14.5 side:青桐いおり
二○○三年の秋。
学校から帰宅し靴を脱いでいると玄関に母がやってきた。
「遅かったわねいおり」
母は感情がこもっていないかのような低いトーンでそう言った。
「はい。生徒会の仕事が長引いてしまって」
そう答えると、今度は呆れた様子で言った。
「たかが学生の仕事、そんな取るに足らないモノのために時間を裂く必要なんてあるの? まあいいわ。今日は話があるの、居間へ来なさい」
「話、ですか?」
言われた通り母の後ろに続き、居間についた私はカバンを置いた。母は私の向かいに座った。
「座りなさい」
ソファーに腰を掛けると母はすぐに口を開いた。
「いおり、人を助けるとはどういうことなのか何度言えばわかるの? 人助けは己の犠牲なしには成り立たないわ。他者のために己を犠牲にして何の利益になるというのかしら? 百歩譲って見返りがあったとしても関係ないわ。見返りに期待するなんて滑稽な生き方はやめなさい」
今に始まったことではない。驚く必要もない。母は昔からそういう人だった。全ての物事を合理的に捉え、損得で選び、感情論は持ち込まない。人生と言う選択肢を計算で勝ち進んできたような人だ。
しかし、謂れのない話をされて納得するほど私も出来てはいなかった。
「私は人助けなど……ましてや見返りなど求めておりません」
反論を待っていたと言わんばかりに母は友人の名前を出した。
「小鳥遊、と言ったかしら。さっき尋ねて来たわよ。聞けばあなたに勉強を教えてもらう約束をしたとか。あなたは私の大事な一人娘、同級生なんてくだらない存在に使う時間なんてないでしょ? そんな暇があったら次のテストに備えなさい」
「それは……っ」
納得出来なかった。言葉も出なかった。厳密に言えば言葉が見つからなかった。この人とは根本的に違うのだから。
溢れる感情を押し殺し張り詰める思いを落ち着かせて言葉にした。
「成績はお母様の条件を満たしています。例え友人と放課後を過ごそうと約束は守ります」
「口答えする気? 人っていうのはね、一生完璧には至らないものなのよ。成績を満たしたからってあなたの伸び代が無くなったわけじゃないでしょ? もっと上を目指しなさい。尋ねてきた子はちゃんと追い払っておいたから。うちの娘にはそんな暇ないからもう関わらないでってね」
「どうして……」
「それとあなた、担任に美術の道に興味があるって話したそうね。そんなお金にならない道はやめておきなさい。先生にはお母さんから断っておいたから。いーい? あなたには実力があるの。そんな誰にでも選べる道をわざわざ選択する理由なんてないの。話は以上よ。部屋へ戻りなさい」
何かが壊れる音がした。
部屋に戻った私は電気もつけずにベッドへ横たわった。
暗い部屋の中、心の中で自問自答する自分がいた。
──友達を作ることはそんなに悪いことなのか? 夢を持つのはそんなに悪いことなのか? 私は何のために生きている? 親のため?
子は親の装飾品なんかじゃない。生まれてから死ぬまで私の人生は決まっていた。友人も、夢も、私には手にすることが出来ない。そんな人生……いらない。
「……私は……私だって…………」
気がつけば涙が頬を伝っていた。そして私は……。
それから半年後。何気なく自宅で顔を合わせた私に母は唐突に言った。
「いおり、部活に入ったそうね」
「どこでそれを」
「親が子供を知るのは当然でしょ。悪いことは言わないわ、早く辞めなさい? 美術部に入ったぐらいじゃ就職にもほとんど影響がないわ」
いつもそうだった。ずっとそうだった。だけど私は以前の私じゃない。母の言いなりはもうやめた。この人生は、私のものなのだから。
「私に自分を照らし合わせるのはもうやめていただけますか。お母様は自分の過去を悔いているのでしょう。だから私に、自身が成し得なかった人生を歩ませようとしている」
その言葉に母は動揺を隠せないようだった。
「あなた……何の話」
「子が親を知るのも当然ですよ」
「いおり待ちなさい」
私はそのまま居間を出た。閉まりかかったドアから母の声が聞こえたが、私が振り返ることはもうない。
我が家はあの頃から何も変わってはいない。それでも私は変わった。私は私の人生を歩む。明日も部室にいけば二人がいる。失わせやしない、今度こそ。