いてくれた。
おお。
先ほどから素敵な香りがすると思っておりましたが、なんとコーヒーをいれて待ってくれていたんですか。課長は私の嫁なんですか。そうですか。
課長が洗面所のドアをくぐり、パタン、とドアの閉まる音を確認するまで45度のお辞儀で見送ってから、私は頭を上げた。
ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、有り難くコーヒーを一口飲む。美味しい……和む……
この芳醇な香りはあれですよ。きちんとドリップしたやつです。
インスタントじゃないわけですね。
私がシャワーしてる時間を計算してコーヒードリップしちゃうとか、さすがです。
さすができる子です。
私の独断と偏見だが、コーヒーメーカーはあれだ。でろんぎ、とかそういうオサレな家電を使っているに違いない。そしてフライパンはてぃふぁーる、とかそういうの。
……そんなふうにとりとめの無いことを徒然なるままに考えながらコーヒーを堪能する。
10分程で、洗面所のドアがパタン、と開いた。
佐野課長は黒いVネックのTシャツにカーキ色のカーゴパンツを履いていた。
頭にフェイスタオルを被ったまま両手でワシワシと水分を拭き取っている。
課長の私服とか、初めて見ました〜。
180cmはありそうな高身長(聞いたこと無いけどね……以下略)で男性らしい、程良い筋肉のついたスタイルの良い方は、何着てもカッコイイっすね! 眼福です!
ニコニコ笑顔で佐野課長を見守っていると、課長はワシワシしていたフェイスタオルを下ろしてそのまま首にかけた。
……だ、誰だお前は⁈
いつもは軽く後ろに流している前髪がパラリと額にかかり、若々しくなっている。
前髪に半ば隠されながら、隙間からチラリと覗いている切れ長の瞳が濡れたようにキラリ。と輝くのを見てしまった瞬間。
私は顔に熱が集まり、動悸が激しくなるのを感じた。
……ぅおい!
爽やか美形上司31歳どこ行った⁈
なんか知らない人がいますけど⁈
そんな、ふぇろもんが、ダダ漏れしている、なにやら危険な香りがしている人、初めてお会いするんですけど!
この人はあれですよね。夜のお店でほすと、とか、ばーてんだー、とかやってる人ですよね!
……無理無理無理無理!!
佐野課長ーー!
どこですかーー!
私の脳内がエライことになっている前で、ふぇろもんダダ漏れの人は、Tシャツの襟に引っ掛けていた銀縁のメガネを悠然と手に取り、スチャリ、と顔に装着した。
あ。
さ、佐野課長!
おおお、お帰りなさいいぃ。
爽やか美形上司31歳が帰ってきた……!
よかったー……
心から安堵した私はほぅ……と溜め息をついた。
何、今の。
なんか、開けてはいけない扉、というか、見てはいけない、メガネの向こう側を見てしまったのでは……?
あ、あかん! あかんやつや……!
見てしまったら……なんか何かが戻れなくなりそうな、そんな気がする。
あの銀縁メガネの下にあんな危険な武器隠し持っているんですか……
ガクガクブルブル。
佐野課長……恐ろしい子!
あの銀縁メガネ、超重要アイテム。
外しちゃダメ、絶対。
激しく決意している私の視線に構うことなく、佐野課長はコーヒーの入ったポットと、白いマグカップと、牛乳を小パックごと持ってきてダイニングテーブルに置き、私の向かいの席に腰を下ろした。
自分のマグカップにコーヒーを注ぎ、空になっていた私のカップにも注いでくれる。
「お好みでどうぞ」
そう言って、小パックの牛乳を渡してくれた。
私は密かに息を飲んだ。
……私はコーヒーが好きで。一杯目は好んでブラックを飲む。しかし2杯目になるともう少しまろやかにしたくなって、カフェオレを飲むのだ。
しかも、コーヒーと牛乳1:1の比率で割るのを好む。牛乳を多めに必要とするので、こんなふうに一番小さいパックの牛乳を用意して、自分でコーヒーに足して飲む。
でも、牛乳の小パックとか、お店とかそういうところでは使わないし。
休憩で飲む時は一杯しか飲まないから、カフェオレにはしないし。
この、2杯目をカフェオレ(コーヒーと牛乳が1:1)という、私のレアな特性を、なぜ、佐野課長が知っている……?
「お前が今考えていることを当ててやろうか?」
私の疑問を察したかのように、佐野課長が口を開いた。
「え?」
「なんで俺が高垣のコーヒーの好みを知っているのか……だろ? 前に見たからだよ。会社のデスクでお前が昼飯食ってた時に。コンビニでパンと、パックの牛乳買って来てた。給湯室からコーヒー入れて持ってきて、一杯目はいつも通りブラックだったけど、二杯目にはおもむろに牛乳をガンガン入れて飲んでたよな」
……そうだけど。
昼食は毎回デスクで食べるわけじゃないし。その時はパンだったからコーヒーにしたんだろうけど、例えば和食系のお弁当だったら、緑茶とか飲んでるし。
私がデスクで食べている時にたまたま佐野課長もデスクに居る、ということも滅多に無いと思うし。
会社でそのようにして飲んだのは一回か二回程度のことだというのに。
そんな数少ない機会で私の好みを把握したというのかい?
……いくら、なんでも。ありえなくない?
「それだけ俺が高垣のことをよく見てる、ってことなんだよね」
……はい?
さっきから私の考えていることを正確に読んで発言してますけど……課長はエスパーかなんかですか?
それよりも。
今、なんて?
オレガタカガキノコトヲヨクミテイル……?
あ、上司として、ですかね……
私が、二の句を告げられないまま佐野課長を見ていると。
「……まぁ、俺はかれこれ一年半くらい、高垣の上司をやっているよね」
また出た。エスパーが!
佐野課長はコーヒーを一口飲み、穏やかな笑顔を浮かべると、穏やかな口調で話し出した。
「高垣。ちょっとね。話をしようか」
まぁどうぞどうぞと、掌を上に向けて課長が牛乳パックを指し示したので、私はコーヒーが4割程注がれていたマグカップの中に、パックの牛乳を注いだ。
それを一口ゴクリ、と飲み、神妙な面持ちで佐野課長を見る。
「俺はね、高垣のことをよく見てきたつもりだからね、けっこうお前のことをよく知っているんだよね。お前のコーヒーの好みとか、お前が普段何を考えているのか、とか」
私も知っている。
佐野課長がこんなふうに穏やかな笑顔で、穏やかな口調で話を進めている時は、かなり本気で勝負に出ようとしている時だ。
事前のリサーチを終え、何度も機会を伺い、タイミングを計り、今日で決める。
そんなここ一番という時にはこんなふうに穏やかな笑顔と口調で話を進め、最後には必ず契約を決めてくるのだ。
決して話を強引に進めるわけではなく、相手の反応を見ながらあくまでも優しく穏やかに話を進め、決定権は相手に委ねているというのに、最後には必ず佐野課長が勝つのだ。
私もこの一年半、その営業手腕をずっと見てきましたよ。
なので、恐ろしいのです。
課長はいったい何に、勝つつもりなんでしょう……?