2-27
「でも、今日みたいに歩き回っても仕方ないしな。方角を知る手段は見つけないと」
ディランが顎に手を当て考えると、ヴィオーラにびしりと指差される。
「全部あんたのせいなんだから、木のぼりくらいしなさいよ!」
鋭い銀色の瞳に凄まれ、ディランは怯むように肩を強張らせる。
「ああ、うん……そうだよな」
「なんてことを言うの、ヴィオーラ!」
「だって――」
「ヴィオーラ」
反論しようとするヴィオーラの頭にガルセクが手を置く。
「言いたいことはわかるが、殿下に何かあっても困るだろう。それに、こうなったのは殿下ではなく馬車を盗もうとした人たちのせいだ」
ヴィオーラが裏切られた顔でガルセクを見た。ガルセクは子どもを叱る時の厳しい表情をしている。
「……ガルセクまで、そいつの味方して……」
ヴィオーラの顔がみるみる歪み、銀色の瞳に涙が溜まった。
「ヴィオーラ、まちがって、ない。スプリアのほうがいいのに……エフェメラさまも、ローザも、ガルセクまで……。今日だって、すごくこわかったのに……」
「ヴィオーラ……」
「ガルセクの、ばかーっ!」
ヴィオーラは大声で泣きながら洞穴へ入っていった。エフェメラはガルセクと顔を見合わせる。
ヴィオーラはまだ幼い。暮らす場所が大きく変わったことが、想像よりも心の負担になっていたのかもしれない。
「様子を見てきます」
「ええ、ごめんなさい」
ヴィオーラをなだめるのはガルセクが一番うまい。エフェメラはひとまずガルセクに任せることにした。もっとヴィオーラに気を配るべきだったかもしれないと後悔する。
「気にしなくて大丈夫ですよ、エフェメラさま。ヴィオーラだって、本当はわかってます。スプリアには、もう戻れないって」
小切りにされた林檎をしゃりしゃりと食べながら、ローザは淡々と言う。
「ヴィオーラは、サンドリーム城でくらすことになったのは、ぜんぶ第三おーじのせいだって思ってて、だから第三おーじを怒るきっかけを、いつもねらっていたんです。それでようやくきっかけができて、なのにガルセクが、第三おーじをかばってヴィオーラを怒ったから、泣いたんです。ヴィオーラはただ、ガルセクに怒られて、すねてるだけです」
アーテルが愉快そうにディランの肩を叩く。
「嫌われたもんだな!」
「……」
「だから、エフェメラさまが落ち込むことはないです。明日には、いつものヴィオーラです」
さすが双子の姉だと感じつつ、エフェメラは洞穴の中を窺った。ガルセクに頭を撫でられるヴィオーラの姿が見える。泣きやんでいるようで、エフェメラはほっと肩を下げた。
「――でも、エフェメラさまもヴィオーラも、あの人たちにつれて行かれなくて、本当によかったです」
今度はパンの粉ではなく林檎の果汁を口周りにつけながら、ローザがぽつりと呟く。またエフェメラに口を拭かれながら、ローザはもごもごと続けた。
「わるい人につれて行かれたら、ころされて、体をばらばらにされて、さいごには食べられちゃうって、ラッシュさまが言ってました」
「……ラッシュお兄さまが言うことを、そのまま信じてはだめよ。いつも尾ひれをつけて話すんだから」
エフェメラの兄のラッシュはいつも話を誇張し相手の反応を面白がる。エフェメラも何度怖い話で泣かされたかわからない。
「食べられることはないわ。あるとすれば、命を奪われることかしら」
「死んじゃうってことですか?」
「そうね」
「やっぱりこわいです!」
ローザは昼間のことを思い出したように身を小さくする。エフェメラはローザの頭を撫でた。
「ええ、そうね。恐ろしいことだわ。……でも、その恐ろしいことを簡単にできる人は確かにいるの。そのことは、よく覚えておかなくてはならないわ」
ぱちん、と音を立て、枝が炎の中で爆ぜた。ディランが集めていた枯れ枝を焚火にくべる。
「そろそろ眠ろう。……俺たちは交代で見張りをするから、洞穴は君たちで使ってくれ」
橙に燃ゆる炎を見つめたまま、ディランは静かに言った。
×××
洞穴で横になり、エフェメラは目を閉じた。隣ではローザとヴィオーラが小さな寝息を立てている。
寝心地がいいとは言えなかった。地面の固さと冷たさは、敷草だけでどうにかなるものではない。身体は疲れているがよくは眠れないだろう。
ガルセクはディランたちと一緒にまだ焚火の近くにいた。声の断片を拾う限り、エフェメラの家族について話をしているようだ。
スプリア王国の王である父は口下手で、頑固なところもあるため傍から見るといつも怒っているように見える。だが本当は優しく、同盟により嫁がなくてはならないエフェメラのことをよく気にかけていた。
父は妻を一途に愛しており十一人もの子どもを作った。第五王子のラッシュはガルセクとも友人で、兄姉の中で最もエフェメラと歳が近いため、家族の中で一番話をする相手だ。
だが同時にラッシュは、兄弟の中で唯一年下のエフェメラをからかって遊ぶ。それがエフェメラは好きではなかった。いつも優しく可愛がってくれる兄なら理想の兄なのに、と思う。
ディランがどんな顔でエフェメラの家族の話を聞いているのか気になり、エフェメラは少しだけ瞼を開けた。暗い洞穴から少し離れた場所に見える焚火は温かそうで、その向こう側にディランがいた。エフェメラの角度からでは焚火が邪魔で顔が見えない。エフェメラは諦めて目を閉じた。
ラッシュには本当に困ったものだった。丹精込めて育てた花壇に兎を放たれたり、本の最初の頁に結末を書かれたり、飛んで逃げ回るラッシュを追いかけ自分が森で迷ったり、そうしてくたびれて城に帰ると、本人は元気に菓子を食べていたり――怒る気力も出なかった。
だがそんなラッシュも、エフェメラがサンドリーム王国へ発つ朝は優しかった。エフェメラの頭を撫で寂しげにほほえみながら、「会いに行くからな」と言った。
(ラッシュお兄さまも、お父さまも、ほかのみんなも、元気にしているかしら)
久しぶりにスプリア王国の森を思い出す。陽光を吸い込んだ風が通り抜け、緑の葉が気持ちよく揺れる。いつだって温かい人がたくさんいる場所で、居心地の良い世界だ。
眠っていたつもりはなかったが、ふと目を開けた時、焚火はうんと小さくなっていた。混濁した意識のまま視線を巡らす。闇に浮かぶ橙の炎の周りに会話をしていた四人はいない。ディランの姿を見つけようとして、でもエフェメラは、洞穴の入口で眠るガルセクを見つけただけでまた眠りに落ちた。春の野外なのになぜか温かく、まどろまないのが惜しかった。
もう一度目を開けた時、森は朝を迎えていた。天井が天蓋ではなく苔の生えた木であることに驚いたのは一瞬で、エフェメラはすぐに昨日のことを思い出した。外は相変わらず細長い木々が立ち並び薄暗い。だが昼間と違い、空気はひんやりと澄んでいた。
エフェメラの隣ではまだローザとヴィオーラが眠っていた。入口で眠っていたはずのガルセクはすでに起きていて、昨夜の焚火跡の前でディランと会話をしていた。ディランも起きていたようだ。二人は時折笑みを交えながら話をしていた。
いつの間に仲良くなったのだろうと、エフェメラはふと考える。思い起こしてみれば、旅の間中ずっとこのような感じだ。ガルセクは決闘を挑んだほどディランを良く思っていなかったはずだが、ディランが噂通りのいい加減な王子ではなかったため思い直したのだろうか。
アルブスが、倒れた幹の横で眠るアーテルを揺り起こしている。エフェメラも起き上がろうとすると、身体から何かが滑り落ちた。ディランの黒いマントだった。マントはエフェメラとローザ、それからヴィオーラを覆うように掛けられていた。
夜中温かかったのはこのマントのおかげだったのだ。エフェメラは胸が熱くなった。代わりにディランが寒い思いをしたのではないだろうか。
礼を言わなければならない。立ち上がろうと、地面に右手をつく。だが右手は予想外に宙を掻いた。
(――えっ?)
がくりと右半身が下がった。手をついた場所に人ひとりが通れそうな穴があった。とっさのことに反応できず、エフェメラは全身を穴に吸い込まれた。
「きゃあああ――っ!」
暗く狭かったのは一瞬で、エフェメラはすぐに広い空洞に出た。宙に身体が投げ出されるということは幸いなく、岩の斜面を滑るように転がり落ちる。果てしなく続くと心配した斜面はすぐに終わり、エフェメラの体は石の地面にぶつかり停止した。
「いた……っ」
頭をぶつけなくて良かったとエフェメラは思った。意識はしっかりしている。擦り傷ができたような小さな痛みをいたるところに感じた。
辺りを見渡す。落ちた場所は広い鍾乳洞だった。石壁や突き出る岩が青白く発光し、洞窟の中とは思えないほど明るい。至る所にある水溜りは澄んでいて、天井からの雫を心地良い音で受け止めていた。