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2-28

 雫が落ちる音だけがする青の鍾乳洞に魅入っていると、岩の斜面を滑り落ちる音がした。


「フィー!」


 落ちた穴からディランが下りてきた。エフェメラのように転がり落ちることはなく、器用に斜面を滑り着地する。


 エフェメラが落ちた穴は、身長の三倍ほどの高さにあった。転がっている時はもっと高く感じたが、実際はたいした高さではなかったようだ。


 ディランは焦りの表情を浮かべ、まだ腹ばいになっているエフェメラの横にしゃがんだ。


「怪我は?」


 エフェメラは立ち上がろうとして、左手首の痛みに小さく声を上げた。転がっている時に思わず手を出したのがいけなかったらしい。ディランがエフェメラの手首にそっと触れ状態を見た。手袋もなしで肌が触れ合い、こんな状況だというのにエフェメラはどきりとする。


「ひねったみたいだな。骨は大丈夫そうだ」


 ディランはエフェメラから離れると、そばの水溜りで持っていた手巾を濡らし、エフェメラの手首に巻いた。ひんやりとした感覚に痛みが少しだけ和らぐ。


「ほかに痛むところは?」

「いえ、大きくは……」


 エフェメラは立ち上がり、肩を回したり足首を回したりした。身体のところどころにやはり擦り傷ができていたが、それくらいだ。


 ディランが肩の力を抜き、それから鍾乳洞を見渡した。


洞穴ほらあなの奥に穴があったなんてな。昨日、確認した時、見落としてた。ごめん」

「い、いえ」


 夜に確認した上、穴は一番奥にあったのだ。ディランが謝ることはない。


「エフェメラさまー!」

「だいじょーぶかー?」


 上からローザとアーテルの声がした。


「大丈夫だ。何か縄になりそうなものないか?」


 ディランだけならまだしも、エフェメラが登るには斜面は急だ。もちろん、羽を使えば簡単ではある。


 アーテルが縄を探しに行っている間、ヴィオーラやガルセクもエフェメラの無事を尋ねた。エフェメラがそれらに答えていると、ふいに鍾乳洞の奥から獣の唸り声のような音がした。音は反響しながら徐々に近づいてくる。


「なっ、なな何の音でしょう! 何か、いるのでしょうかっ?」

「ただの風の音だよ。……外とつながってるのか」


 ディランの言う通り、唸り声がエフェメラまで届いた刹那、髪を揺らすほどの微風が吹いた。


「……あら?」


 風とともに予想外の、だがよく聞き慣れた音がした。


「鐘の音……?」

「遠くない場所に、町があるのかな」

「ディランー! 軽く探したけど、何もねーぞ!」


 穴の上からアーテルが報告する。ディランが仰ぎ叫んだ。


「上に戻るのはやめる。町へ出られる道を見つけたかもしれない。最低限の荷物だけ持って、みんなで下りて来てくれ」

「えっ!」


 するとアーテルは間髪入れずに下りてきた。肩にはローザがしがみついている。アーテルも身軽に斜面を滑り下り、鍾乳洞の景色に驚きの声を上げる。


「おー! すげー!」

「……荷物は」

「ここ、森の下だよな?」

「エフェメラさま! 大丈夫ですか?」


 ローザはアーテルの体を猿のように伝って下りると、エフェメラのワンピースについた土を払い始めた。続いて肩に背負える程度の荷物を持ったガルセクと、ガルセクの首元にしがみついたヴィオーラが下りて来る。


「エフェメラさま、お怪我の具合は」

「大丈夫よ、ガルセク。左手首と、あとは少しすり傷ができただけだから。それより荷物は何を持って来たの?」


 エフェメラはガルセクが選んだ荷物を確認した。案の定貴重品しかない。最後に下りて来ようとしていたアルブスに、エフェメラは慌てて叫んだ。


「待ってアルブス! 本も、持ってきてもらえないかしら。お城の図書室で借りたもので、題名は『夜空の花の王子様』というのだけど……!」


 王城にいる間に読み切れず、続きが気になり旅に持って来ていたのだ。就寝前に少しずつ読み進め、もう少しで読み終わるところだ。


 アルブスは無言で上へ戻ると、しばらくしてから今度こそ斜面を下りてきた。手にはディランのマントと本がある。エフェメラはほっと肩を下ろした。


「馬は?」


 ディランがマントを受け取りながら訊く。


「逃がしてきたよ。それより、ほんとに森を出られるの?」

「洞窟の道が人が通れる程度に整備されてるんだ。実際に誰かが通った痕跡もある」


 痕跡などいつの間に見つけたのだろうとエフェメラが驚いていると、「そっか」と返したアルブスが今度はエフェメラに近づいてきた。面倒くさそうに本を差し出す。


「はい、どーぞ」

「あ……ありがとう」

「何? お前も本なんて読むのかよ」


 受け取ろうとしたらアーテルに本を奪われた。アーテルは四百(ページ)近くある本をぱらぱらとめくり、片眉を上げる。


「小せえ字。なんて書いてあんだ?」

「え?」

「オレ、文字わかんねえんだよ」

「そう、なの……えっと……」


 途端にエフェメラは焦った。アーテルが偶然開いた頁は、男女の甘美な場面だったのだ。読み上げることをためらっていると、アルブスも本を覗く。


「だからアーテルも文字の勉強しておけばって言ったのに。これはねえ、えーと……『手が触れ合い、そっと顔が近づく――』」

「きゃああああ――っ!」


 エフェメラは真っ赤になって悲鳴を上げた。アーテルから強引に本を取り返そうとする。だが難なく避けられた。


「はっはーん。さては、いかがわしい内容の本だな?」

「ち、違うわ! ただの恋愛小説よ!」

「どうだかなぁー。アルブス、続き読め」

「『お前にまた会うために、俺は必ず生きて帰ってくる』……魔物でも倒しに行くの?」

「違うわっ。それは、幼なじみが、戦争に向かうところでっ」

「もっと決定的な証拠が欲しいな。アルブス、続き――」

「いい加減にしろ」


 ディランが拳の裏でアーテルの後頭部を叩いた。アーテルが頭をさすった隙に、エフェメラは本を取り返す。深く深く、安堵の息を吐いた。もっと際どい場面を読み上げられていたら恥ずかしさで死んでいたかもしれない。


 ディランに礼を言おうと顔を上げると、ディランはすでに先頭に立ち鍾乳洞を進んでいた。道を選びつつ、洞窟の鉱石にも興味があるのか、歩きながらたびたび手にとって見ている。喧嘩気味になっていた詫びと、夜にマントを貸してくれたことも含んだ様々な礼を言いたかったが、いまはどうやら邪魔になりそうだ。


 みなで青白い光に満たされた岩道を進んでいく。迷っていた森の中とは違い、洞窟の景色は美しく、また出口が近いという希望もあり、昨日より随分と気楽に歩ける。


「――どんな話なんだ? それ」


 アーテルはまだ本に興味があるらしかった。


「身分差の恋のお話よ。一国の王子様と、普通の女の子との」

「幼なじみの男とじゃなくて?」

「幼なじみは、王子さまの好敵手ライバルとして登場するの」

「三角関係ってやつか。女ってほんとそーいうの好きだよなあ」

「そ、そんなこと……」


 そんなことはもちろんあるが、素直に肯定すると頭から湯気が出てしまいそうだ。


「幼なじみは戦争で死んで、ヒロインは王子とくっついて、めでたしめでたしってわけか?」

「まだ最後まで読んでいないの。どうなるかはわからないわ」

「じゃあ、読み終わったら教えろよ」


 興味があるなら自分で読むほうがきっと楽しいと勧めようとして、エフェメラは先程の会話を思い出す。


「アーテルは、その、文字が読めなかったのね」

「まあな。オレ学校行ってねえし、教えてくれるようなやつも近くにいなかったし」

「そう、なの……」

「別にいいけどな。生活に支障はねーし、アルブスみたく、いまさら覚えるのも面倒だし」


 人口の少ないスプリア王国では、子どもも文字が読めるのが普通だが、国外は識字率が高くないと習った。他国より比較的豊かなサンドリーム王国ですら、都市部を離れた町村では読めない者が多いと、エフェメラはスプリア城での講義で教わった。


 プリシーの言葉によると、アーテルとアルブスはオウタット帝国の生まれだ。それなのに良好関係とは言えないサンドリーム王国の、しかも王子であるディランのそばにいるということは、国を捨てて来たのだろうか。家族や育った村の住人と、仲違いしたり死別したりしたのだろうか。


 どんな事情があるのか訊くのをためらっているうちに、周りの青白い発光が消えた。代わりに白い陽の光が感じられるようになる。


「おっ。ついに出口か!」


 アーテルが駆け出した。昨日から続いていた湿った空気が消え、乾いた風が頬に当たる。鐘の音がはっきりと耳朶じだを打つ。


 外へ出ると、頭上には朝の空が広がっていた。太陽の明るさに目が細まる。後方には、長く彷徨っていた細長い木の森があり、前方には青草の平原がある。


 遠くない位置に、翡翠色の屋根が連なる町があった。小さな町だ。


 町の中央にある教会堂の鐘の音が、エフェメラたちを出迎えるように鳴っていた。



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