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気づけば夕刻だった。ディランは図書館の窓から射し込む橙の陽に目を細くした。
カルケニッサの町立図書館は二階建てで、町のほかの建物と同様、翡翠色の屋根が美しく人の目を惹きつける。蔵書数は五万冊ほどで平均的だ。ほかの町の図書館と比べて特徴的な点と言えば、ハキーカ教会に関する本の割合が多いことだった。
ディランは机の上に積んであった数冊の本を棚に戻し始めた。選んだのはこの町でしか読めない地元本だ。王都の国立図書館やサンドリーム城の図書室にはない本を読む、せっかくの好機だ。午後の時間潰しに目を通しておくのも悪くなかった。
静かな図書館から外へ出ると、音がいきなり大きくなった気がした。我が家へと急ぐ子どもたちの声や、商人が露店をたたむ木材がぶつかる音、空の明るさとは逆に賑わい始める酒場、疲れた風体ながらも清々しい顔をした仕事終わりの人々――日々の当たり前の風景が、橙の夕焼けに照らされ町に広がっていた。
だから、ディランはしばしの間歩みを止めた。
(おかしいな)
王族が町に来たなんて情報は、午後のうちに町中に広まりそうなものだ。だが町の様子は特に変わらない。どういうことだろう。
エフェメラたちの様子を見に行こうと、ディランはスケッルス子爵邸へ向かうことにした。カルケニッサの町には二年ほど前に一度来たことがあるため、邸への道順は把握している。
子爵邸へ着く頃には空が暗くなり始めていた。邸は貴族にしては控えめな造りの二階建てで、屋根は町の景観にそった翡翠色だ。催しを開き客を招くことを生きがいに邸宅に力を入れる貴族も多いが、スケッルス子爵は異なるらしい。教会への寄付や、町の整備に力を注いでいるようだ。
ディランは邸を囲っている鉄柵を越え、緑豊かな木々と垣根がある庭を横切った。周りに人がいないことを確認しながら、エフェメラたちを探すために窓を確認していく。
エフェメラたちはすぐに見つかった。全員でアナや子爵と夕食をとっていた。様子を探ろうと、ディランは窓の隙間から漏れてくる会話を盗み聞く。すると会話を聞く限り、アナはエフェメラを王族として見ていないようだった。
(やっぱり、おかしい)
アナが気づいていないわけがない。どういうつもりかは不明だが、アナはエフェメラが王族だということにあえて気づかないふりをしているようだ。
ディランは一旦窓を離れ、裏口へ回り邸内へ侵入した。盗賊事件を隠蔽している件についても確認しなければならない。気配を殺しながら邸の廊下を進んでいく。エフェメラたちの晩餐のために使用人を割いているようで、廊下に人の気配はない。
ディランは子爵の書斎を目指した。子爵が物盗りに関わっているのなら、書斎で何かしらの証拠が見つかる可能性が高い。途中、落ち着いた暖色で統一された女性らしい部屋を見つけた。アナの私室かと思ったが、衣装戸棚にある衣服や装飾品が、若い令嬢のものというよりは奥方が使用するような華美さを抑えたものだった。亡き子爵夫人の部屋だと悟る。
子爵夫人は五年ほど前に亡くなった。仲の良い夫婦だったと耳にしたことがある。最愛の妻に先立たれてからも、子爵は領主としての責務を変わらず果たしている。精神的に強く、そして汚職に手を染めることもない真っ当な貴族なのだろう。ディランもいままで子爵の悪い噂は聞いたことがなかった。
書斎に到着した。卓の引き出しにあった帳簿や、暖炉横の金庫などを調べる。収支におかしな箇所はなく、場違いに高価な品も見当たらない。裏帳簿もなさそうだ。子爵が物盗りに関与しているとは思えなかった。
(……雑報誌で盗賊事件を隠してるのは、何のためだろう)
もしかしたら、手を加えたのは子爵ではないのだろうか。何か思いつきそうなところで空腹を感じた。そういえば、昨日からろくに食事をしていない。食事をとらないとどうしても頭の回転が鈍くなる。不便だな、と感じながら、ディランは邸をあとにした。
ディランは酒場を数件覗いて歩き、女性店員がいない、男臭い店を選択した。女性の店員は、ディランが一人で飲んでいるといつもやたらと気を回してくる。だから気が進まない。
酒場の扉をくぐると、店内は賑わいの絶頂だった。二十近くある卓はほぼ満席で、わいわいと店内に声が飛ぶ。四人は座れる卓を一人客が占領するのは悪いので、ディランは店の奥にあるカウンター席に座った。
「よう、兄ちゃん。何にする?」
禿頭の亭主が歯を見せて声をかけてきた。特に飲みたいわけではないが、酒場で酒を注文をしないのも目立つ。日頃から、誰かの印象に残る行動は避けるよう気をつけていた。
「麦酒と、あと、野菜と肉を使った料理を何か食べたいな。いいのある?」
「あいよ。すぐできるからな」
先に酒がきた後、野菜と鶏肉が入ったシチューが出てきた。温かい湯気と美味しそうな香りが鼻孔をくすぐる。
ディランは王室の食事作法が出ないよう意識しながら料理を口へ運んだ。食事の際は、常にどちらか意識する癖がついている。
「兄ちゃん、一人で観光かい?」
亭主が気さくに訊いてきた。口を開きながらも、手は忙しなく動いているのだからすごいと思う。
「そんなところ」
「どこから来たんだい?」
「……ずっと、北のほうから」
「っていうと、マルティあたりかい?」
マルティ市は、カルケニッサの町から真北へいくつか町を超えた場所にある都市だ。
「まあ、その辺り」
シャドの山奥にある渓谷から来た、なんて言っても通じないだろうから、とりあえず頷いた。頷いてから、何故『王都から』と答えなかったのだろうと思った。仕事抜きで単独で酒場などに来ているから、王子からただの青年に戻った気分にでもなっているのだろうか。