2-17
「昨日の夜って……、もしかして、シーニーのことか? 長槍を背負った?」
「そうですその方です! そのシーニーさんとは、きっとディランさまのお仕事仲間ですよね。でもその、それ以上に、打ち解けた間柄のように見えたと言いますか……」
「シーニーは、俺の幼なじみだよ。仕事も一緒にしてる」
「おっ、おお、幼なじみっ!?」
エフェメラは眩暈がした。ディランに幼なじみがいたなんて、まったくもって聞いていない。愛妾よりはましだが関係は濃密である。
「ディランさまに、わたし以外の幼なじみがいらしたとは……存じ上げませんでした」
「君は……、幼なじみって言うよりは、幼い頃からの知り合いっていうか」
「……え」
「あ、いや、えっと――今度、シーニーを紹介するよ。初対面の人には無愛想なやつなんだけど、君となら仲良くなれると思う。俺と同郷で、五歳頃まで一緒に育ったんだ」
「一緒に育った? しかも五歳って、それはつまり、わたしと会う前からということですか? しかも同郷って、ディランさまがお生まれになった場所は王都では――あっ」
怒涛の情報に熱中し過ぎ、前のめりになり過ぎた。エフェメラは階段の中程でぐらりと平衡を崩した。
「フィー!」
身体が前へと傾く感覚に反射的に目を閉じる。足に床の感触がなくなり、あっという間にエフェメラは階段を数段飛び落ちた。
瞼の裏の闇の中、数冊の本が落ちる音と、床に手燭が転がる音がした。来ると覚悟した痛みはない。エフェメラを包み込む温もりから、ほっと息をつく気配がした。
「ふぅ……。大丈夫?」
ディランが落ちたエフェメラを受け止めていた。手燭の灯りが消えた踊り場に、二人で抱き合う形で座っている。エフェメラは慌ててディランから離れようとした。
「ごっ、ごめんなさ――……」
顔を上げると鼻がくっつきそうな距離にディランの顔がある。深い青の瞳と間近で目が合い、エフェメラは動くことを忘れた。
窓から射す淡い月光が、暗い踊り場にいる二人を照らしている。夜に見るディランの瞳が一番綺麗だと、エフェメラはよく知っていた。
『夜空の花の王子様』の少女と王子は、月夜に秘密の逢う瀬を何度も重ねる。そうしていまのエフェメラとディランのように互いの顔を近づけ、密やかに大人のキスを交わすのだ。
「きゃあああ――っ!」
勝手に妄想して茹で上がったエフェメラは、ディランをどんっと突き飛ばした。ディランが後ろに倒れ、二人の距離が元の位置に戻る。
叫ばれ突き飛ばされたディランがやや傷ついた顔をしたことに気づかず、エフェメラは火照った頬に手を当て目を強く閉じる。
(ディランさまとみだらなキスをする想像をしちゃったわ! わたしったら、何を考えているのかしら……!)
エフェメラは平静を取り戻そうと必死に気を落ち着かせた。その間、ディランは落ちた本と手燭を拾っていた。エフェメラは我に返ると立ち上がった。
「ごっ、ごめんなさい! わたし、助けていただいたのに、ディランさまを思いっ切り押してしまって」
「いや、ぜんぜん、気にしてないよ。怪我はない?」
「はい、大丈夫です」
ディランが階段を上り始める。エフェメラは抱き合っていたことが照れ臭く、二歩下がった距離を保ちついて行った。
エフェメラは不注意で階段から落ちてしまったことを反省した。ディランに自分よりも近しい女性がいると思うと、気持ちが乱れるのをどうしても抑えることができない。頭に熱が籠もり、周りが見えなくなってしまう。
(嫉妬をしているんだわ。子どもみたいに)
エフェメラの片想いでしかないのだ。ディランはいつも優しいが、何を感じているかまではわからない。もしかしたらエフェメラと話をするよりも、シーニーという少女と話すほうが楽しく感じるているのかもしれない。そう考えると、胸が苦しくなってくる。
「――これは、小説?」
ディランが抱える本の中から一冊取り出した。夜空の花の王子様の三巻だ。エフェメラは本のことをすっかり忘れていた。手元を見れば本はなく、階段で落としディランが拾ってくれていたことにようやく気づく。
「おもしろいの?」
「は、はい」
「なら、今度俺も読んでみようかな。小説はあまり読まないから、何がいいのかわからなくて」
エフェメラは引ったくるようにディランから本を奪い取った。
「やめたほうがいいですっ! 絶対に、絶対にやめるべきです!」
「え……、そうかな?」
「はい! ディランさまには、絶対に楽しめませんっ! 」
エフェメラの全力の否定に面食らいながらも、ディランは「そ、そっか」と納得してくれた。エフェメラはまた変な行動をとってしまったと悔いたが、挽回は叶わず二人はエフェメラの部屋まで到着していた。
「じゃあ」
「はい。……おやすみなさい」
取っ手に手をかけたところでエフェメラは「あっ」と声を上げた。歩きかけていたディランが振り向く。
「そういえばわたし、ディランさまにお尋ねしたいことがあったのです」
エフェメラは昨日の茶会で聞いた、ヴァーリ侯爵が領地へ帰還する際に事故で亡くなったという話をした。
「ヴァーリ侯爵は、牢に囚われているのですよね? なぜ亡くなったことになっているのでしょうか?」
すぐに反応が返ってくると思ったが、ディランは口を開こうとしない。
「ディランさま……?」
「ああ……。それは……」
ディランはエフェメラから目を逸らし、とつとつと話し出す。
「事故で亡くなったというのは、爵位から退かせるための表向きの理由なんだ。侯爵ほどの者がいきなり爵位を奪われるというのは、結構な事件だ。興味を持った者が深く調べて、スプリアの国民を商品として売買していたことが表沙汰になるかもしれない。そうすれば、余計な混乱が生じる可能性がある。だからそれを避けるために、嘘の情報を流したんだ」
「なるほど……そういうことだったんですね。納得しました」
「……」
「でも、亡くなったことにしてしまったら、牢を出た後はどのように暮らすのですか?」
「……名を、変えるんだよ。位を捨てて、平民として生きるんだ」
「そういうことですか。うまくできてますねぇ。反省し罪を償った後、そうやって一からやり直すというわけですね」
エフェメラは安堵とともに笑む。ディランはその表情を静かに見つめた。
「……君は、ヴァーリ侯爵が罪を素直に認め、償うと思うんだな」
「え……?」
「彼は、反省なんて、するのかな」
エフェメラは当然のように頷いた。
「それはもちろん、すると思います。悪いことをしたんですから」
「悪いことをしたって、反省しない人はいるよ」
「それなら説得をします。自分が何をしたのか、ちゃんとわかるように説明して」
「その人が、罪の重さを理解してくれるまで?」
「そうです」
「どれほどの時間がかかったとしても?」
「そうです!」
エフェメラがあまりにあっさりと主張するので、ディランは微かに笑みを返した。不意打ちの笑みに、エフェメラはかなり驚いた。
「じゃあ、たとえばそれが、大量殺人を犯した人だったとしたら? 反省したとしても、やり直すことはきっと許されないんだろうな。遺族は罪人の死を望む。やり直しも赦しもないほうが、報われる人が多い」
エフェメラは考えた後、ゆっくりと首を横に振った。
「わたしは、死ぬべき人なんて、いないと思います。罪は重いですが、その人が死んでも、大切な人は帰ってきませんから。その人は、殺めた人の分まで、生きるべきだと思います」
「……恨みを背負いながら、生きろということ?」
「それは……」
苦痛を感じて生きて欲しいわけではない。だが残された人たちの哀しみを思うと、罪人の幸せを安易に願うわけにもいかない。
すぐには出ない答えにエフェメラが難しい顔をしていると、ディランが話を打ち切った。
「ごめん、変な話をして。いい加減寝ないとな。――おやすみ」
何故このような話をしたのか、エフェメラが理由を見つけられないでいるうちに、ディランは廊下の闇へ紛れてしまった。