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妃殿下という単語に、子どもたちが贈り物の箱からエフェメラに注意を移す。エフェメラは硬直していた。どう誤魔化せばいいだろう。
王族が町に現れたら一大事だ。サンドリーム城へ知らせも届くだろうし、これからの道中も注目を浴びてしまう。するとディランにも迷惑がかかる。このような事態を避けるために、大衆の出で立ちでいたのだ。
「――なーんて、まさか妃殿下がこんな場所にいるわけないか」
エフェメラが必死に考えているうちに、アナのほうが緊張を解いた。
「ごめんなさい。あたし、最近エフェメラ妃殿下と会う機会があったんだけど、あなたがあまりに似ていたものだから」
アナは気が抜けたように笑いながら、躊躇いなくエフェメラのそばに来る。
「はじめまして。あたし、アナっていうの。あなたは――」
「エフェメラさま! この人が、ローザとヴィオーラに、おくりものとお菓子をくれるそうです!」
嬉しそうにはしゃぎ寄るローザに、いまは頭がぐるぐるした。
「エフェメラ……。妃殿下と、同じ名前……」
一旦は思い違いだと思ってくれたアナがまた眉根を寄せる。エフェメラは焦り必死に考えた。
「ス、スプリア王国には、エフェメラという名前の人が、たっくさんいるんです! それで、だから、わたしはエフェメラだけど、エフェメラ妃殿下ではないんです!」
ローザがようやく察する。アナは表情を固めたままだ。エフェメラは冷や汗を流しながら反応を待った。永遠かと思われる僅かの時間の末、アナはまた気が抜けたように笑う。
「なーんだ、そういうこと? びっくりしたぁ。似ていると感じたのも、たぶん髪色と瞳の色が同じせいね。スプリア人って、本当に珍しいから。文化もあまり知られてないからわからなかったけど、同じ名前の人がたくさんいるなんて、ちょっと不便ね」
「そう、ですね。サンドリームは、便利です」
「でしょうね」
アナはからからと笑う。心臓の音を大きくしたまま、エフェメラはぎこちなく笑みを返す。
明るい子だと思った。プリシーの茶会では、アナは非常に緊張していて笑顔も硬かった。本当はこんなに底抜けに笑うのか。
「あ、リリシャ! 手伝うわよ」
アナが料理を運んできたリリシャへ注意を逸らし、離れていく。ずっと隣にいたアーテルが、エフェメラ同様ほっと息をついた。
「あいつあほかもな。お前の下っ手くそな嘘、信じたぞ」
「へ、下手って。わたしは、十分うまく演じられていたわ」
「どこがだよ。――ガルセク。ディランは?」
同じく息を詰めていたガルセクが、肩の力を抜きながら答える。
「殿……あの方とは、はぐれてしまって」
「はぐれた?」
「広場でエフェメラさまたちとはぐれた後、ずっと一緒にいたのですが、ここへ来る前、気づいたらいらっしゃらなくて」
「……ふーん」
ディランがいないと聞き、エフェメラは気持ちが落ち込んだ。いまはアナのこともあるためいないほうが良いのかもしれないが、それでもどこへ行ってしまったのだろう。
早く謝りたい。これではディランとの距離は縮めるどころか開いてしまいそうだ。もう何日もまともに会話をしていない気がする。せっかく一緒に出かけているというのに、意味がない。
エフェメラは、先月のサンドリーム城での夜の図書室のことや、王城を出て以来ディランがすぐ手の届くところにいたことを思い出し、急に寂しくて仕方なくなった。
「――そういえば、ガルセクさん」
子どもたちと卓に料理を並べていたアナが、思い出したように顔を上げた。
「はぐれた連れがいたって言ってたわよね。あなたたちがここにいるって伝わるよう、町の掲示板に伝言を貼るよう頼みましょうか?」
「えっと」
指示を仰ごうとエフェメラを見たガルセクに代わり、答える。
「ぜひお願いします!」
「名前はなんて言うの?」
「ディ……」
言いかけてすぐにやめる。妃殿下とは別人だと言ったばかりだ。なのに今度は、連れは妃殿下の夫と同じ名前です、ではさすがにおかしい。
「ディ?」
「ディ……デ、デ……デストロイさま、です!」
とっさに出た名前だった。
「デストロイ、という名前で、お願いします」
「わかったわ。デストロイなんて、強そうな名前ね」
アナはまた料理を並べ始める。エフェメラは棒調子で「そうですね」と返した。
「……デストロイって」
エフェメラの後ろのほうで、いつの間にか戻ってきていたアルブスが、鼻で笑った。
まもなく、追加の贈り物の箱と花を抱えたコリーが食堂へ入って来た。しかし息も整わないうちに、アナに掲示板へ伝言を貼りつけてくるよう命じられた。
×××
誕生会が終わり、庭には橙色に輝く夕陽が射していた。孤児院の庭では、料理を食べ贈り物をもらった子どもたちが、まだ元気を持て余し遊んでいた。
子どもたちの遊び相手にへとへとになり、エフェメラは庭の端の長椅子に腰かける。アーテルやガルセク、ローザにヴィオーラはまだ子どもたちの輪の中だ。木陰で昼寝をしようとしていたアルブスは、しかし子どもたちに放っておいてもらえず、的当て遊びの手本をさせられていた。
アナとコリー、リリシャは調理場で誕生会の片づけをしていた。エフェメラたちも手伝うと言ったが、大丈夫だから子どもたちの相手をと頼まれた。
「――隣に座ってもよろしいですか」
声の主を見上げると、ヘーゼル司祭が立っていた。
「あ、はい。どうぞ」
「ありがとうございます。歳をとると、椅子がなくては、子どもたちをゆっくり眺めているのもつらい。この椅子は、すっかり私の特等席になっておりましてね」
「それは、勝手に座ってしまって」
「いえいえ、そのような意味で言ったのではありません。どうぞそのまま。――この席からは、子どもたちの様子がよく見えるでしょう」
言われた通り、長椅子からは大きな庭がすべて見渡せた。ヘーゼル司祭は庭ではしゃぐ子どもたちを優しい目で見つめる。このように、頻繁に子どもたちを見ているのだろう。
せっかくヘーゼル司祭が隣にいるため、エフェメラは少し迷った後話しかけた。
「お誕生会、みんな、とても楽しそうにしていましたね」
ヘーゼル司祭が祝いの言葉を読み上げ、みなで賛歌を歌い、料理と菓子を食べた。贈り物はすべての子どもたちに配られた。誕生月の子どもは二つもらった。
ローザは大喜びで、ヴィオーラも表情は抑えていたが目をきらきらさせていて、アーテルは祝いの言葉や賛歌で焦らされた末の食事を勢いよく食べていた。
「子どもたちはきっと健やかに育ちますね。ヘーゼル司祭さまやリリシャさん、それからアナさんのような方々に見守られて」
「はい。リリシャは昔から素直で、よく尽くしてくれる子でした。アナお嬢さまも聡明なお方です。私は、こうして子どもたちを見守ることくらいしかできませんが、みなから少しずつ愛を注いでもらえば、親のいないこの子たちも立派に育ってくれるでしょう」
「ヘーゼル司祭さまも、広場でのお話、素晴らしかったです」
ヘーゼル司祭が謙遜するため、エフェメラは庇いたくなった。
「誕生祝いの言葉も、素敵でした。『神ハキーカに愛されし尊き日、我らは生まれ、喜びと悲しみを知った。代わりとなる命はなく、太陽は平等に光を与え、我らを祝福する。すべての夢にリースの愛を、すべての時にイヴの愛を』――わたし、覚えました!」
教典第一巻にある文言からとった言葉だ。「えへへ」と笑うエフェメラに、ヘーゼル司祭は目を細める。
「言葉が届くのは、あなたの心が美しいからでしょう。私は、確かに多くの言葉を知っていますが、相手に正しく伝わることは、本当に少ないのです。あなたのような方が多ければ、子が捨てられない世が来るのかもしれません」
「そんな、心が美しい、だなんて……」
エフェメラからするとヘーゼル司祭こそ心が美しい。エフェメラは自分で、心が醜いなと感じることのほうが多い。特に、ディランに女性が近づいている時などは、目も当てられないくらい真っ黒になっている気がする。
その時、後方の扉が開き、リリシャとアナ、それからコリーが出てきた。リリシャとアナは何やら言い合いをしていた。