2-05
プリシーに続き階段を上るが、王城は一階分の高さが通常より高い。三階と言っても、街の建物の五階分の高さはある。そのため半分を過ぎたあたりから息が上がった。
ようやく最後の段を上り終えた時、視界が急に明るくなった。真っ先に目についたのは、澄んだ淡青の空だ。太陽も雲もない、どこまでも高い静かな空。その手前に花と蔦で飾られた柱廊があった。柱の向こうには手入れの行き届いた花壇があり、植物たちは少しでも多くの陽を浴びようと空へ向かって鮮やかな花びらを広げている。
空が近い。まるで天空の庭のようだ。
この高さまでくれば、堅牢な城壁が見えることもない。おかげで城壁の向こうにある王都北側の草原を一望できた。サンドリーム城の裏側の景色だ。エフェメラは初めて見た。
王城の表側は城下町で華やいでいるのに、裏側は音のない緑が彼方まで広がる。風がそよぐ緑の草原に一本の広い街道があるだけだ。遥か北に、天を突き刺すような高い山がおぼろげに見える。
「すばらしいでしょう」
思わず足を止めていたエフェメラに、プリシーが穏やかな声音で言う。
「わたくしもここからの景色は好き。太陽の光は当たらないけれど、城の影が伸びる静かな草原は、見ていて心が安らぐわ」
「お城の裏側に、こんなに綺麗な景色が隠れていたんですね」
「北棟の最上階なんて、城の者でも来られない者は多いのよ。今日は特別。北の緑の草原と、青く霞むシャドの山を見ながら、おいしい紅茶とお菓子を楽しむことにしましょう」
柱廊を進むと広いテラスが見えてきた。テラスには整えられた芝が敷かれ、白磁の円卓がある。それぞれの椅子にはドレス姿の令嬢が四人座り、空いている椅子は二脚だ。エフェメラとプリシーで全員のようだ。
テラスに入る直前、プリシーが小声で言った。
「わたくしはね、週に一度お茶会を開いているの。『プリシー王女のお茶会』と言えば、知らない令嬢はいないってくらい貴族の間で有名なのよ。……最初はね、ただの暇つぶしで始めたのだけど。王室の紅茶とお菓子をご馳走する代わりに、みんなとお喋りができたらいいなって」
プリシーが懐かしむように目を細める。国王アイヴァンと同じ翡翠色の瞳は翠玉のように美しく煌めいていた。
「でも、国内各地のお話を聞けるお茶会は、いまではわたくしの一番の楽しみなの。だから、エフェメラも楽しんでくれるとうれしいわ」
×××
プリシーが手元の鈴を鳴らすと、使用人が紅茶と菓子を運んできた。クリームたっぷりの苺ケーキに艶やかなチョコレート、繊細な模様が編まれたバタークッキーなど、すべてのお菓子が可愛らしく美しく、食べるのがもったいない。
目の前に置かれた格子模様の茶器に琥珀色の紅茶が注がれる。エフェメラは紅茶と菓子の香りに癒され、うっとりと目を細めた。
「エフェメラ。みんなを紹介するわ」
紅茶を一口飲んでから、プリシーがエフェメラの左隣に座る少女に手をかざした。
「こちらはイルマ。タラニス伯爵のご令嬢よ」
片側に緩く三つ編みを結び、縁なしの眼鏡をかけた少女だった。イルマはエフェメラと目が合うとほほえみ会釈をする。
「イルマは二回目の参加だったわね。前にお茶会に参加したのは昨年の夏――クイーンティーリスの最後の週だったかしら」
「はい、そうです。覚えていてくださっていたなんて」
「当然でしょう? 好みの男性のお話で盛り上がったのだったわね」
わずかに頬を赤くしたイルマに、プリシーはからかうような笑みを向けた。次にプリシーはイルマの隣に座る令嬢を見やる。
「こちらはアナ。スケッルス子爵のご令嬢。今回初めて誘ってみたの」
「おっ、お誘いありがとうございます、プリシー王女殿下」
アナはエフェメラよりも緊張しているように見えた。頬を紅潮させながら、頭の高い位置で二つに結っている髪を落ち着かないように触る。子爵の位の者が王族と話せることは滅多にないため、アナの反応は珍しいものではない。
「こちらこそ、ご参加ありがとう。今日は楽しく過ごしましょうね、アナ」
プリシーはアナが頷くのを見て嬉しそうに目を細めた後、右隣の席を見る。座るのは六人の中で最も派手なドレスを着た金髪の少女だ。
「彼女はロレッタ。ベレヌス伯爵――ではなくて、ベレヌス侯爵のご令嬢よ。ロレッタ、お父さまの陞爵おめでとう」
「ありがとうございます、プリシー王女殿下」
ロレッタは縦に巻いた金髪を払い、澄ました顔で胸を張る。金剛石の耳飾りがきらりと輝き、金の腕輪がしゃらりと音を立てた。
「陛下がお父さまのことをよくご理解してらっしゃって、安心いたしました。次に侯爵の位を賜るとすれば、三百年続くベレヌス家以外にあり得ませんでしたから」
「そうね。ベレヌス侯爵は国への貢献度も高いし、わたくしも良い配置だったと思うわ」
最後に、プリシーはエフェメラの向かい側に座る少女に目を向ける。
「こちらはカーミラ。メルクリウス公爵のご令嬢よ。今日はわざわざセプテンから来てくれたの」
セプテン市は南西端にある巨大都市だ。ウィンダル公国に近く、王都からは馬車で半月ほどかかる。
カーミラは長い黒髪に映える深紅のドレスをまとい、薔薇の髪飾りをしていた。
サンドリーム王国で爵位を持つ者は三百名程いるが、最高位の公爵を賜る者は十二名だけだ。十二公爵家は王家と同様建国当初から血筋がほぼ変わらない。そのため扱いは特別で、彼らの意見は政治に多く取り入れられる。
「あなたとは式典や夜会ではよく会うけど、わたくしのお茶会に来てくれたのは初めてよね?」
「ええ。噂のお茶会にようやく参加できて、うれしいわ。それに――」
カーミラの黒曜石のような黒の瞳がエフェメラに向けられる。
「まさか、先月婚姻したばかりの話題の方とお話しができるなんて」
五人の視線がエフェメラに注がれる。エフェメラは肩を強張らせた。プリシーがエフェメラを紹介する。
「珍しい髪色と瞳の色でおわかりでしょうけど、こちらはエフェメラ・ルーン・スプリア姫よ」
エフェメラはおずおずと頭を下げた。
「は、初めまして」
他に何を言うべきか迷っていると、イルマがエフェメラに話しかけた。
「ご結婚おめでとうございます、エフェメラ妃殿下。先月の結婚式、とても素敵でしたわ。二人そろってお綺麗だから、並んでいると本当によくお似合いで」
エフェメラは頬を染めた。ディランと釣り合っていないと感じていたため、お似合いだと言われるのは舞い上がるほど嬉しい。
「わたくしもお父さまとご挨拶に伺わせていただきました。覚えていらっしゃるかしら」
カーミラが落ち着いた声で訊いた。エフェメラは困った。慣れない舞踏会での挨拶はディランに任せっぱなしで、迷惑をかけまいと自分のことで一杯だった。挨拶に来た者たちの顔を覚える余裕はなかった。答えに窮しているとロレッタも口を開く。
「あたくしも参加いたしましたわ。でも、気づいたらお父さまが一人で挨拶を済ませてしまっていて。せっかくのディラン殿下とお話ができる機会でしたのに」
ロレッタは悔やむように溜め息をつく。
「お父さまったら、国務を怠るディラン殿下が気に入らないみたいで、少し悪く言ったみたいなんですの。怒っていらっしゃらなかったかしら?」
エフェメラはロレッタの目からも逃れるように視線を手元に落とした。ディランのことを悪く言っていた貴族は何人かいたが、名前までは思い出せそうにない。
「……怒っては、いなかったと思います。でもその、わたし、どちらもしっかりと覚えていなくて……ごめんなさい」