2-03
新しい生活に慣れている間にアプリーリスは過ぎ去り、気づけばマーイウスも終わりに近い。時の移ろいとともに春の花は散り始め、サンドリーム城南棟の庭園は夏の様相へと衣替えを始めている。
ディランとの婚儀から、ひと月が経過していた。
「さて。次はどのお花のお手入れをしようかしら」
初めて南棟の庭園を目にして以来、エフェメラはずっとこの庭園に触れたいと思っていた。だが本来、庭園の手入れは庭師の領分、仕事をとってしまうのは申し訳ない。エフェメラは見るだけで我慢していた。
だが今朝、我慢が限界を迎えた。庭師の手入れの見落としを見つけてしまったのだ。朝の散歩で見落としを発見するや否や、エフェメラは動きやすい簡素なドレスに着替えた。髪は邪魔にならないよう一本に結い上げ、右手には植木鋏を、左手にはじょうろを持つ。ローザにはスコップを、ヴィオーラには桶を持たせ、ガルセクには肥料を調達してくるよう指示を出した。使用している庭道具はすべて、エフェメラがスプリア王国から持参した愛用品だ。
こうして、エフェメラは朝からずっと、庭師顔負けの手際で庭園の手入れをしていた。
「エフェメラさま」
名前を呼んだのはガルセクだ。重い肥料袋を肩に担ぎ、いつも通りの優しげな表情でそばに来る。
「肥料はまだ必要ですか?」
「ありがとう、ガルセク。もう十分よ」
庭には肥料袋の山が出来ていた。ガルセクは追加の肥料袋もその山へ加える。
心配していたガルセクの怪我は、ひと月ですっかり良くなった。最近は剣の稽古も再開している。
「この肥料を均等にまいておいてくれる? 場所は――」
「あそこから、あそこまでね」と、エフェメラは当たり前のように庭の端から端を指差す。ガルセクは思わず顔を引きつらせた。山ほど肥料が必要だった理由に納得する。果たして陽のあるうちにまき終えることができるかどうか。
だが楽しげなエフェメラにすぐに目を細めた。活き活きと花の世話をするエフェメラは、ドレスで着飾っている時よりも魅力的だ。
「わかりました。ついでに水もまいておきますね」
「ええ、お願い」
エフェメラが笑顔で頷いた時だった。いきなり彼女の耳元で男の声がした。
「なーんか慣れたやりとりぃー」
「ひゃあっ!」
エフェメラは飛び上がった。慌てて振り向く。耳に伝わったぞわりとした感触にどぎまぎしてしまう。いつそばに迫っていたのか、にかっと笑う黒髪の青年が後ろに立っていた。彼の隣にはいつもの銀髪の青年もいる。
「ア、アーテルっ!」
「よっ! 今日は髪上げてんのか?」
アーテルが無遠慮にエフェメラの頭のリボンをつつく。
「もうっ、……驚いたわ。いつもいきなり現れるんだから」
困り顔のエフェメラの後ろで、ガルセクがやや肩を緊張させる。アーテルはそれを気にした様子もなく、からからと笑い頭の後ろで腕を組む。
「何してたんだ? お姫さまが土遊び?」
「お花のお手入れをしていたのよ」
エフェメラは周囲をさりげなくうかがった。二人のほかに、ある人がいるかどうか。
「ディランならいないよ」
エフェメラの心を読むようにアルブスが言う。彼は興味がないようにすぐに庭の花を眺め始めるが、エフェメラはぽっと頬を朱に染め地面に視線を落とした。
このひと月ほどの関わりで分かったことだが、アルブスはよく気がつく。エフェメラと同じか一つ上くらい歳だが、二人に会う度にさりげなくディランを探すエフェメラに、アルブスはいつも気がつく。アーテルほど積極的に話しかけては来ないため、よく分からない青年だ。
「ちょっと、あんたたち!」
眉を吊り上げ近寄ってきたのは、雑草が入った桶を持ったヴィオーラだ。ヴィオーラは桶を重そうに下ろし、地面に落ちていたスコップを拾う。そして息を上げたままアーテルとアルブスにスコップの先を向ける。
「エフェメラさまに、なれなれしくしないでちょうだい! 十歩以内に近づくのは禁止よ!」
ヴィオーラは小さな身体を少しでも大きく見せようと、威厳を込めて胸を反り上げた。
「言うことをきかないなら、エフェメラさまの侍女として、このヴィオーラがあんたたちを罰するわ!」
「鼻に泥つけながら言われてもなぁ」
アーテルが口の端を上げ言うと、ヴィオーラの顔がさっと赤くなる。スコップを地面に落とし、焦って顔をこすが、土がついた手でこすっても顔の汚れは悪化するだけだった。必死なヴィオーラを見ながら、アーテルは趣味の悪い笑みを浮かべている。
「アーテル! こっち来て!」
今度は垣根の中からローザが飛び出した。桜色の頭にはたくさんの小さな葉っぱがついている。
手の平を大きく扇ぎ、ローザはおいでおいでとアーテルを手招いた。アーテルが近寄ると、ローザは盛り上がった土を指差した。
「これ! ローザがうえたお花! 夏になったら咲くの!」
埋めてあるのは向日葵の種だ。アーテルは得意顔のローザを茶化すことなく、彼女の頭を大雑把に撫でる。
「やるじゃねーか、ローザ」
「えへへぇー」
アーテルの手の動きに合わせ頭を揺らしながら、ローザがうれしそうに頬を緩める。奴隷競売があった夜以来、アーテルとアルブスはよくエフェメラの前に現れるようになっていた。大した用事があるわけでもなく、いつもどうでもいい会話をしてそのうちふらりといなくなる。そんなことを繰り返すうち、人懐っこいローザは同じように気さくなアーテルとすっかり仲良くなっていた。
ヴィオーラのほうは闘技場の前でガルセクが二人に脅された光景が忘れられないらしく、いまでも彼らを気に入らなそうにしている。ガルセクは、彼らが廊下や庭だけでなく、いつ入り込んだのかエフェメラの自室に急に現れることがあるため、常に気を揉んでいて大変そうだ。
「そんなに心配しなくても、もう何もしないよ」
睨むヴィオーラを安心させるためか、アルブスが軽い調子でガルセクの横に立つ。
「あの時はさ、ガルセクがディランを悪く言ったから、ちょっと気が立っちゃっただけ」
ひと月前、闘技場の前でアーテルがローザをからかった時、ガルセクはディランを揶揄する言葉を口にした。
「ガルセクは、まちがったことは言ってなかったもの。あいつがふまじめで女たらしだっていうのは、本当のことでしょう」
なおも睨み続けるヴィオーラに、アルブスが驚いた顔でエフェメラを見やる。
「ディランのこと、この子たちに教えてないの?」
「え、えっと、説明はしているんだけど、その……城内での悪い噂も聞いているせいか、うまくわかってもらえなくて」
「……そう」
仲直りして以来、ディランとは普通に会話ができるようになっていた。廊下ですれ違えば必ず一言二言話し、晩餐の席が一緒になった時は料理が口に合うか質問される。今月の初めにあった夜会でも、話が盛り上がったとは言えないがエフェメラが話しかけた際は優しく応じてくれた。
普通のやりとりができるようになっていた。しかし、エフェメラには普通なだけは問題だった。ディランとの仲を深めたいのだ。
エフェメラのほうも何もして来なかったわけではない。星を見ようと誘いにディランの部屋を訪れたことは何度か会った。しかしいつもお団子頭の使用人が出てきて、『ディラン王子殿下はただいま外出しております』と言われる。ディランは頻繁に外出しているらしかった。城内で見かけることも三日に一度だ。きっと悪い貴族を取り締まる仕事をしているのだろう。
運良く廊下でディランとすれ違える時は、大抵油断している時だった。この場合は決まってエフェメラが上がってしまい、庭を見て回ろうという言葉が頭に浮かぶ頃にはディランは目の前から消えている。意気込みは十分なのに、なかなかうまくいかない。
「エフェメラー!」
高い少女の声がした。振り向くと、黒茶髪の少女が数名の侍女を連れ庭園の入り口に立っていた。少女は縁飾りが幾重にもなった翡翠色のドレスを着て、頭には銀のティアラを光らせている。
「プリシー王女」