2-11
×××
「――こうして、人々を助けるために死んだ青い鳥と王子は、二人一緒に永遠に、天国の庭園で幸せに暮らしました。おしまい」
仄かな明かりが灯った寝台の上でエフェメラは絵本を閉じた。隣には寝衣姿のローザとヴィオーラが座っている。ローザは難しそうに眉根を寄せた後、頷いた。
「死んじゃったのはかなしいけど、でも、鳥さんと王子が、天国で幸せになれてよかったです」
「ええ、そうね」
「ヴィオーラはすっきりしませんわ。町の人たちは、青い鳥と王子さまのおかげだって気づいていないし、市長たちなんて、みすぼらしいって言って王子さまを溶かしちゃうんですもの」
「そうね……それがこの物語の、哀しいところね」
町の人々は、自分たちの幸福が、心優しい青い鳥と王子の自己犠牲によるものだと最後まで気づかない。それでもなお、王子は自らを幸せだと言う。美しく哀しい物語だ。
「『優しい青い鳥と幸せだった王子』は、読み終えてしまったから、明日は図書室に新しい本を借りに行きましょうか」
ローザとヴィオーラが元気良く頷く。二年前にエフェメラのもとで二人を預かるようになって以来、就寝前に二人に絵本を読み聞かせるのが習慣だ。
だが、二人も五歳になった。そろそろ一人で本を読むことができる歳だ。この習慣も終わるかもしれず、エフェメラは二人の成長をうれしく感じる反面寂しくも感じた。二人が自室へ戻るために寝台を下り始めた時思わず声をかける。
「ここで眠ってもいいのよ?」
二人がエフェメラの侍女になると言い出すまでは、三人同じ寝台で眠っていた。
「じゃあそうします」
真っ先に答えたのはローザだ。するといつものようにヴィオーラが拒否する。
「だめよ。エフェメラさまはお姫さまなの。イチリューの侍女というものは、つかえる主と同じ部屋では寝ないものなの」
侍女になるため、という言葉にローザは弱い。結局二人は寝台からぴょんっと飛び下り、エフェメラから離れていった。「おやすみなさい」と挨拶を交わし、寝室の扉は閉まる。部屋が静寂に満たされる。
「……お母さまも、わたしが親離れした時はこんな気持ちだったのかしら」
子離れするほうが難しいのだろうか、と考えながら、エフェメラは枕元の燭台の火を消した。柔らかな寝台に横になり、花嫁の面紗のように広がる純白の天蓋を眺める。来たばかりの頃は何もかもお姫様然として落ち着かなかったが、一週間も過ごせば豪華さには慣れてしまう。
エフェメラは今日の茶会の出来事を思い起こした。もしまた令嬢たちと会う機会があったら、悪かったところを訊いてみようと思う。欠点を指摘してもらえれば直すことができるかもしれない。そうすれば今度はきっと彼女たちと仲良く話せるに違いない。
だが、もしも花の世話をすることが王族らしくなく駄目だと言われたらどうしようか。もしそう言われたら、直せないことをはっきり伝えなければならない。好きなことだから、と。理解してもらえるようにも頑張って話してもみよう。
考えているうちに、今日の庭でのディランの言葉が頭をよぎる。
『きっとこの城には、君以外にこの花を助ける人はいなかった。君はそれぞれの命を大切にして、丁寧に育てているだけだ』
エフェメラは枕の上で顔を赤くした。ディランが肯定してくれたのだから、好きなことを卑屈に感じる必要なんてない。今日はディランに会えて、話もたくさん出来た。励ましてももらった。ここ最近で一番心踊る日だった。
もっとディランと仲良くなりたい。毎日会話をし、手をつなぎ庭園を散歩したい。
(そしてたまには――)
結婚式での誓いのキスを鮮明に思い浮かべ、エフェメラは額まで真っ赤にして悶えた。寝台の上を何度か転がった後、やがて枕に顔を埋め、足だけをばたばたと動かす。そしてようやく落ち着いたところで枕から顔を上げた。
早く仲良くなるにはもっと行動的になる必要がある。どうしようかと悩みながら、カーテンの隙間から漏れる月明かりを見た。今夜は満月で、庭園は花の色が見て取れるほど明るく照らされている。
「そうだわ!」
エフェメラは寝台からがばりと起き上がり、窓へ向かった。今日のお礼も兼ね、ディランに贈り物をしようと思いついた。
夜のバルコニーへ出ると月光に輝く庭園が一望できたが、エフェメラは景色ではなくバルコニーの床に目線を落とす。そこには大小二十個ほどの鉢植えがずらりと並べられていた。小さな花畑を作っているその鉢植えたちは、エフェメラが庭園からせっせと持ち込んだものだった。
「どのお花を贈ろうかしら」
ディランへの贈り物は花にすることにし、手入れも簡単で、年中枯れない多年草の花にする。
「贈り物だもの。鉢にリボンを巻いて、お手紙も添えて……、お水をあげやすいように、小さなじょうろもつけようかしら。ディランさまに似合うじょうろの色は……」
バルコニーからはディランの部屋の窓が見えた。まだ起きているらしく、橙の灯りが漏れている。もう遅い時間だが、アーテルやアルブスが部屋に遊びに来ているのかもしれない。
「贈り物と言えば……わたし、ディランさまのお誕生日を知らない」
エフェメラは愕然とした。夫の誕生日を知らないなど妻として失格である。鉢植えを渡した時にでも、絶対に確認しておかなければならない。
その時、かたり、と音がした。ディランの部屋の窓が開く音だった。エフェメラは独り言が聞こえてディランが窓を開けたのかと慌てた。バルコニーからディランの部屋の窓までは結構な距離があるが、夜はとても静かだ。
だが窓から顔を出したのはディランではなかった。アーテルでもアルブスでもない。現れたのは見知らぬ黒髪の少女だった。エフェメラは驚いて瞬きを忘れた。
少女は窓から両足を出すと、そのまま外へ飛び出し屋根伝いに地面へと下りていく。年齢はエフェメラよりも少し上、ディランと同じくらいだ。真っ直ぐ伸びる黒髪は肩までしかなく、細い腕や胸には銀の甲冑をまとっている。髪がさらりと揺れた時、蒼玉の小さな耳飾りが深青に煌めいた。膝まで覆われたブーツを履き、動きやすさを重視しているのか下衣の丈は短い。そして背中には、エフェメラにはとうてい振り回せそうにない、身の丈ほどの長槍があった。
「シーニー!」
ディランの声がした。ディランが窓から半身を出し、地面に下り立った少女へ何かを放る。小さな容器のようなものが放物線を描いて下降し、少女の両手へ吸い込まれる。
「薬。ちゃんと傷口に塗っておけよ」
「大丈夫よ。たいした傷じゃないし」
エフェメラよりも落ち着いた、大人っぽい綺麗な声だった。
「そのままにしておくよりはいいだろ。……あんまり無茶するなよ」
アーテルやアルブスと話す時のような気を許した喋り方だ。更に口調はずっと柔らかい。エフェメラは心がもやもやしてくるのを感じた。少女が表情を和らげる。
「ありがとう、ディラン」
ディランが窓を閉め、少女が走り出す。庭園を横切り城門へ向かうようだった。エフェメラは硬直したままバルコニーの欄干の間から少女を見つめた。
視線を感じたのか、ふいに、少女がエフェメラのいるバルコニーを見上げた。明るい月はバルコニーにも白い光を落としている。少女は容易にエフェメラの姿を捉え、互いに目が合った。少女の瞳が驚いたようにわずかに開かれる。
一方、エフェメラは少女の瞳の色に息を呑んでいた。
(ディランさまと、まったく同じ瞳の色)
蒼玉に闇を溶け込ませたような、夜空を思わせる深い青藍だ。ディラン以外にもいるとは思わなかった。
少女は明らかな敵意を持ってエフェメラを睨んだ。エフェメラはバルコニーでたじろいだ。その間に少女は再び前を向くと、すぐに柱廊の陰へと入り見えなくなった。




