第67話 兄さんは、マンボウと同じくらい強運。
『たぶん、兄さんは「もう止めろ!」って言ってると思う』
画面の中の弟は、とても静かに微笑んでいた。
『だけど、止められないよ。どんなに危ないと分かっていても、止めることは出来ない。俺は、ドラッグを、<ヘカテ>を憎んでいる。子供たちの命を、未来を奪った夜の女王。もし俺が殺されるなら、俺は彼女を地獄へ道連れにする』
「頼むよ……」
俺は哀願していた。
「やめられない止まらないはカッパえびせんだけでいいんだよ。だからもう止めてくれ。──俺を置いて、行かないでくれよ」
『俺は警察官として、ひとりの人間として、この仕事をやり遂げたいと思う。もう二度と、子供が犠牲になるのを見たくない。あんな思い、もうたくさんだ。ねえ、兄さん、覚えてる? 俺がみっともなく酔いつぶれた時のこと』
「……」
もちろん、覚えている。<ヘカテ>をキメて、廃ビルから地上にダイビングした少年。彼を助けられなかったと、自分を責め続けていた弟。
『あんな思い、もう絶対したくないんだ。そんなのは俺のエゴにすぎないかもしれない。でも、ここで俺が手を引けば、確実に犠牲者は増え続ける。それこそ、何十人、何百人と。ドラッグに手を出す方がもちろん悪い。けど、子供の寂しさや無知に付け込んで、売りつける大人はもっと悪い』
俺が何も言葉を発することが出来ないうちに、弟ははっきりと言った。
『裏から操る大人、言葉巧みに子供を騙す大人。俺はそいつらを許すつもりはない。絶対に』
もう、何を言っても──、いや、本人は既に死んでいるんだから、遅いも何もないんだけど──。無駄なんだな、と俺は思った。
もし今、この画面が何かのSF映画みたいに過去と現在を繋ぎ、殺される前の弟と直接話すことが可能になったとしても、俺がいくら言葉を尽くして説得したところで、弟は既に決めてしまったことを決して翻しはしないだろう。
お前、見かけによらず頑固だったもんな。俺と同じ顔だけどさ。
「大人って、辛いよな……」
俺は呟いた。
「子供たちへの責任、重大だ」
『夜の街の隅っこで膝を抱えてる子たちは、本当は誰かに助けを求めてるんだ。構うなって威嚇しながら、目で寂しいと訴える。俺はあの子たちを、本当には助けることは出来ないかもしれない。けど、だからといって見捨てたくは無いんだよ』
「馬鹿野郎……!」
俺は小さく呟いた。
「俺より頭いいくせに、お前は馬鹿だ、阿呆だ、スカポンタンだ!」
自分は身内──警察から見捨てられ、切り捨てられたくせに。
『さて、もうそろそろお別れだ』
弟の声に、俺は慌てて顔を上げた。
『話は尽きないけど、きりが無いしね。元気で、兄さん。俺の分まで長生きして。ののかや義姉さん、智春くんによろしく』
「おい……」
と、画面の中の弟は、急にくすくす笑い出した。
『兄さんて、マンボウって魚に似てるよね』
な、何だよ、マンボウって。
散々振り回された、あのマンボウ・ピアスとは関係ないよな?
『マンボウって、ほら、寸詰まりの平べったい魚だよ。子供の頃、水族館で見たことあるよね。あんな形してるから普通の魚みたいに泳げなくて、波の間に間にぼーっと浮かんでるんだけど、たまに海流に乗って寒い海に漂い出ることもあるんだって。それで、うっかり凍死することもあるらしいんだけど』
弟は楽しそうに続ける。
『マンボウって、実はものすごく運がいいんだよ』
「うっかり寒い海で凍死するって、そのどこが運がいいんだよ?」
水が冷たい時点で危険に気づけよ、と俺は思うが。どんくさい魚だな。
『だって、マンボウの雌は一度に三億個もの卵を産むのに、無事成体になれるのは、そのうちのほんの二、三匹なんだ。だから、大人のマンボウはものすごく運のいいやつってわけ』
「三億分のニとか三の確率か・・・?」
成体になれなかった残りの三億分の二億九十九万九十九千九十九百九十・・・ああ、ややこしい。そいつらの立場は一体。
『彼ら、生存本能は薄そうなのにね。なのに絶滅もせず、ずっと生き残ってるところにも強運を感じるな』
弟は、何やら感心したように頷いている。
いや、運だけでは生きていけないと思うぞ。きっとマンボウも何か努力してるはずだ……多分。
『兄さんもね、端から見てると危なっかしくてたまらないのに、どうしてか運がいいんだよ。義姉さんも言ってたけど、のんびり、うっかり、ぼんやりしてるくせに、不思議と危険の方が兄さんを避けていくんだ。本当に、海上で無防備にひなたぼっこしてるマンボウそっくりだよ』
そして弟は、俺の過去の「強運」ぶりの思い出語りをした。
例えば、高校生の時。俺がいつも通学に使っていたバスがトラックに追突され、怪我人が出た。だけど、その日俺はものすごく珍しいことに風邪を引いて高熱を出し、学校を休んでいて難を逃れた(弟は別の学校だったから、通学経路が違っていて本当に良かったとあの時は思った)。
例えば、駅のホームでケンカを始めた友人たちを止めようとしたら、友人のひとりの振り回した手に弾かれてバランスを崩し、もろに線路に転落したけれど、その時刻に限って電車が遅れたお陰ではねられることなく、落っこちた時のかすり傷だけで済んだとか(後で俺だけ駅員さんに怒られたのが理不尽だった)。
子供の頃、出前の寿司を家族で食べたら、父も母も弟も食あたりで大変なことになったのに、何故か俺だけピンピンしてたとか。
『兄さんは、三億分の一の生存率に匹敵するほどの強運の持ち主だ。俺はそう信じてる』
弟は、やさしい笑みを見せた。
『ねえ、兄さん。マンボウは、英語では太陽の魚って呼ばれてるのは知ってる?』
知ってる、と俺は頷いていた。
あの英名に何か意味があるのかと、一時はさんざん悩んだんだし。──そんなこと、画面の向こうの弟は知るはずもないけどさ。
『実はね、マンボウは月の魚ともいうんだよ』
特にフランスやトルコではそう呼ぶみたいだね、と弟は言う。
『英語の別名にも、moon fishがある。マンボウは太陽の魚であり、月の魚でもあるんだ。太陽と月の名を、同時に持つ生き物は他にはいない。そう考えると、マンボウってすごいと思わない? あんなに何も考えてなさそうなのに』
……弟よ、マンボウでなくても、何か「考えてる」魚なんていないと思うぞ。いたら怖いぞ。キラーフィッシュみたいじゃないか。
『何も考えてないから、運がいいんだと俺は思うんだ。自然体で、作為的なところが全く無いから、悪運なんか取り付く島も無いんじゃないかなって、そんなふうに思う』
だから、マンボウは元から何も考えてないってば。
──お前、マンボウのことと言いながら、実は俺のことを語ってるだろう。
『きっとマンボウは、太陽のことも月のことも、どちらのことも好きなんだろうな。月が昇って日が沈むのを、日が昇って月が沈むのを、ぷかぷか浮かびながらぼーっと眺めているんだろう』
うらやましいな。
弟はそう言って笑う。
『今もどこかの海にマンボウが浮かんでるんだろうなと思うと、何か癒される。そんな存在があるって思えるだけで、ホッと出来るんだ』
『だから』
弟はしっかりと俺を見つめた。
いや、そんなはずはない。ないけど、弟の黒い瞳が真っ直ぐ俺の眼を見ているように見える。
見詰め合う、鏡の向こうの俺。鏡のこちらにいるのは、弟か?
『だから兄さん、いつまでもそのままでいて欲しい。きっと、見る人によっては兄さんは月だし、太陽なんだ。どう呼ばれても気にしないマンボウみたいに、兄さんの本質は変わらない。だけど、周囲はそれで癒される。そこに在るだけで──』
鏡の向こう、俺の顔が微笑む。
『ほっとして、笑顔になれる』
静かに見つめられ、俺は何か急に恥ずかしくなった。頬が火照って、真っ赤になっているような気がする。俺、ほめられてる? ほめられてるのか?
なあ、褒めてるのか貶してるのか、どっちなんだ、弟よ。
……お前は皮肉を言うようなやつじゃない。それはよく知っている。だからこそ、そんな真正面からほめられると、何かそこらへんがむず痒くなって、走り回りたくなる。
恥ずかしいこと、言いやがって。
『後のことは、彼に託してある。<ヘカテ>組織については、彼に聞いてくれ……もっとも、彼が話してくれるかどうかまで保障しないけどね』
弟はニヤリと笑って見せたが、再び真顔になって続けた。
『話さないことは、きっと話せないことだと思うから、彼を責めないでやって欲しい。それが兄さんのためになると、彼が判断したんだろうから』
何でも知ればいいっていうものじゃないんだよ、と呟くように言う。
世の中には、知れば命と引き換えにしなければならない種類の情報がある。取り扱う技量を持たない人間にとって、それは毒にしかならないのだと。
『じゃあね、兄さん。俺、兄さんと双子の兄弟で良かったよ。俺に会いたくなったら鏡を見て。兄さんはこれからも時を重ねていく。そのうちに皺が目立つようになって、白髪も増えて、そうして完全に髪が白くなる頃には、きっと元気な老人になる。鏡に映るのは兄さんの姿であり、俺の姿でもあるんだ。忘れないで』
──弟はつまり、俺に長生きしろと、健康であれと言っているのだ。
天寿を全うしろ、と。
「あっ……!」
慈しみのこもった微笑みの残像だけを残し、画面の中の弟の姿が薄れて消えていく。
「待て、待ってくれ!」
弟の消えた画面はいつの間にかうす青い光に閉ざされ、そこでは銀色のマンボウが気持ち良さそうに泳いでいた。唖然と眺めていると、マンボウは大きな船が転進するようにゆったりと向きを変え、藍色の海の彼方に消えていった。
「──…!」
弟の名前を呼ぶ。と、次の瞬間、突然画面が真っ黒になった。俺には理解出来ない記号の列が、只事ではない速さで次から次へ流れて行く。
カチ。ジー。カチ。カチ。
そんな音がしたかと思うと、ついさっきまで弟の姿と声を再生していたパソコンが、完全に沈黙してしまった。




