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ハキーカ暦三〇〇二年 デケンベル
ハキーカ大陸の北の果て、人も寄りつかぬ険しいシャドの山の奥深くにその谷はある。
名もない谷を知るごく一部の者たちは、その場所を〈渓谷〉とただ呼んでいた。雪と氷に覆われる渓谷は、真夏でさえも地面に土を見せることはない。冬が深まるデケンベルにもなれば、雪は連日連夜降り積もり、静寂が生者の気配を呑み込んでしまう。
紫黒と薄青が混じり合う明け空の下、銀色の世界に埋もれた家の中でシーニーは目を覚ました。再び眠ろうとする体を微かな意識で動かし、温かな布団からまず足を出す。冷たい床に素足が触れた瞬間、シーニーは驚きとともに一気に目を覚ました。慌てて足を布団に戻し、しかしやがてしっかりと体を起こす。
シーニーは以前より、今日は早起きをすると決めていた。何故なら今日は一年で最も素敵な日――ひと月先に五歳になったシーニーに、ディランが追いつく日だからだ。
シーニーはまだ眠る両親を起こさないようそっと寝室を出た。居間の薪を焚いてから水桶へ向かい、顔を洗って寝癖を丁寧に直す。暖まった部屋の中で一番ほつれのない服に着替え、厚手の外套を着て、母に縫い直してもらったばかりの毛糸の帽子を深くかぶる。最後に手袋をして準備が整ったところでシーニーは鏡の前に立った。そこにはいつもより少しだけおめかしをした黒髪の女の子が映っていた。
「うん。ばっちり、よね」
暗かった空が明るくなり始めている。こうしてはいられない。陽が昇ってしまえばディランが起きてしまう可能性がある。シーニーは棚の上に置いていた装飾された包みを手に外へ出た。冷気が頬を刺し、白い吐息が口から漏れる。雪は丁度止んでいた。
柔らかな雪に小さな足跡をつけながら、シーニーは数軒先のディランの家へ向かった。渓谷の家々をつなぐ通り道は昨夜の雪でまた埋もれてしまい、歩きづらいことこの上ない。あとで母に雪かきを手伝うよう命じられるのは確実だ。
しかしそれも、今日なら快く承諾できそうな気がした。なんと言っても今日はディランの誕生日で、しかも自分が一番に祝えるのだ。シーニーは歩きながら手元の包みを何度も見た。中身は悪戦苦闘しながら仕上げた毛糸の襟巻だ。包みの布には木の実で作ったハート形が貼り付けてあり、力作である。
「ディランはこのハートを見てなんて思うかしら」
シーニーは一人で顔を熱くした。だが女の子の気持ちに鈍感なディランのことだ、包みには注目せず真っ先に中身を確かめるかもしれない。
渓谷のみなはまだ眠っているようで、通り過ぎる人家の煙突には暖炉の煙はない。たった一人の世界に響く音は、シーニーが踏みしめる雪の音だけだった。
だが谷の外へと続く広い道に差しかかった時、ふいに別の足音が聞こえた。シーニーは辺りを見回した。音は森の入口からだった。薄闇の中に、三つの人影がある。二つは大きく、一つはシーニーと同じくらいに小さい。
シーニーが気づくと同時に三人もシーニーの存在に気がついた。小さい影が、雪を踏む軽い足音とともに近づいて来る。
「シーニー? こんな朝早くに何してるんだ?」
小さな人影はディランだった。シーニーは呆けた顔でディランを見返した。
「何してるって……」
それはこちらの疑問だった。眠っているディランを起こして驚かせようとしたのに、ディランはすっかり身支度を整えているばかりか、遠出でもするように背中に荷物を背負っている。
「どこか、行くの?」
「ああ……うん、ちょっと」
歯切れが悪い。陽が出ていないせいで表情がはっきり見えないことがもどかしい。
「ちょっとって、どこ行くの?」
ディランは質問には答えず、シーニーが抱える包みを見た。
「それ、もしかしておれへの誕生日のおくりもの?」
「うん。そうだけど」
「もらっていい?」
ディランが手を伸ばしてくる。その手をシーニーは慌てて避けた。
「だめっ! どこへ行くか教えてくれるまで、絶対にだめ!」
ディランが押し黙る。シーニーは頑なに包みを抱き締めながら、せっかくの誕生日にディランを困らせる自分が嫌になった。
「ディラン」
人影の一つがディランを急かす。剣の腕がいいと評判のブラウのいとこだ。隣りには薬草に詳しいキュアノのおじさんもいる。どうして二人は森へ入ろうとしているのだろう。ディランをどこへ連れて行く気なのだろうか。
ディランが返事をし、シーニーに背を向ける。このまま行ってしまう気だ。シーニーは焦ってディランの手を掴んだ。
「おくりもの、いらないの!?」
泣き出しそうなシーニーにディランは表情を和らげると、帽子へ手を伸ばしてきた。頭を撫でられるのかと思ったが、違った。ディランはシーニーの帽子をぐいっと掴むと、目元が隠れるように大きく引き下げた。シーニーは真っ暗になった視界に驚きの声を上げる。
「もうっ! ふざけてないで――……あ」
帽子を引き上げると手元の包みが消えていた。ディランは森へと走りながら包みを片手に手を振った。
「ありがとう、シーニー! 夜には戻るよ!」
谷に一本の朝陽が射した。おかげでディランのあどけない笑顔がよく見えた。まだ不服に感じながらも、シーニーは仕方なくディランに手を振り返した。
(なんだ。夜には帰ってくるんじゃない)
だったら初めからもったいぶらずに言えばいいのに、そう思いながら、シーニーは森に消える三人を見送った。
でも、それは嘘だった。夜になってもディランは帰ってこなかった。