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「そ、そうだった。早く、花を飾らないと、またアナお嬢さまに怒られる……!」
少年は「では僕はこれで」と早口に言うと、走って教会堂の方角へ消えた。壇上ではヘーゼル司祭が祈りを終え、教典を閉じていた。
「さて。では本日は、教典の有名な物語である『心の誕生』――二人の天使、リースとイヴの話をいたしましょう」
広場にいるみなが、祈りの手を崩さずヘーゼル司祭を見上げている。エフェメラも祈りの手を合わせると、ローザとヴィオーラ、ガルセクも続いた。
「遥か三千年前――神ハキーカは、一つの大陸を作り、そこに住む『ヒト』という生き物を作りました。ヒトは二本の足で歩き、道具を使い、優れた頭脳を持っていました。けれどヒトは、心を持っていませんでした。そのため食料を求め争い、傷つけ合うようになりました。神ハキーカはヒトの行いを深く哀しみ、日に日に弱っていきました。そんなハキーカを見た世話係の天使もまた、心を痛めました。その天使の名を、リースと言いました」
エフェメラの後ろではアーテルやアルブスが、「この町って名物料理あるかなー」だとか、「名物だからっておいしいとは限らないよ」などと小声で話している。
エフェメラは少し離れた位置にいるディランを窺った。ディランは何か感じる風もなく、ただヘーゼル司祭を眺めている。そういえば、ディランの中間名はこの天使たちからとったものだ。
「神ハキーカを想った天使リースは、一体の魔物を作りました。魔物は誰にも負けない怪力と、命を凍らせる瞳を持っていました。リースは魔物を使い、次々とヒトを殺していきました。ヒトがいなくなれば、神ハキーカが元気になると思ったのです。しかし神ハキーカは激しく怒りました。そしてリースを、記憶と感覚が奪われる、『永遠の闇』に閉じ込めました。リースは神ハキーカを憎み、閉じ込められる寸前、魔物をばらばらに砕き、大陸中に放ちました。するとヒトは怒りと憎しみの心を持つようになりました。人々は意味もなく他者を憎み、殺し合いを始めました」
『心の誕生』は、全百巻ある教典の第一巻に記載された、誰もが知る物語だ。有名な物語や日常生活で使う祈りの言葉は、すべて教典第一巻にまとめられている。そのためどの家にも第一巻が置いてある。エフェメラも幼い頃に『心の誕生』の物語を聞かされたため、内容を知っている。
「神ハキーカは、混沌する大陸を見守ることしかできませんでした。そこへ、もう一人天使が現れました。名をイヴと言いました。イヴはリースの友でした。イヴは神ハキーカの前で膝を折り言いました。『私がヒトを止めてみせましょう。ただし、一つお願いがあるのです。争いが止まった時、私の身体を砕き、雨として降らせていただけないでしょうか』、と。イヴは銀色の鳥に姿を変えると、大陸中の空を飛び、唄を歌いました。空の彼方から海の底まで響いた美しい歌声は、ヒトに幸せを感じさせました。すると、争いが止まったのです。イヴに言われた通り、神ハキーカはイヴを砕き、光の雨として降らせました。光の雨はすべてのヒトに降り注ぎ、ヒトは喜びと楽しさの心を持つようになりました。――こうしてヒトは、『心』を持つようになりました」
物語が終わった。ゆっくりと一度瞬きをしてから、ヘーゼル司祭は穏やかに続ける。
「人にたくさんの心が、感情があることは、みなさんもよくご存知のことでしょう。毎日が喜びと楽しさだけで溢れるのなら、どれほど素晴らしいかと思うでしょう。ですが、喜びと楽しさは、哀しみや悔しさを知っていると深みが増すものです。また、怒りがなければ争いは起こりませんが、怒りは愛の裏返しでもあります。みなさんに覚えておいて欲しいことは、怒りや憎しみと言った、負の感情に振り回されない、ということです。もし負の感情に飲まれそうになった時は、一度目を閉じ、深く深く息を吐きましょう。そして気持ちを落ち着かせるのです。――大切な人を、大切な日々を、失ってしまわないように」
ヘーゼル司祭が一礼をした。広場に大きな拍手が起こる。エフェメラも自然と拍手をした。偶然辿り着いた町で、思わぬいい話が聞けた。
ヘーゼル司祭が教会堂の中へ消えた。するとそれまで静かだった一千人の大衆が一斉に動き出した。たった一つしかない広場の出入口へみなが押し寄せる。出入口付近にいたエフェメラたちはあっという間に人波に呑まれた。
エフェメラは慌てて隣にいたローザを見た。いない。ローザの隣にいたヴィオーラも、ガルセクも見当たらない。立ち止まり探そうとするが、人に押され勝手に足が進んでいく。
「ディ、ディランさまっ」
エフェメラは流されながら首を巡らせる。そこへ腕を強く掴まれた。
「フィー! 大丈夫か!」
「……アーテル」
アーテルは怪我をしていないほうの手を握り、エフェメラと体をくっつける。
「とりあえず流れに乗ってくぞ。はぐれるなよ」
「え、ええ」
アーテルの後ろには、やっとの思いでついて来ているアルブスの姿もあった。そのまま人に流され道の角を数回曲がる。ようやく人が減り立ち止まることができた時には、三人は広場から大きく流された場所にいた。通りの店は営業を始め、商品が並んだ露店では店主が威勢のいい声で客寄せをしている。
「すっげー人。驚いたー」
アーテルはエフェメラの手を離し、息を吐きながら道端にしゃがんだ。アルブスも疲れた様子で軒先の壁に寄りかかる。
「ディランたちも、近くに流されてるといいんだけど」
「ガルセクたちも、ばらばらになってねえかな」
「たぶんみんな一緒じゃないかなぁ。転んだローザに、ディランが寄ってくとこまでは見えたから。ガルセクがあの双子を見失うとも思えないし……。僕、探しに行って来るよ」
「その前に何か食おうぜ。すぐには見つかんねえかもしんねーし。それに運が良かったら、食ってる間にあっちが見つけてくれっかも」
「それもそうだね。あ、でも」
アルブスが会話を見守っていたエフェメラを向く。
「ねえ。お金持ってる?」
エフェメラはぱちくりと瞬きをしてから首を横に振った。アーテルが目を見開く。
「……え」
「はぁ……やっぱりね」
「金、ねえの? 銀貨一枚もあれば、十分なんだけど?」
「わたし、お金はまったく持っていないわ」
「一応、一国の姫だろ。いくら小国つったって、昼食代くらいは持ち歩いてるもんなんじゃ……」
「ごめんなさい。ないわ」
アーテルが見てわかるほどに落胆する。エフェメラに金をたかる前提の昼食計画だったようだ。
スプリア王国は貧乏というわけではない。森の恵みを受けているし、宝石となる鉱石も採れる。国民が豊かに暮らせる程度の国財はある。だが国内でのやり取りは金銭だけでなく物でも可能なため、エフェメラは硬貨を持ち歩く癖がなかった。
アーテルが沈んだ顔で下衣を探る。取り出した手の平に現れたのは穴銅貨が二枚だけ、アルブスのほうも見つかったのはたった銅貨一枚だった。無一文のエフェメラにも問題はあるが、この二人も大概ではないだろうかとエフェメラは思った。
「合わせて、銅貨一枚と穴銅貨二枚か……。これで買えるものは……」
アーテルはすぐ目の前にあったパンの出店へ向かった。そして全財産と引き換えにパンを一つ手に入れた。すぐ後に、幼い少女がアーテルが買ったパンよりひと回り大きなパンを三つも買っていった。
深く溜め息をつきながら戻ってきたアーテルは、パンを半分に割りエフェメラとアルブスに渡した。アルブスはパンを受け取らずに言う。
「アーテルが食べなよ。僕はまだ大丈夫」
「いいから食え」
アーテルはアルブスの口に無理やりパンを突っ込むと、くるりと身体の向きを変えた。
「ディランを見つけてくる。――すぐに」
エフェメラやアルブスが声をかける間もなく、アーテルはいつになく真剣な顔で走って行った。