2-43 雲の裏側
その時、通りで頓狂な叫び声がした。
声の方角を見る。叫んだのは眼鏡をかけたくせ毛の少年だった。
少年の両手にはリボンが巻かれた箱が高く積まれていた。だがいま、すべての箱は宙へ投げ出されている。
少年の前には、黒髪を高い位置で左右に結った、身なりのいい少女が歩いていた。少年の頓狂な声に振り返った少女は、頭の上から落ちてくる大量の箱に甲高い叫び声を上げた。
一瞬だった。少年は顔を地面にぶつけ、少女は尻餅をついて箱の雨をかぶった。
ガルセクがとっさに席を立ち、ローザとヴィオーラもそれに続く。ディランは少年を怒る少女を見ながら固まっていた。
(彼女は、この前のプリシーのお茶会に来ていた――)
ディランは静かに席を立ち店を離れた。最初の路地の角に隠れ、少女やガルセクたちが店の前を離れるまで見守る。
(まさか、お茶会に招かれていたのが、スケッルス家の令嬢だったとはな)
カルケニッサの町を所有するスケッルス子爵には、一人娘がいる。名前は確か『アナ』だ。顔までは知らなかったため、気づくのがすっかり遅れてしまった。
運が悪いなと思う。偶然来た町で、まさか王城で会ったことがある者と出くわすとは思わなかった。あれからまだ十日も経っていない。アナがディランやエフェメラの顔を忘れているはずはないだろう。
アナとエフェメラが接触するのを避けなければならない。ディランはエフェメラを探そうと通りを歩き出した。本気で探そうと思えば、エフェメラを探すのはあまり苦労しないだろうと思っていた。ただ、容姿に関係することなので、ガルセクやローザ、ヴィオーラの前では探しづらい方法だ。
「――失礼」
教会堂前広場から少し歩き、ディランは通りで客に声を投げる露店商の男に声をかけた。
「人を探してるんだが、スプリア人の少女を見かけなかったか? 十五歳くらいで、たぶん、青年を二人連れていたと思うんだけど」
スプリア人と言えば桃色の髪という認識が強い。通りの人をよく見ている露店商ならば、視界に入る可能性も高い。
「ああ。そういえばさっき見たな」
「どっちへ向かったか覚えてるか?」
「広場のほうに向かってったよ。たぶん、教会に行ったんだろうな。リリシャさんと一緒だったから」
呻き声を漏らしそうになった。確か、アナは教会裏の孤児院へ向かうと言っていた。気づかないうちにエフェメラたちと行き違いになっていたらしい。
「えっと、リリシャというのは?」
「修道女だよ。優しくて気立てが良くてなぁ。ここの教会にずっといる修道女なんだ」
「修道女……」
教えてもらった礼に露店に並んでいた手巾を買った。「ありがとよー」と言う声を背中で聞き、ディランは来た道を戻る。
運が悪い。アナはもう教会堂へ着いているだろうから、すでにエフェメラと接触している可能性が高い。そうしたら騒ぎになることは確実だ。アイヴァンにどう思われるかが気になった。きっと何も言わず態度にも出さないだろうが、王家に関わる余計な騒ぎなら内心良くは思わないだろう。ディランは小さく溜め息をついた。
円形広場を横切り教会堂に到着する。正面の扉には手をかけず、ディランは建物横の窓を覗いた。中には礼拝者が数名いるだけで、エフェメラやアナの姿はない。
教会堂の奥には渡り廊下でつながった別の建物があった。これが孤児院だろう。孤児院の中の様子を探るため、入り口を探し裏にも回ってみる。だが見つけた扉には鍵が閉まっていた。普段は教会堂から出入りをしているのかもしれない。
中をどう探ろうか考えていると、二階のひと部屋の窓の木戸が開いてるのを見つけた。建物は木で囲まれていたため、ディランは近くの木を登り、窓から様子をうかがった。覗いた部屋は物置部屋だった。人の姿はない。
窓へと飛び移り、足音を消して部屋へ入る。そこへ、扉の向こうから誰かが近づいてくる気配がした。ディランは近くにあった棚の陰に隠れた。
扉が開くと、現れたのはアルブスだった。アルブスは部屋に入ってきて中の様子を軽く見渡すと、すぐに出て行こうとする。
「アルブス」
名前を呼ぶと、アルブスが俊敏に振り返り構えの姿勢をとった。ディランの姿を認めると、ほっと肩の力を抜く。
「び、っくりしたあ。なんでディランがここに……。ていうか、声かけるなら気配出してからにしてよ。心臓に悪いなぁ」
「悪い。――お前がここにいるってことは、アーテルやフィーもいるのか?」
「うん、二人とも下にいるよ。フィーは怪我の手当てしてるところ」
「……そう」
「満腹のために、これから孤児院の誕生会に参加するんだってさ」
アナとエフェメラとの接触を回避するのはもはや不可能だ。ディランは完全に諦め、王族来訪の騒ぎをうまくまとめる方法を頭の隅で考える。
「ディランもどう? ガルセクたちも近くに来てるんでしょ?」
「三人は、もうここへ入ってると思う。俺だけ別行動をとることにしたんだ。ちょっと、想定外のことがあって」
「どうしたの?」
「この町を統治しているスケッルス子爵のご息女が、孤児院へ来ているんだ。実はついこの前、そのご息女と、フィーも俺も王城で会ってて。だからこれから騒ぎになると思う」
アルブスは数回瞬きし、表情を明るくした。
「うわー、すごい偶然。運あるね」
面白がるアルブスにディランは眉根を寄せる。アルブスは気にせず笑っている。
「……俺は、少し調べたいことがあるから席を外させてもらう。きっと夜は子爵家に招かれると思うけど、俺はいないとして扱って欲しい。町を出た時に合流するから」
「わかった。町の中にはいるんだよね?」
「ああ」
「それで、調べたいことって?」
「大したことじゃないんだが――東大橋を渡る前、馬車が物盗りに襲われただろ? 実は、金品目当てで馬車を襲う同様の事件が、この辺りでもう半年近く多発してるんだ。これまで二十八件起きてて、被害総額は銀貨九百枚ほど。それでも犯罪集団はまだ特定されていない。だから、少し調べておこうと思って」
「ふーん。でもそんなの、それぞれの街の衛兵に任せとけばいいじゃん」
「まあ……そうなんだけど」
市町村やその周囲であった事件は、各々の屯所の兵士が解決を担うものだ。解決できない難解な事件や、複数の市町村にまたがる大きな事件になれば、王都の王国騎士団へ依頼が回ってくる。
今回の盗賊事件はすでに半年も解決できておらず、関係する市町村も広いため、そろそろ騎士団へ依頼が回ってくる頃だろう。国の精鋭が集う騎士団が乗り出せば、事件はあっという間に解決する。
「って、どうでもいい事件でも首つっこむのは、ディランのいつものことか。手伝いは必要?」
「いらない」
「そう」
要件はすべて伝えたため、ディランはアルブスと別れまた町の通りへ戻った。賑わう通りをしばらく進み、途中にあった書店に立ち寄る。手に取ったのは周辺地域の時事が書かれた雑報誌だ。各市町村で、通常七日に一度発行される。
棚の前に立ったまま、ぱらぱらと頁をめくり要点だけを見ていく。すると違和感を覚えた。見逃したのかと思い、今度は先ほどより丁寧に頁を読んでいく。
「ごほん」
そばで咳払いがした。真横で店主が迷惑そうにディランを見ている。ディランは代金を払い書店を出た。
歩きながら雑報誌を読んでいく。途中、女性が籠から落としそうになった林檎を掴んだり、子どもが放してしまった子犬の首紐を掴んだりしながら、すべて読み終える。
なかった。周辺の市町村で発行される雑報誌にはあった物盗りに関する記事が、どこにもなかった。
ディランは本の最後の頁を見る。そこには大抵の市町村と同じく、雑報誌の検閲者の名が――領主であるスケッルス子爵の名が記されていた。