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二十軒目に訪れた賭博店の前で、ようやくヘーゼル司祭の馬車を見つけた。その店は、村で一二を争う賭博店などではなく、中通りにあるやや廃れた小さな賭博店だった。店内の照明は抑えられ、普通の賭博店とは正反対の雰囲気だ。客も店員も、数えるほどしかいない。
ヘーゼル司祭は、装飾が入った司祭の修道着ではなく、市民がよく着る質素な布服を着ていた。司祭の様相が取り払われてしまえば、ヘーゼル司祭はどこにでもいる気弱そうな老人にしか見えなかった。
逃亡防止のため、念のためガルセクを出入口で待機させ、エフェメラとアナ、コリーはヘーゼル司祭がいる卓に近づく。ヘーゼル司祭は店員と一対一で向き合い、食い入るように手元の札を見つめていた。やがて札を一枚選ぶと、卓に置いていた数枚の穴金貨が店員に奪われる。ヘーゼル司祭は落胆し、しかしすぐに懐から穴金貨を数枚取り出した。
「――それは、誰のお金ですか? ヘーゼル司祭さま」
問いかけたアナの声は落ち着いていた。ヘーゼル司祭は夢から覚めたように顔を上げた。アナ、エフェメラ、それからコリーの姿に目を見開く。そして声を出す代わりに、深く、息を吐き出した。
「……すみません。今日は、もう終わりにします」
ヘーゼル司祭は俯き、力なく言った。目の前の店員に向けられた言葉だ。店員は一礼し、何も言わずに立ち去った。
他の卓で動く札や硬貨の音が、耳に大きく聞こえる。生きる力をすべて置いてきてしまったかのように、ヘーゼル司祭は椅子の上で肩を落としていた。
「私を、罰しにきたのですね」
吐き出された声が、司祭として振舞っていた人のものとまったく同じなのが、エフェメラには不思議だった。同じ人物なのに噛み合わないという感覚は、覚えがある。
アナはヘーゼル司祭の問いに答えず続けた。
「逃げないんですね」
「逃げることなどできません。私には逃げる場所もなければ、若く健康な足もありませんから」
「……どうして、みんなを裏切るようなことをしたんですか? みんなが――町の人も、お父さまも、孤児院の子どもたちも……それから、リリシャも――みんなが、あなたを尊敬し、信じていたのに」
「理由なんてものは、本当に何の意味もありません。結局私は、司祭の器ではなかった、ただの人でしかなかった――それだけのことです」
アナはぎゅっと拳を握り締めた。怒りを堪えるように唇を噛み締めている。エフェメラはアナの代わりに発言した。
「わたしたちは、ヘーゼル司祭さまを責めにきたわけではありません。どうか改心していただけないかと思って、来たんです。こんなことはもうやめて、みんなが信じる司祭さまのままでいてくださいませんか?」
ヘーゼル司祭は驚いて顔を上げる。
「私を、見逃すというのですか?」
「はい。ヘーゼル司祭さまを失うことなど、誰も望んでいません。だから教会に訴えることはしたくありません。どうか、ここで誓っていただけませんか? 二度とこのような行いをしないと」
ヘーゼル司祭はエフェメラをじっと見つめ、やがてゆっくりと頷いた。祈るように、指を組む。
「わかりました。私のような罪深き者に改心の機会を与えてくださるというのなら、誓いを立てましょう。もう二度と、怠惰に足を踏み入れないと」
エフェメラはほっと肩を下ろした。やはり、ヘーゼル司祭は話せばわかってくれる人だった。コリーも張り詰めていた気を緩める。アナだけは、まだ真剣にヘーゼル司祭を見つめていた。
「……いまの言葉を信じますよ、ヘーゼル司祭さま」
アナの言葉に、ヘーゼル司祭はもう一度頷き、誓いの言葉を繰り返した。
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「思っていたよりすんなりとわかっていただけて、良かったですね」
日の出前の薄暗い空の下、ガルセクが木の幹から馬の手綱をはずして言う。ヴォルム村を出て、馬をとめていた場所まで戻ってきた頃には、すでに夜は終わろうとしていた。ヘーゼル司祭は一足先に馬車で町へ帰っている。
あとはエフェメラたちも帰るだけだ。説得に成功し、事故も怪我もなかった。エフェメラはとても清々しい気分だった。そして、とても眠かった。昨日の午後に少し睡眠をとっていたおかげでどうにか地面に寝ていないような状態だ。
「――エフェメラ、ありがとう」
アナがエフェメラのそばにきて言った。
「あなたのおかげで、ヘーゼル司祭さまを説得することができたわ」
エフェメラはあくびを呑み込みほほえんだ。
「アナの、みんなの役に立てて、良かったわ」
アナはエフェメラの笑顔を見て、なぜか決まりが悪そうに目を泳がせた。
「……エフェメラ。あのね、あたし……」
アナは考えるように何度か口を開けたり閉めたりしてから、言った。
「あなたって、とっても優しいと思うわ」
「ええ? そう、かしら。わたしはまだ、優しいの特訓中なのだけど」
「優しいの特訓中? なにそれ?」
「えっと、目標としている人がいて、その人には、まだぜんぜん、及ばないというか……」
「ふーん?」
ディランのように優しい人になりたい。ずっとそう思っていた。でもここ数日、ディランは優しさとかけ離れているようなことを言う。ディランの優しいとエフェメラの優しいが、食い違っているということなのだろうか。
「ねえ、エフェメラ。できるなら、あたし、あなたと友達になりたい」
エフェメラは弾かれたようにアナを見た。アナは少しぎごちない笑顔を浮かべている。
「あたしみたいなので、良かったら、なんだけど」
「わ、わたしも! アナと、お友達になりたいって思っていたの。だから、うれしい!」
今度こそ、アナはちゃんと笑った。「ありがとう」と呟いた。エフェメラも笑顔を返した。
空が明るみ始めた。厚い雲のせいで美しい朝焼け空が見えないのが残念だ。今日は雨になるかもしれない。だがエフェメラは、太陽がそそぐ庭で昼寝をしているみたいに、心がぽかぽかと温かかった。