2-57
「ア、アーテルっ?」
「そろそろ帰ってくる頃だろうからな」
「何を――っ」
アーテルの顔が近づいてきた。何をしようとしているかなんて、訊くまでもない。
エフェメラは壁のせいで後ろへ引くこともできず、また、両手首を掴まれているためアーテルの体を押し返すこともできない。そうしているうちに、二人の唇は触れそうなほどに近づいてしまっている。
エフェメラはひたすらに混乱した。口づけしてしまったらディランにどう言い訳をすればいいかだとか、そもそもアーテルはディランの友達ではないのかだとか、いろいろなことが頭を駆け巡る。
しかし、アーテルは寸でのところで止まってくれた。またからかっただけなのかと思ったら、アーテルが動きを止めたのは、首に剣先を当てられたからだと気がつく。
「すっかり元気になったみたいだな、アーテル」
底冷えする声だった。不機嫌に目を眇めるディランが、エフェメラとアーテルのすぐ横に立っていた。
忽然と現れたように感じて、エフェメラは言い訳をするよりも先に驚いて固まってしまった。しかし部屋の入口を見れば、扉はちゃんと開いている。
アーテルは怪我をしているとは思えない軽やかさでエフェメラから距離をとり、同時にディランの剣からも逃れる。ディランは刺々しい雰囲気を発したまま剣をしまった。アーテルのことは睨んだままだ。
「何のつもりだ、アーテル」
「フィーとオレの秘密」
「……は?」
「フィー。言った通りだろ?」
アーテルはエフェメラに片目を瞑って見せた。エフェメラはディランを見上げる。ディランは本当に苛々《いらいら》しているようだった。まるで、妬いているみたいに。
「何の話だ」
「だから教えないって。何? 気になる?」
「……フィーをからかうのはやめろ」
「別にいいだろ。本人はそれほど嫌がってないみたいだしぃー?」
「へっ?」
いきなり話を振られ、エフェメラは慌てた。ディランがエフェメラを見る。エフェメラはディランが妬いてくれているのかと頬が緩んでいた。すぐに表情を取り繕うが、ディランの怒りが急速にしぼんでいくのがわかった。
「ディランさま、違うのです! わたしは決して、うれしくなんて――とても怒っています!」
「……」
「アーテルなんて、ぜんぜん、これっぽちも、好きではないんです!」
「あーあー。せっかくお前を思いやったってのに、ひどい言い様だな」
「え? ああっ、違うの。好きではないというのは、アーテルを特別に好きではないという意味で、ふつうの意味では、ちゃんと好きよ」
「ああ、知ってる」
「へ? あっ。またからかったのね!」
「……」
「あ――っ!」
部屋に大声が響いた。アルブスの声だった。アルブスは貼り薬や塗り薬が入った籠を持ち、怖い顔で部屋の入り口に立っている。
「アーテル! 何で立ってるんだよ! 僕が帰ってくるまで、ちゃんと寝ててって言ったでしょ!」
アルブスはすごい剣幕でア―テルを寝台に投げ戻した。エフェメラは慌てて場所を空ける。
「ようやく血が止まったのに、また傷が開いたらどうするつもりだよ!」
アルブスは、アーテルの口に痛み止めの丸薬と水を突っ込み有無を言わせず飲ませる。沼から宿への道中も、アルブスはアーテルをとても心配していた。協力し合って生きてきた分、大怪我をしたら心配で仕方がないようだ。アーテルはされるがまま、今度は白布を替えられ傷に薬を塗られていく。
「……じゃあ、俺は行くから。留守は頼む」
ディランが部屋を出て行こうとする。エフェメラがきょとんとする横で、事情を聞いているらしいアルブスが背に声をかけた。
「うん。気をつけてね」
「どこかへ行かれるのですか?」
エフェメラは慌てて訊いた。
「カルケニッサに忘れ物をしたんだ」
「そう……なのですか」
「馬を飛ばすから、明日の出発までには戻るよ」
「……わかりました」
寂しいなと感じた。先ほどまで高揚していた気分が嘘のように落ち込む。アーテルが寝台で横になったまま声を投げた。
「お前が忘れ物なんて珍しいな」
「そうだな。お前みたいに、うっかりしてるわけじゃないんだけどな」
ディランはまだアーテルに怒っているようだった。
「はいはい。どうせオレは、お前みたいになんでもできる完璧人間じゃありませんよー」
森に迷った時もそうだったが、ディランとアーテルは頻繁に喧嘩をするのかもしれない。だがいつも一緒のアルブスがまったく気にかけていないため、大体は軽いものなのだろう。
「……俺だって、なんでもできるってわけじゃない。お前みたいに、誰かを笑わせるのは、苦手だしな」
アーテルが目を丸くした。ディランはもう部屋を出ていた。
「なんだあいつ……気持ちわりい」
「アーテルは、ばかにされたら怒るくせに、褒められてもそんなことを言うのね。ディランさまは気持ち悪くなんてないわ」
「お前のディランばかは相当だよなぁ」
傷の処置が一通り終わった。アルブスが籠に薬類を片付けている時、アーテルが思い出したようにエフェメラに訊いた。
「そういえばさ、結局、あの本ってどう終わったんだよ」
「あの本って、『夜空の花の王子様』のこと?」
二日前アーテルに結末を訊かれた夜は、エフェメラが泣いてしまい教えることができないでいた。