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結局、森を抜けられないまま夜になった。馬車の跡は途中で見失い、午後いっぱい出口を探したが森を抜け出すことは叶わなかった。
先頭を歩くディランと、最後尾を歩くアルブスがそれぞれ松明を持っていた。辺りは不気味な闇と静寂で包まれ、灯りがなければ一歩先も見ることができない。二人の間には、順にアーテルとエフェメラ、ガルセク、それからガルセクが手綱を引く馬に乗るローザとヴィオーラがいる。エフェメラは時々交代で馬に乗っていたが、それでも半日以上は歩き続けているため疲れ果てていた。
疲れを感じているのはみなも同じのようで、しばらくの間会話がない。草や落ち葉を踏む音だけが一定に響いていた。
だが、とうとう我慢の糸を切らしアーテルが叫んだ。
「だーっ! 腹減った! これ以上歩き回っても無駄だって。今日はもう諦めようぜ」
ディランが前方を見たまま応じる。
「それほど広くない森なんだ。真っ直ぐ歩いていれば、一日かからず抜けられる。多分もう少しで――」
「それはもう何回も聞いたっての!」
「……野宿なんて、できるわけないだろ」
「一日くらい地面に寝たってどうってことねえって。なあ?」
アーテルがエフェメラを振り返る。ディランが気にかけているのは、エフェメラにローザ、ヴィオーラのことだった。
「は、はい。大丈夫です」
ディランはちらりと後ろを見て、だがそのまま歩き続けた。アーテルが苛立つ。
「聞く気はねえってか。だいたい、お前のせいでこんな状況になってんだろうが。オレらが寝てんのに、声も掛けずに馬車から離れやがって」
「……それについてはもう謝っただろ」
「謝って済むかよ。道はわかんねーし、食べ物だってねーし。どーすんだよ!」
「だから急いで出口を探してる。喋る気力があるなら足を動かしたらいいだろ」
「はっ、偉そうに。ほんとに責任感じてんのかよ」
ディランがぴたりと足を止め、アーテルを振り向く。
「さっきから好き勝手言ってるけどな、元はと言えばお前が昨日みんなを巻き込んで酒を飲んだからだろ」
「オレのせいにすんのかよ」
「本当のことだ。俺は前もって言ったはずだ。酒は次の日に響かないよう考えて飲めって。しかも、お前は物盗りが馬車に乗り込んでも、呑気に爆睡したままだったし」
「……それは、仕方ねえだろ」
「不審なやつが近づいたら、普通目なんて覚めるだろ」
「覚めるかよ!」
「はい、そこまでー」
アルブスがディランとアーテルの間に松明を振り下ろした。鼻先を掠めた炎に二人がたじろぐ。
「あっぶねーな!」
「……前髪が……」
「過ぎたこと言い合っても仕方ないでしょ。ディラン。今日はもう休もうよ。いま通ったとこに、ちょうど良さげな洞穴あったよ。……みんなだって、疲れてる」
アルブスがエフェメラたちを見やり、視線を追ったディランとエフェメラの目が合う。エフェメラはディランの喧嘩をもの珍しく見ていた。ディランは気まずげに目を逸らし、「……わかった」と呟いてからエフェメラたちに近づいた。
「申し訳ないけど、今日はここで休もう。……明日は、必ず森を出られるようにするから」
ディランが責任を感じないよう、エフェメラは大きく頷いた。
洞穴は、大木の根元と土の窪みでできた洞だった。屈めば大人が数人入れそうな広さがあり、大木の手前も開けていた。枯れ枝を集め火を起こし、乾いた草を洞穴の中に敷き詰め寝床を作る。ひと区切りついたところで火を囲み夕食をとることにした。
食べ物は昼食分しか用意していなかったため、夕食は昼の余りのパンと少量のチーズ、それから真っ赤な林檎が人数分だ。明日の朝の分まではない。ディランが懐から手の平ほどの短剣を取り出しパンを七等分していく。アーテルは自分に分配された量をふた口で平らげ、林檎もあっという間に食べてしまうと、哀しげに炎を見つめ始めた。
エフェメラは艶のある林檎を持ち上げた。季節が違うため少々値が張ったが、大陸の北のほうで丁寧に育てられた美味しい林檎だと言う。丸一個では食べづらいため半分に切って食べたいところだ。エフェメラはディランが使っていた短剣をそっと見た。借りたいが、なかなか声をかけることができない。
(どうせなら、酔いですべて忘れてしまえたら良かったのに)
今朝目覚めて以来、エフェメラはずっとディランの顔を見ることができないでいた。昨晩酔ったところを助けられ、みっともない姿をさらし、そのうえ再び告白までしてしまった。ディランに横抱きしてもらいながら、大胆に頬を擦りつけた気もする。
喧嘩気味になっていたことを謝るつもりだったが、ディランと目が合っただけで恥ずかしくて溶けてしまいそうだった。さらに今日はスカートの中まで見られてしまった。面と向かって謝る勇気が湧いて来ない。
「使う?」
だがディランのほうが気づいてくれた。エフェメラに短剣の柄を差し出している。
「あ、ありがとう、ございます」
エフェメラは目は合わせないよう気をつけながら短剣を受け取った。そばにあった平らな石の上に林檎を置き、剣を両手でしっかりと握り締める。
林檎は芯が固い。半分に割るには力一杯剣を突き刺す必要がある。エフェメラは腕を高く上げ、林檎の中心めがけて剣を垂直に下ろした。勢いづいた剣が林檎に鋭く突き刺さる。だが中心が少しずれてしまったようで、林檎は抉れただけで割れなかった。
もう一度刺さなければならない。周りの面々が固まってエフェメラを見ていることに気づかず、エフェメラはぐりぐりと林檎から短剣を抜き、もう一度力一杯剣を振り下ろそうとした。ディランが慌てて声をかける。
「き、切ろうか?」
「え? いえっ! 大丈夫です! ディランさまは、どうぞお先に、召し上がっていてください」
エフェメラは林檎に再び集中した。同じ動作を三度ほど繰り返せば割れそうだ。不安な表情のままのディランの横で、エフェメラは再び腕を上げる。その時ガルセクが、切り終えた林檎が乗った葉をさっと差し出した。
「エフェメラさま。ローザとヴィオーラに切ったリンゴがありますよ。ついでですから、そのリンゴも私が切りましょう」
「そう……? ありがとう」
歪な形の林檎をガルセクに預け、エフェメラは切られた林檎を口に含んだ。蜜がたっぷりと入っており、果肉も程良い硬さだ。おいしさに頬を緩ませるエフェメラをアーテルがやけに穏やかに眺める。
「お前って、料理したことあるの?」
「いいえ」
「そっかー」
「エフェメラさまは、お花の世話は得意なのよ!」
「ええっと……、アーテルもヴィオーラも、いったいどういう」
「エフェメラさま。明日は森を出られますか?」
ローザが不安げにエフェメラを見上げる。エフェメラはローザの口についたパンの粉を拭ってやりながら頷いた。
「ええ、きっと出られるわ。いざとなったら木の上から――」
「エフェメラさま」
ガルセクに名を呼ばれ、エフェメラは口に手を当てる。羽で木の上まで飛び方角を確認すれば、きっと簡単に森を抜けることができる。昼間歩きながら、エフェメラがずっと考えていたことだ。
だがスプリア人以外に羽のことが知られるのは好ましくない。ディランたちに知られるくらい構わない気もするが、スプリア王国全体に関わる重要事項のため、ガルセクは感心しないようだ。幸い、三人はエフェメラの言葉をうまく勘違いしてくれたようだった。
「木の上からって。お前、結構無茶言うな」
「確かに高いけど、不可能、ではないか……」
「そうだね。登れると思うよ、ディランなら」
エフェメラは慌てた。この森の木は建物三階分の高さはある。
「やめてください、ディランさま! 落ちたら怪我では済みません!」
「お前が言ったんじゃねえか」
アーテルが言う。
「そうだけど、そうではなくてっ」