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エフェメラはアルブスと二人でとり残された。アルブスは建物の壁に背を預け、口へ突っ込まれたパンをもそもそと食べ始める。エフェメラもひとまずパンを食べてしまおうと、道端にあった木箱に座った。
建物の屋根が影を作り、陽の当たる通りと二人がいる場所に境界線を引いていた。
パンを食べている間、アルブスはずっと黙っていた。白に近い銀髪の前髪の奥で、瞳はつまらなそうに通りを眺めている。その横顔はディランやアーテルと比べると少し幼い。アルブスの歳はエフェメラと同じか、一つ上といったところだろう。
「……あの。アルブスとアーテルは、オウタット帝国の、出身なの?」
エフェメラは笑みを作って尋ねた。いままでアルブスと二人きりになったことはない。いつもほかにアーテルやほかの誰かがいた。アルブスはちらりとエフェメラを見たが、すぐに視線を通りへ戻す。少し待ったが、答えは返って来ない。
「……え、ええっとね。プリシー王女が、アーテルやアルブスが持ってる小物が、オウタット帝国のものと似ていると、言っていたものだから。そうじゃないかなって、思って……」
アルブスはまた反応を返さなかった。今度は目線も寄越さない。やや待って、エフェメラは弱々しい声でつけ足した。
「ごめん、なさい。的外れだったかしら……」
一昨日の酒場の件も含め何となく感じてはいたが、アルブスにあまりよく思われていないのかもしれない。彼が気に入らないことを何かしてしまったのだろうか。エフェメラは暗い気持ちで足先を合わせた。
履いている足首まで隠れる濃茶の紐靴や、着ている質素なワンピースは、ひと月前、ディランを追いかけ王城を抜け出した夜にアルブスが買って来てくれたものだ。お忍びに適したもので、悪意は感じられない。だとしたら、このひと月の間に嫌われることをしたのだろうか。
悶々と考えていると、隣で小さな溜め息が聞こえた。
「オウタットの出身だよ。僕も、アーテルも」
ディランやアーテルと話している時と比べると、かなり冷めた口調だ。しかしエフェメラは嬉しくて顔がほころんだ。
「わたし、オウタットのことなら本で勉強したわ。確か、国の中に、さらにたくさんの国があるのよね。州って呼ぶのだったかしら。州は大小様々で、それぞれ風習や規則が違うって。本当なの?」
「本当だけど」
「それってまるで、パンと魚とお菓子が、一つのお皿に乗っているみたいよね」
「……は?」
「一つのお皿で、いろいろな食べ物を楽しめてしまうみたいに、一つの国の中で、国外旅行が味わえるということでしょう? とっても楽しそうだわ」
笑顔で手を合わせるエフェメラをアルブスはぽかんとした顔で見た。そして笑った。馬鹿にする笑い方だった。
「楽しそうって、本気で言ってるわけじゃないよね? その本に書いてあったでしょ。オウタット帝国は、州同士でいつも争ってるって」
「それは……あったけれど」
「旅行なんて、あり得ないよ。他州に行くなんて、偵察か襲撃か、捕まるか、この三つくらい」
「……」
「州同士仲良くするなんてのもないね。支配するか、されるか。――あの国は、強者や金持ちにとっては楽園だけど、弱者や貧乏人にとっては絶望そのもの。どの州も、皇帝からの恩恵を手にすることだけに、必死だから」
オウタット帝国で絶大な権力を持つのは皇帝だ。皇帝の意思は何よりも尊重され、法律も道徳も関係がない。全国民にとって神のような存在だ。
「……アルブスやアーテルは、戦争が嫌だったから、サンドリームで暮らすことにしたの?」
「そういうわけじゃないよ。僕たちが住んでた州は、オウタットの東側で、サンドリームからはずっと距離があったし。そもそも、こんなに豊かな国があるなんて、知らなかったし」
「なら、ディランさまが?」
「まあね。ディランが僕たちを買ってくれたから」
「えっ。買った?」
「実際は、助けてもらったんだけどね」
アルブスは昔を思い出すように目を細めたが、すぐに飽きたような口調で言った。
「ねえ、もういい? どうせ、ディランが僕たちみたいなのといる理由が知りたかっただけでしょ。僕らに興味があるんじゃなくて」
「そんなことっ」
ディランがアーテルやアルブスと知り合ったきっかけは、確かに気になっていた。だがそれだけではない。
「アルブスやアーテルのことも、知りたかったの。だから、話してくれて、とてもうれしい。ありがとう。……大変だったのね。子どもの頃から、苦労も多かったんじゃない? 学校で勉強をしたりだとか、みんなが当たり前にやってることができないのは、つらいわよね」
エフェメラは心から同情して言った。だがアルブスは、和らぎかけていた態度を硬くした。
「当たり前……? 当たり前って、何?」
エフェメラは木箱に座ったままアルブスを見上げた。
「優しい両親に育てられて、食べ物に困ったこともなくて、いつも温かい家があって勉強を教えてくれる先生がいて、周りには味方がいっぱいいて……そんなあんたみたいなのが、当たり前だとでも思ってる? それで、僕がつらかっただろうって?」
「ア、アルブス――」
「あんたみたいな恵まれた人間が、僕とアーテルが子どもの頃からずっと、食べるために何でもして、必死にここまで生きてきたことがつらかっただろうって、どうして理解できるって言うんだよ」
アルブスの表情は険しく、瞳に温かさはない。押し殺した怒りだけがただ滲んでいた。怒らせてしまった。そんなつもりは、なかったのに。
「えっと……あの、わたし……」
「本当さ、あんた見てるといらいらするよ。自分がどれだけ恵まれてるかぜんぜんわかってないんだ。みんなに優しくされて、欲しいものは全部持ってて。本当に、幸せだよね」
アルブスの言い様に、エフェメラは段々腹が立ってきた。自然と立ち上がる。立つと、アルブスとの身長差は頭半分ほどになる。
「わ、わたしが欲しいものを全部持っていて、幸せしか知らないなんてこと、ないわ。確かにアルブスとは比べられないかもしれないけど、サンドリームへ来たことだって、家族やスプリアのみんなと別れるのは、本当につらくて、それでも泣かないで笑顔で別れて来たわ」
「そんなのつらいうちに入らないよ。血すら流れないじゃん」
「だからって、つらくないなんてことはないわ。ずっと一緒に暮らしてきたのに、どうしているのかすっかりわからなくなってしまって、だから、大切な人たちが風邪をひいても怪我をしても、すぐに気づくこともできなくて。それでもスプリアのみんなのためになると思って、わたしは」
「結婚するだけで自分の国に幸せが降ってくると思ってるのが、もうおめでたいんだよ」
興奮した頭のまま、エフェメラは訝しむ。
「どういう、意味? だって同盟には」
「そうやって幸せボケしてるから、自分たちの幸せが、何の犠牲の上に立ってるかなんて、ぜんぜん気がつかないんだ」
「犠牲……?」
「スプリアの安全は、サンドリームの権威あってのものなんだから、サンドリームが常に力を持っていないといけない。いままでも、これからも。そしてサンドリームが栄え続けてるのは、ディランが――」
「アルブス! フィー!」
驚きと焦りの大声が割って入った。戻ってきたアーテルのものだった。
「何二人で言い合ってんだよ」
アーテルは喧嘩の仲裁をするように、エフェメラとアルブスの間に手をかざす。アルブスが我に返りエフェメラと向き合うのをやめ、決まり悪そうな顔をする。
エフェメラも、道行く数人が何事かとこちらを見ていたことに気づき、恥ずかしくなった。
「ったく。なんで少し離れた隙に、喧嘩なんてしてんだよ。お兄ちゃんはそんなふうに育てた覚えないよー? 理由を言いなさい、アルブス」
「……別に、なんでもないよ」
「なんでもないわけないだろー」
アーテルは困ったように眉を八の字に下げる。だがアルブスが何も言いそうにないと判断すると、エフェメラのほうを向いた。
「わりぃな、フィー。こいつ、人見知りなんだよ。ディランと会ったばっかの頃も、そりゃーもうツンツンしててさぁ」
「別に普通にしてたよ! ただあれは、ディランが偉そうに命令するから、ちょっと文句言っただけで」
「とにかく、いまはフィーに謝っとけ」
アルブスは思いっ切り苦い顔をした。「なんで僕が悪い前提なんだよ」ともごもごと言う。
エフェメラも興奮が落ち着いてきた。元はと言えば、エフェメラの心無い発言が原因だ。
「ごめんなさい、アルブス。わたしの言い方が、よくなかったわ」