2-46
「何やってるんだよ、シーニー」
「ディ、ディラ……」
シーニーは顔を真っ赤にしてディランから離れた。心臓が止まるかと思った。何故ディランがここにいるのか、そもそもずっと見ていたのかと、二の句が継げずぱくぱくと口を開け閉めする。
「あっ、おい! 待ちやがれ!」
叫び声は亭主のものだ。入口へと走っていく亭主が追い駆けるのは、たったいままで最高潮に盛り上がっていた客たちだ。店内からは、すべての客が息を揃えたように消えていた。
残ったのは、散らばる瓶の破片、酒まみれの床、倒れた棚に木片と化した卓と椅子、そして伸びている男――ぐちゃぐちゃになった店内だ。
亭主は店の外へ出てすぐに帰ってきた。肩を落としとぼとぼと歩いて来たかと思うと、目を見開いてシーニーに詰め寄る。
「どうしてくれるんだよ、お嬢ちゃん! 困るよ! 酒もこんなにだめにしちまって!」
初めて気がついたように、シーニーは顔を青くした。
「えっと……すみません」
「謝って済む程度を越えてるよ!」
「べ、弁償を、するわ。言い値を払うから、それで……」
「言い値って、これじゃあ最低でも銀貨百枚はかかるよ?」
「百?」
シーニーは青い顔のまま懐から路銀袋を取り出した。袋に入っている硬貨を数え、さらに顔色を失くす。足らないと理解しながらももう一度確認し、そして強張った顔で亭主を見上げた。
「その、いまは、銀貨十二枚分しかなくて……」
「まあ、半額はこの男に持たせるとして、でもまだまだ足らないな。ないなら働いて返してもらうからな」
シーニーが固まる。ディランは二人の間に入った。
「残りは俺が払うよ」
「兄ちゃんがか? そういや、お嬢ちゃんとは知り合いなのか?」
「ああ、友人なんだ。片付けも手伝うから、それで許してもらえないかな」
×××
店の片付けを終え、ディランはシーニーと酒場を出た。通りを歩きながら、シーニーが申し訳なさそうにする。
「ディランが全部払わなくても……私だって、手持ちはあったのに」
「使い果たしてフェブルアーリまで野宿する気か?」
「……ええ」
「シーニーが無理なくフェブルアーリに着けるよう路銀を渡してるのに、野宿されたら空しいな」
わざと哀しげに言われ、シーニーはうっと表情を歪めた。ディランも国王アイヴァンから仕事の予算を提示されているはずだ。その中から毎度問題のない額の路銀を割り振ってもらっているのに、無駄な金を使わせてしまった。
「それにしても、どうなるのかなって思って見させてもらったけど、まさか店をめちゃくちゃにするとは思わなかった」
「だって! あの男、私が店に入ってからずっと、ふ、太ももを、にやつきながらじろじろ見てくるから」
「なら酒場で食事するのやめたらいいだろ。女が一人でいたら嫌でも目立つよ。話しかけてくれって言ってるようなものだ」
「酒場は、町の情報集めには最適なの。今日は選ぶ店が悪かっただけ。だいたいあなたこそ、ただ見てるだけなんて薄情じゃない。気づいてたなら……助けてくれるとか」
シーニーは横目でちらりと見たが、ディランはあっけらかんと返す。
「危なそうだったら助けたけど、全然問題なさそうだったから」
「……」
「かっこ良かったよ」
「……うれしくないわ」
「もしかしていままでも、さっきみたいなことあったんじゃないか?」
シーニーは思わず言葉を詰まらせる。ディランはシーニーの反応を見て呆れの溜め息をついた。
「隠れて、野宿してたのか?」
「……危険がないよう、ちゃんと気をつけてはいたから」
「もうやめろよ。『あなたと会話をすると口が腐る』なんて言うのも」
「それはっ」
シーニーは恥ずかしさに顔を熱くする。ディランに聞かれているとは、本当に不覚だった。知人の前では絶対に吐かない暴言だ。ディランは赤くなるシーニーを見て面白そうに笑っている。
「もう……お願いだから、忘れて」
「どうだろう。印象が強かったから」
シーニーは顔をしかめ、しかし何かを思い出してほほえんだ。
「そう。なら私も、十歳の時にディランが、トーリスと一緒にエイデスのお風呂を覗いて、それが見つかって木に逆さに吊り下げられて渓谷のみんなに笑われた出来事は、印象が強くて忘れられないわね」
ディランはぎょっとした。すぐに平静を装い咳払いをする。
「わかった。忘れる」
「よろしい」
からかわれっぱなしで終わることはない。ディランとは付き合いが長いため、対抗するための引き出しはたくさんあるのだ。
ディランが五歳の誕生日に渓谷を出るまで、それこそ兄弟のように一緒に育った。いまでも会うたびによく話す。幼い頃はくだらないことで喧嘩をしたものだが、いまではほとんどしない気の合う仲だ。
「さっきから、どこへ向かってるの?」
酒場を出てから、ディランとシーニーはずっと歩いていた。道を決めているのはディランだ。
「スケッルス子爵の邸」
「子爵の? そういえば、どうして一人なの? だいたい、アプリに向かう予定だったはずでしょ?」
シーニーは、予定通りの順路で市町村を回り、陽が暮れてから今夜の宿にしようとカルケニッサの町を訪れた。アプリ市へ行くなら、わざわざ南下してカルケニッサの町に寄る必要はない。
「ちょっと、事故があったんだ」
ディランは物盗りに襲われて森で迷った話と、スケッルス家の令嬢と接触しないためにみなと別行動をとっていることを話した。
「フィーも、王城でその令嬢と会ったんだ。けれど接触を避けるのは間に合わなくて、いまはみんなで子爵の邸にいる」
「ふうん。そんなことになってたの。でも、その割には酒場で話題になってなかったわね」
「ああ。令嬢は、フィーの正体に気づいていないふりをしてるみたいなんだ」
シーニーはぱちぱちと瞬きをした。ディランは薄く雲がかかった夜空を見上げながら続ける。
「意図は、わからないけど」
「本当に気がついていないってことはないの? まさか、こんなところに王族がいるとは思わないでしょう」
「少し会っただけの俺ならまだしも、フィーは令嬢と一緒にお茶を飲んでたんだ。気づかないなんてありえない。何か、裏があるのかもしれないから、念のためアーテルとアルブスに令嬢の様子を聞いておこうと思って」
シーニーは、アーテルとアルブスの名に反応した。不服そうな声で尋ねる。
「ねえ。どうしてあの二人を近くに置いてるの?」
ディランはシーニーをちらりと見て、「うーん」と言いながら中空を見やる。答えを濁したい時、ディランはいつも逃げようとする。シーニーは歩く速度を上げてディランを正面から覗いた。
「人手が欲しいなら、渓谷から人を出せばいいでしょう? わざわざ部外者を入れる必要なんてないわ」
「あの二人くらい戦えるやつは、渓谷にはいないだろ」
「腕に不満があるってこと? だったらエイデスとか、ブラウとか、キュアノ――は絶対にだめで――、あとは私なら、十分ディランについていけると思うわ」
「エイデスにはサマレを任せてるし、ブラウにはウィンダルを、シーニーには各々の伝達を任せてるだろ。どれも外せない重要な役割だよ。ほかの人には頼みたくない」
「でも……あの二人には、私たちの目のことも教えてるんでしょう?」
「……まあ」
「なら、もしものことがあったら」
「あの二人は大丈夫だよ」
「どこにそんな根拠が――……ディラン。何見てるの?」
大事な話をしているというのに、ディランは十字路の角に置かれた町の公用掲示板を見つめていた。掲示板の横には灯りが焚かれ、夜でも文字が読めるようになっている。
シーニーはディランにつられて掲示板の貼り紙を見た。一番大きくて新しい貼り紙に『デストロイさんを探しています。これを見たらスケッルス子爵家まで』と記されている。
「子爵家が出した貼り紙みたいね。これがどうしたの?」
「デストロイって、強そうな名前だなぁと思って」
心底どうでもいいことを言って話を逸らそうとするディランに、シーニーは説得を諦めて溜め息をついた。