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崖から少し歩いたところで小さな山小屋を見つけた。いまは使用されていないらしく、中にあったのは空瓶が入った木箱にかび臭い毛布、蝋燭の折れた角灯や錆びついた剣などだ。使えそうなものはない。
しかし屋根があることだけでもありがたかった。エフェメラとディランはしばらく小屋で休むことにした。
「――もう一度、羽を見てもいいか?」
ディランが言うので、エフェメラはまた羽を出した。ディランは再び目を瞠ったが、今度は一瞬驚いただけで、すぐにエフェメラの背に回り羽を観察し始める。
「この羽は、スプリア人の特徴なのか?」
「はい。でも、スプリア人でも羽がない人はいます。血の濃さに、関係しているのですが」
「ほかの国の血が濃いと、羽を持って産まれないということ?」
エフェメラはディランの理解の速さに驚きつつ頷いた。
「そうです。たとえば、父か母、どちらか一方でもスプリアの純血家系なら、子どもは羽を持って産まれてきます。ですが両方に他国の血が混ざっている場合は、子どもは羽を持って産まれてきません。具体的には、ローザやヴィオーラは、母方がスプリアの純血なので、二人とも羽を持っています。でも、ガルセクのご両親はどちらも他国の血が混ざっていますから、羽がないんです」
「なるほど……。ローザやヴィオーラにも、羽があったなんてな」
ガルセクは外見的特徴からしても、スプリア人の象徴である桃色の髪と銀色の瞳からはほど遠い。ローザとヴィオーラは近いが、やはり混じりがあるため髪色が鮮やかな桃色ではない。
現在のスプリア王国民の半分は、ガルセクのように羽を持っていなかった。長い年月をかけて、血は他国のものと混ざり合い、残る純血のみの家系はスプリア王家とそのほか数えるほどしかいなくなってしまっていた。
「羽に触ってもいい?」
ディランのさりげない要望に、エフェメラは赤くなってぎょっとする。ディランの瞳にあるのは無邪気とも言える好奇心だ。仕方なく、エフェメラはこくりと頷いた。
「羽は、出したり消したりできるんだな」
ディランはまるで珍しい鉱石の研究をしているかのように熱心に、エフェメラの羽をぺたぺた触ったり、指でこすり合わせたり、光に透かしてみたりした。
「半透明の銀色――鳥の羽というよりは虫の羽に近いけど、感触はなめらかなんだな。すごく破れやすそうだ」
「意外と丈夫なんです。無理やり千切ろうとしたり、刃物などを使わない限り、破れません」
「破れたら、治るのか?」
「ひどい傷でなければ治ります。普通の怪我と、同じです」
「衣服はすり抜けるんだな」
「はい。人間や動物、植物はすり抜けないのですが、衣服や食べ物など、物はすり抜けるんです」
「生きているものといないものの差かな……。羽を動かす時は、どんな感じがするんだ?」
「えっと……特には」
「腕を曲げるみたいな、自然な感覚ってこと?」
「はい。そのような感じです」
ディランは今度は羽にある紋様に興味を示す。
「この紋様は何かを表してるのかな……」
紋様をなぞるディランの指の動きに、エフェメラは思わず「ひゃうっ」と声を上げてしまった。羽も素早く動かしてしまったため、ディランが驚いて手を離す。
「あっ、すみません、ディランさま。……でも、あの……もう、よろしいでしょうか?」
エフェメラはすっかり体が火照っていた。頬が朱に染まり、汗も少しかいている。
「その、本当は、羽を触られるのは……とてもとても、くすぐったいのです」
ディランは言われて初めてエフェメラの様子に気がつく。
「ご、ごめんっ! 無遠慮だった」
「……いえ」
エフェメラはほっと息をついた。もう使うことはないだろうと羽を隠す。
会話が途切れ、屋根を叩く雨音が大きく聞こえた。ディランが窓の外に目線を移す。エフェメラは壁際に置かれた木箱に座った。
気持ちが落ち着くと、急に寒さが襲ってきた。腕を抱き締める。体がすっかり冷えていることにいま気がついた。髪もワンピースも、水をたっぷり吸い込み冷たい。
みんなは大丈夫だろうかと考える。何故襲われたのか、男たちはエフェメラたちをどこへ連れて行こうとしていたのか。態度からして、きっと良い場所ではない。
考えながら濡れた靴の先を見ていると、ディランが近づく気配がした。顔を上げたところで、急に体が温かくなる。ディランが肩にマントをかけてくれていた。
「このマント、水をはじく糸で作られてるから、中までは濡れないんだ」
マントの内側は乾いていて温かく、ディランの服も濡れていない。
「あ、ありがとうございます」
「髪も、これで拭くといいよ」
ディランは首に巻いていた細長い布も外した。そして布をエフェメラの頭に優しくかける。
ディランが顔を隠す時に使っている細長い布だ。よく見れば、布には繊細な刺繍が編み込んであり、安物でないのがわかる。だが、ずいぶんと年季の入ったものだ。
「汚くないよ。ちゃんと洗ってるから。……たまにだけど」
エフェメラは可笑しくて笑った。ありがたく髪を拭いていると、布からディランの匂いがした。心臓の音が早くなる。その鼓動が心地良かった。
エフェメラが布を返すと、ディランも自分の頭を軽く拭いた。エフェメラがその様子を見ていると、目が合った。ディランは目を逸らし、頭に布をかけたままぽつりと訊いた。
「……ずっと、怒ってたんじゃないか?」
エフェメラはきょとんとした。何のことを言っているのかすぐにはわからなかった。
「俺が、ひどいことを言ったから。奴隷を助けず、そのままにしておくべきだって。ヘーゼル司祭のことだって……」
奴隷の件で言い合って以降、ディランとはあまり話していなかった。だからディランは、エフェメラがあれからずっと怒っていると思っていたらしい。
「いえっ! わたしは、怒っているわけでは……。ディランさまには、ディランさまなりの考えがあって、それで助けるべきではないとおっしゃったのだろうと、考え直そうとしていて……。わたしのほうこそ、ずっとごめんなさい。ディランさまのお仕事についていきたいと、無理にお願いをして一緒に来たのに」
「君が謝ることないよ。君の言う通り、奴隷制度なんてないほうがいいし、ヘーゼル司祭の件だって、助けられるのなら手を貸すべきだった」
「……なら、どうして、逆のことを言ったのですか? 小さな犠牲があっても自分たちが幸せならいいとか、自分たちが危険になる可能性があるから助けないとか――ディランさまは、優しかったり優しくなかったり……よく、わかりません」
ディランはしばらく黙っていた。表情からは相変わらず心を読みとれない。ややあって、口を開く。
「フィー。俺は本当は……サンドリーム王国の、本物の王子ってわけじゃないんだ」
言っている意味がわからず、エフェメラはただ首を傾げる。
「俺は、城で暮らしてるほかの兄弟たちとは、実は少し、立場が違う。俺の母さんが、王妃として存在していないことは知ってる?」
「えっと……はい」
「俺の母さんは、ある小さな集落で生まれたんだけど、その集落は、サンドル王家と古い約束をしていたんだ。約束の内容は、『百年に一度、集落の血が入った子どもをサンドル王家の三番目の王子として迎える』というもの。俺は、その約束のためだけに作られた子どもなんだ」
エフェメラは驚いた。約束のためだけに作られたなど、まるで道具として生まれてきたような言い方だ。
「約束によって、俺は王子になったけど、それでも本物の王子とは少し違う。王子としての権威はないんだ。君はこの前、奴隷制なんてなくしてしまえばいいと言った。でも俺には、実行する権利がない。だから、やりたくてもできないんだ。たとえば本物の王子なら――イーニアス兄さんとか、リチャード兄さんなら、奴隷制廃止のような大きな改革ができるかもしれない。陛下に頼んだり、自分が動いたり……それが許される立場だから。でも俺は違う。第三王子なんて立場は、本当は、ただの肩書きでしかないんだ。……君は、俺のことをずっと王子だと思ってきただろうから、がっかりだよな。ごめん」
ディランが寂しげに眉を下げるので、エフェメラはまだ理解し切れないながらも言葉を返す。