2-23
エフェメラは木の葉の茂みに姿を隠しつつ、声の方角へ飛んだ。声は二つ、男女のものだ。次第にはっきりと聞こえてくる会話に心臓が大きく鳴る。男の声がよく聞き覚えのあるものだった。
「マルティは、もう大丈夫そうだな。近隣の町もどうだった?」
「もう少し時間がかかりそうだけど、問題ないわ。来月にはすべてが解決するはずよ」
木の葉をすり抜ける細い月光の下、予想した人物を見つけエフェメラは声を上げそうになった。ディランがそこにいて、先日見かけたシーニーという少女と話し込んでいる。
エフェメラは木の葉が多く茂る枝に腰を下ろした。露わにしていた羽を消し、耳をそばだてる。この暗闇の中、二人でこそこそと、一体何の話だろう。
「ウィンダルで、剣は手に入りそうか?」
「ええ。問題ないって」
「やっぱり、早いうちにブラウから直に話を聞きたいな」
「大丈夫よ。私がフェブルアーリに行って、全部聞いてくるから」
シーニーが肩にとまっている鳥を撫でながら返す。彼女の肩にはずっと瑠璃色の鳥がとまっていた。大きさは顔くらいで、お腹だけが真っ白なのが特徴だ。
エフェメラはその鳥に見覚えがあった。ここへ来るまでの道中、ディランが紙をくくりつけて飛ばしていた鳥だ。誰とやりとりをしているのだろうと思っていたが、なんとシーニーだったようだ。鳥のくせに澄ましており、シーニーと雰囲気がそっくりなので彼女が飼い主で間違いない。
「悪いな」
「謝らないでよ。ディランが悪いわけじゃないでしょ」
「いや、俺が――」
ディランの声が小さくなる。エフェメラは二人の会話をもっとよく聞こうと身を乗り出した。そして誤って枝から手を滑らせた。
「きゃあああーっ!」
夜のひっそりとした林を悲鳴が切り裂く。枝が折れる派手な音を鳴らしながら、エフェメラは下の茂みへと落下した。ディランとシーニーがさっと自身の武器に手をかける。だが落ちてきた相手を確認し、驚きながら警戒を解いた。
「フィー?」
ディランがエフェメラのそばに駆け寄った。落下の衝撃で、エフェメラの頭の中はぐるぐると回っていた。白黒する視界にディランの焦る顔が映る。
「茂みで衝撃が緩んで良かった――痛むところは?」
「ないれす」
「大きな怪我はないみたいだけど、一応医者に診てもらったほうがいいな」
エフェメラはディランの手を借りながらゆっくりと身体を起こした。羽を隠しておいて良かったと思った。
「どうして木の上から……いや、そもそもなんで林の中にいるんだ?」
「そっ、それはこちらの台詞れすっ!」
エフェメラは酩酊した赤ら顔でディランを見据えた。
「ディランさまこそ、こんなところで何をされていたのれすか? こ、こんな、暗い、場所で! その人と! ふふっ、二人っきりれっ!」
呂律も回っていないエフェメラに、ディランが眉をひそめた。
「もしかして、酔ってるのか?」
「しっ、質問に、答えてくらさいっ!」
「なんで酒なんて……アーテルとアルブスだな、まったく。シーニー、水持ってるか?」
シーニーが腰にさげていた革の水袋をディランに手渡した。
「この子、いつの間に私たちに近づいたのかしら。まったく気がつかなかった」
「確かに、音がなかったな」
「ディランさまっ! わらしの、質問にっ!」
「フィー、水だよ。飲める?」
「……ありがとうございましゅ」
エフェメラは素直に水を飲んだ。ひんやりした感覚が喉を滑り落ちていく。視界の揺れが少しだけ落ち着いた。
「理由はあとで聞くことにして、とりあえず、フィーを宿まで連れて行かないと」
ディランはエフェメラを抱き上げた。エフェメラは大人しくディランの腕に収まりながら、シーニーをじーっと見つめた。シーニーが不快そうにする。
「……何?」
「はじめまして、シーニーさん。わらしは、エフェメラといいましゅ。スプリア王国出身で、ふた月前から、ディランさまの妻をやっておりましゅ」
シーニーがぴくりと眉を動かした。
「知ってるわよ、そんなの。ディランに関係することだもの。私が知らないわけないでしょ」
エフェメラはシーニーと無言で見合った。穏やかではない雰囲気に、ディランが不可解な顔をする。
エフェメラはディランの胸にそっと身体を寄せた。ついでに頬もぴたりとつける。普段エフェメラが絶対にしない動きに、ディランが硬直した。するとシーニーは、地面に長槍を強く突き立てた。
「そろそろ行くわ。じゃあ、私は、予定通り国境沿いを南下するから」
「あ、ああ……。あんまり無茶するなよ」
「ええ。また連絡するから」
シーニーは黒髪を肩の上で払い、林の闇へ消えた。去り際、ディランと同じ青藍の瞳でエフェメラをひと睨みすることも忘れなかった。
「――なんだか、ごめん。普段はもっと優しいんだけど……今日は、疲れてたのかもな。俺が頼みごと多くしてるから」
エフェメラにはわかった。シーニーはディランに好意を寄せているに違いない。そして当のディランは、エフェメラの時と同様、シーニーの気持ちにまったく気がついていない。エフェメラは心の中で、鈍感、と呟いた。
ディランが宿へ向けて歩き出す。歩く度に伝わる振動は、揺り籠の中にいるようで心地がよい。頭上では木の葉の向こうで星が輝き、月は眠りにつく人々を優しく見守っている。
エフェメラはずっとディランの横顔を見つめていた。視線に気づいたディランと目が合う。ディランは照れたようにすぐに目を逸らした。
「えっと……、どうしたの? そんなに見て」
「ディランさまの瞳は、夜空の下では特に魅力的れすね。とってもきれいれす」
金色の前髪の下にあるとさらに綺麗で、整った顔も合わせ、ぽうっと魅入ってしまう。
「そう、かな。……俺は、この目、嫌いなんだけど」
「そんな! どうしてれすか?」
エフェメラは仰天した。
「青よりも深くて、黒よりも淡くて――いつも目が離せなくなってしまうくらい、すてきらのに」
ディランの腕の中だというのに、緊張で硬くならないのも、普段言えない言葉がすらすらと出てくるのも、すべて酒のせいで酒のおかげだ。エフェメラは目を閉じ、猫のようにディランの胸に頬を寄せた。温かくて、ディランの匂いがする。
「ディランさま……大好きれす」
ディランが一瞬だけ息を止めた。頬から伝わる心臓の音が、少しだけ早くなる。
「俺なんかの……どこが、そんなにいいんだ?」
「ぜんぶ、れす!」
「……俺は、おもしろい話をするのは苦手だし、仕事以外の考えごとはだいたい後回しにするし、ほかにもいろいろ、よくないところが、たくさんあると思うけど」
「うーん、関係ありません。わらしは、ディランさまが、すきすき大好きなのれすー」
エフェメラは幸せいっぱいだった。今度はディランがどう返してくるか、しばらくの間待った。
だがなかなか返って来ない返事に、気づけば眠りに落ちていた。