2-56 夜空の花の王子様
「せっかくディランさまが助けてくれたのに、目を閉じていたから何もわからなかったわ」
エフェメラが残念がっていると、寝台で体を起こしていたアーテルが反対した。
「見ねーほうが良かったって」
アーテルの傷の手当ては終わり、頭や肩には白布が巻かれている。傷口は幸い浅かった。
「あいつらに深手を負わせたって、ディランが言ってたろ?」
「そうだけど……」
山の麓にある村の、小さな宿屋の中だった。部屋にはエフェメラとアーテルのほかに、ローザとヴィオーラ、ガルセクもいる。ディランとアルブスは、村の薬屋に行くと言って少し前に出ていった。
みなで沼から逃げた後、村まで急ぎ逃げて来た。エフェメラは助かった経緯を口頭で聞き、とても驚いた。
アナとコリーはもういなかった。カルケニッサの町へ帰ったのだ。エフェメラは二人に一緒に宿で休むことを勧めたが、スケッルス子爵が急にいなくなった二人を心配しているだろうからと断られた。
下山の最中、アナはずっと無言で、思い詰めた表情をしていた。親友だったリリシャに命を奪われそうになったのだ。無理もない。エフェメラは励ましの言葉をあれこれ考えたが、どんな言葉も適切ではない気がして結局何も言えなかった。
それでもアナは別れ際、弱々しいながらもエフェメラにほほえんでくれた。エフェメラはアナを抱きしめた。それから別れの挨拶を交わし、アナとコリーは帰っていった。
「にしてもほんと、お前が崖から落ちた時は、心臓が止まるかと思ったぜ」
アーテルがやれやれと首を振る。
「鈍臭えんだから」
エフェメラは呆れるアーテルを見ながら、ローザから聞いた話をした。
「でもアーテルが怪我をしたのは、わたしが落ちた時に、助けようとして賊の方たちに抵抗してくれたからなのよね?」
アーテルが動揺し目元を染めた。片手をかざし、頑なに言う。
「頼むからその話はするな。ディランは平然と助けに行けたのに、オレだけ怪我しててばかみてーなんだから。オレを想うならもうこの件には触れるな」
「そ、そう?」
「だいたいなあ。ほんと、オレだけ焦っててあほみたいだったんだぞ。そいつらなんて大して焦んねえでさ」
アーテルは寝台に座ったまま、ローザとヴィオーラ、ガルセクの三人を指差す。三人はエフェメラと目を合わせ、曖昧な表情になる。言うまでもなく、三人がそれほど焦らなかったのは、いざとなればエフェメラが飛べることを知っていたからだ。
エフェメラは少し迷ってから、アーテルに羽のことを明かした。説明するよりも見せたほうが早いと思い、驚かないように念を押した後に羽を背中に現して見せる。アーテルは驚きの叫び声を上げた。
アーテルが落ち着いてから、ローザとヴィオーラにも羽を出してもらった。二人が室内をふわふわ飛んで見せると、アーテルは面白くなってきたようで、驚きを笑顔に変えた。
「へー。ガルセクには羽ねえのか。安心した。男が妖精の羽生やして飛ぶのは、ちょっと気持ちわりぃもんな」
「……その言葉、スプリア国王陛下や王子殿下たちにはおっしゃらないでくださいね」
「てことはやっぱり、おっさんにも羽が生えんのかぁ……」
「男の人の羽だって、かっこいいんだよ」
ローザがアーテルの隣に下り立ち言う。
「ローザたちのより、ちょっとだけ羽の先がしゅってなってるの」
アーテルは「ふーん」と返しながら、いきなりローザの羽を掴んだ。途端にローザが真っ赤になって叫ぶ。
「ひゃあああ――っ!」
「うおっ、びっくりした」
予想以上の反応に、アーテルが驚いて手を離す。ローザは頬を紅潮させたままアーテルを睨みつけた。
「羽にさわっちゃ、だめっ!」
「少しくらい良いじゃん。どんな感触なんだろうと思ってさ」
「だったらもっとやさしくさわって! ローザたちにとって、羽は心ぞうと同じくらい大切なものなんだからっ!」
「ふーん?」
納得したように返事をしながら、アーテルは今度はローザとヴィオーラの羽を同時に掴む。二人は雷が落ちてきたみたいに赤面してすくみ上がった。「すけべーっ!」「へんたいっ!」と叫びながらアーテルの手を逃れようと暴れ出す。
赤面してもがく五歳の女児たちの様子には、それなりに嗜虐心を煽るものがあるらしい。アーテルは「ほうほう」と楽しげにする。エフェメラとガルセクは苦笑いをしていた。
「つーかそんなに触られるのが嫌なら、羽隠せばいいだろ」
「誰かに掴まれている間は、隠せないのよ」
「え、そうなの?」
エフェメラに教えられ、アーテルは二人を解放した。二人は乱れた呼吸を整えた後、アーテルの顔の両側から、息ぴったりに空中蹴りをお見舞いした。それから羽を隠し、「すけべーっ!」「へんたいっ!」と叫んで部屋を出て行った。廊下でも叫び続けている二人を注意しに、ガルセクも部屋を出ていく。
アーテルはしばらくの間蹴られた頬を撫でていた。エフェメラは、アーテルが羽のことをどう思ったのかまだ気になっていた。
「ねえ、アーテル。わたしたちの羽のこと、どう思った?」
「どうって……まあ、驚いたけど」
アーテルは宙を見やり、独り言のように続ける。
「不思議なことをできるやつが、結構いるもんだなって」
「え?」
「いや、こっちの話。なあ、また羽見せて」
エフェメラは一旦隠していた羽を再び露わにした。アーテルは今度は驚かず、眺めるようにエフェメラを見つめる。羽だけでなく、羽と一緒にエフェメラを見ているようだ。
「どうしたの?」
「きれいなもんだなーと思って」
「へっ?」
エフェメラは赤くなった。アーテルは、スケッルス子爵の邸でエフェメラの髪を撫でた時と、同じ雰囲気を放っている。
「急に、な、何を言い出すのっ?」
「思ったから言っただけ。その羽、ディランにも見せたんだろ?」
「ええ……」
「ディラン、見惚れてたろ」
エフェメラは羽を見せた時のディランの反応を思い出す。ディランは最初こそ崖に突き刺した剣を手離すほど驚いていたが、視線は終始エフェメラの羽だけに向かっていた気がする。
「……見惚れてなんて、いなかったわ」
「ほんとかよ」
「ディランさまがわたしに見惚れるなんて、あるわけないじゃない。……わたしのことを、好きなわけでもないんだもの」
自分で言っておきながら気分が沈んだ。今回の旅には、ディランと仲良くなりたいと思いついて来た。山小屋で話をして、少しは距離が縮まったかもしれない。だが結局、ディランの気持ちを振り向かせるまでには至らなかった。
アプリ市へ向かう予定は、アーテルが怪我をしたことと、事件に巻き込まれみなが疲弊したことで、ディランが中止にすると決めてしまった。宿で一晩休み、明日には王都へ向けて出発する。もう、旅は終わりだ。
「好きじゃないって……そんなことはないと思うぜ?」
「……」
「仕方ねーなぁ。なら、オレが証拠を見せてやる」
「え? ――きゃっ!」
アーテルが、いきなりエフェメラの腕を引き寝台に座らせた。そして枕元の壁にエフェメラの体を押しつける。いきなり自由を奪われ、エフェメラは気が動転した。