2-51
エフェメラたちも素直に馬車を降りた。一度やられた男たちは立ち上がる。
アルブスとガルセクも武器を奪われた。ディランとアーテルも含め、四人は両手を後ろ手に縛られる。
斜面から、男二人とアナとコリーが下りてきた。アナとコリーは拘束されたまま地面に放り出され倒れる。衝撃で、アナの口を覆っていた布がずれ、コリーの眼鏡が外れて飛んだ。コリーはかなり目が悪いようで、周りを見ていてもどこか焦点が合っていない。
アナは目を鋭くして男たちに叫んだ。
「なんなの! どうしていきなり、こんな……一体あたしたちをどうしようっていうの?」
「お前たちには、ある場所まで一緒に来てもらう。いいから大人しくしてろ」
エフェメラは隣で震えるローザとヴィオーラに手を重ねた。みなずぶ濡れだ。男の一人が拘束がまだだったエフェメラに近づいて来た。エフェメラは助けを探すようにディランを見る。
ディランは、抵抗せずにじっと立っていた。金色の髪が水を吸い、いつもとは雰囲気が違って見える。
ディランはずっと何かを考えているようだった。しかし、ふと山の斜面を見上げる。ちょうどアルブスやガルセク、エフェメラたちがいる、馬車が停止した真横の斜面だ。
斜面から、ぱらぱらと小石が落ちて来る。斜めに生えた樹木がぐらりと傾くのが、やけにゆっくりと見えた。ディランが叫ぶ。
「まずい……! 早くこっちへ!」
地鳴りとともに土砂崩れが起きた。一台の馬車が埋まる程度の、しかし数人を生き埋めにするには十分な量の土砂だ。一瞬、みなが呆然と頭上を見上げた。
アルブスが一番に反応し、逃げ道を作るために手前にいた男たちを蹴り飛ばす。それを合図にガルセクが我に返り、縛られたままローザとヴィオーラのそばで体勢低くした。エフェメラは瞬時に察し、二人をガルセクの背に乗せた。
走る背中に、体の奥底まで響く轟音がぶつかる。土砂の下敷きになることはどうにか避けられたが、エフェメラの視界に、逃げ遅れた男が足を負傷し倒れるのが見えた。
それに気をとられた。まだ横流れしてくる泥土に足を掬われ、エフェメラは前のめりに転んだ。流れる泥水とともに、崖へと体が滑っていく。
「フィー!」
ディランの声だった。ガルセクとアルブスが、ようやく後方のエフェメラの状況に気づく。
体を流されながら、エフェメラは両手を動かし掴むものを探した。左手が木の柵を掴む。だが手首に痛みが走りすぐに手を離してしまった。その一瞬が堪えられなかったせいで、伸ばしてくれたディランの手を掴めなかった。
体が崖下へと落下していく。地上は眩暈を起こしそうなほど遥か遠く、落ちたら体は確実にぺしゃんこだ。エフェメラは引き込まれるような重力を感じながら、呑気なことを考える。
(ディランさま、縄で手を縛られていたはずじゃ……)
視界一杯に灰黒色の雲が広がり、降り注ぐ大粒の雨がはっきりと見えた。どうしてだろう。見上げると、雨はいつも自分を中心に降っているように見える。
落下してすぐに、木の葉の一群に突っ込んだ。視界は、雨雲から崖に生える木の葉と枝へ変わる。エフェメラはぎゅっと目を閉じた。すぐに枝の折れる音が消え、全身がまた宙に投げ出される。体によく馴染んだ感覚に、地面までの距離をなんとなく予想する。
大切なのは、羽を出す瞬間だ。あまり早すぎては全員に見えてしまう。エフェメラは目を閉じて、丁度いい瞬間を待つ。
だがその瞬間は訪れなかった。体を強く抱き締められる感覚に、エフェメラは驚いて目を開ける。目の前に見えたのは、鮮やかな金髪と夜空を思わせる青藍の瞳だ。
「ディランさま!」
ディランが空中でエフェメラを抱きとめていた。二人で落下しながら、ディランは腰から剣を抜き、崖に強く突き刺す。剣はしばらく土や岩を削り、やがて崖の途中に刺さったまま停止した。平凡な剣ならばとっくに折れてしまっていただろう荒業だ。
エフェメラは信じられない思いでディランを見つめた。ディランがほっと息をつくのが体から伝わってくる。
「ディランさま! 何をしているのですかっ!」
予想外のエフェメラの剣幕に、ディランはいささか面食らう。
「何って……」
「どうしてディランさままで落ちて来てしまったのですか!」
「どうしてって、そんなの――くっ」
ディランの額に汗が浮かんでいた。二人分の体重を片手で支えるの容易ではない。長くは持たない。
だいぶ落下してきたが、崖下まではまだ建物二階分の高さはある。たとえうまく落ちても腰の骨は折ってしまう。ディランは崖から生える草木の位置や、岩のへこみを確認し、二人で無事に下りる術を探した。だが良い経路は見つからない。
エフェメラは決意した。迷っている時間はない。
「ディランさま。わたしを離してください」
ディランは言葉を疑う目をする。
「何言って――」
「このままではディランさまが怪我をしてしまいます。わたしは大丈夫ですから、離してください」
「そんなこと、できるわけないだろ」
「本当に、大丈夫なんです。……その……」
ディランになら明かしても大丈夫だと確信していた。近いうちに言おうとも思っていた。ただ、エフェメラの心の準備ができていなかっただけの話だ。
「あの……気持ち悪いと、思わないでくださいね」
エフェメラは隠していた羽を露わにした。空気が形作ったように、エフェメラの背中に銀の羽が出現する。人間の体にいきなり大きな羽が現れる様子を、ディランは唖然と見ていた。
抱かれる腕の力が緩んだため、エフェメラはディランからゆっくりと離れた。完全に離れても落下することはない。ふわりふわりと、エフェメラはディランがぶら下がる高さのまま浮かんでいる。
「えっと……その……」
エフェメラは気まずさにもじもじと手を合わせた。しかしまずは、優先すべきことを言う。
「ディランさまが地面に下りるまで、わたしがお手伝いをします。男の人を持ち上げることはできませんが、怪我をしない程度には、落ちる速度を和らげられると思います」
ディランは騒ぐでもなくただ固まっていた。と思ったら、剣からぽろっと手を離した。
「ディランさま!」
ディランが落下していく。エフェメラは慌てて下降した。しかしディランは途中で崖から突き出る木の根を掴む。落下速度を緩和させつつ、でこぼこの崖面を足場に難なく地面に着地した。
エフェメラはほっと胸を撫で下ろした。練習でもしたかのようなディランの身のこなしの軽さには、毎度のことながら驚かされる。エフェメラもディランのそばに着地した。ディランは呆然としたままエフェメラを、正確には背にある羽を見ていた。
しばらくの間無言が続く。ディランが何も言ってくれないため、エフェメラは落ち着かなかった。やはり人間の体に妖精の羽があるなんて気持ちが悪いだろうか。人が飛んでいる事実だって、得体が知れないに違いない。
エフェメラは秘密を明かしたことを後悔し始めた。羽があって飛べる人間など、普通なら面白がって見世物にされたり、どんな仕組みになっているのかと人体実験でもされてしまうものだ。
だが、ディランとともに生きていくならいずれ明かさなければならない秘密だ。何故ならもしエフェメラが子どもを産めば、子どもも羽が生えて産まれてくるからだ。
「あ、あの、ディランさま……」
ディランはまだ呆然としながらも、何かに気がついたように崖を仰ぐ。
「剣……抜くの忘れた」
「あっ! 取って来ますよっ」
エフェメラは飛び上がった。崖に刺さるのは、銀の柄に剣身が青く反射するいつものディランの剣だ。やや苦戦しながら「えいっ」と力を入れ、剣を引き抜く。勢い余って宙で一回転してしまったが、飛んでいる際の宙返りなど慣れたものなので、すぐさま体勢を立て直す。エフェメラはふわふわと下降し、静かに地面へ着地した。
「どうぞ!」
ディランは無言で剣を受け取り鞘にしまう。目線はずっと羽にあるままだ。エフェメラはなんだかじれったくなってきて、羽を隠すことにした。空中に霧散するように銀色の羽が見えなくなり、いつものエフェメラの姿に戻る。そうなってやっと、ディランは夢から覚めたようにエフェメラの顔を見た。
「ありがとう。助かった」
「いえ。……ディランさま、この剣、先ほどまで地面に置いていませんでしたか?」
「拾ってきた」
ディランは何てことなさそうに答えるが、縄で拘束されていたはずなのに不思議だ。ディランがまた崖上を見上げる。落ちた地点は木で見えない。
「……みんなを助ける方法を考えないとな。とりあえず、いまは雨がしのげる場所を探そう」
空を仰ぐディランの頬に、雨雫が落ちてくる。ユーニウスの冷たい雨は、なおも強く地面を叩いていた。