第60話 車椅子で行く、マジカル・ミステリー・ツアー。
うんしょ、うんしょ、とソファに向かって這って行く。四つんばいで移動するにも、足の裏が使えないというのは非常に不便であると知った、夏の日。……別にこんなこと知りたくなかったけどさ。
今の俺の姿を傍から見たら、木から木へ移動中のナマケモノに見えるんじゃないだろうか、と軽く自己嫌悪。ようやくソファに辿り着き、ほっと息をつくと、目の前に見慣れないものが。
あれに見えるは車椅子。しかも、電動(だと思う)。い、いつの間に?
昨夜、俺と智晴がこの部屋に到着した直後、双子がドアをきっちりとロックしたはず……。だがしかし、この部屋自体、<風見鶏>が用意してくれたもの。彼が合鍵を持っていたとしても、何ら不思議は無い。
つまり、俺たち全員が寝静まった後、<風見鶏>がそっとこの車椅子を差し入れてくれたと考えるのが妥当、かな?
まあ、いいや。今日もまだ自力で歩けそうにないし、ありがたくこの車椅子を使わせてもらうことにしよう。もし、またいきなりここから移動しなければならなくなったとしても、車椅子があれば智晴におんぶされなくて済む。
俺はソファから滑り降りると、再度のそのそと這って行き、車椅子に座ってみた。おお、見かけどおり高級品なのか、座り心地がいい。ただ、操作の仕方が分からない。両輪を手で回せば手動でも動けるが、慣れないとなかなか難しい。
と、車椅子がいきなり動き出した。電動だからって何で勝手に動くんだ? 俺はまだ操作スイッチに触れてもいないぞ。
あまりの急な出来事に唖然としていると、ドアがひとりでに開き、車椅子は俺を乗せたまま勝手に部屋から出て行く。おいおい、どこへ行くんだよ? 俺をどこに連れて行くつもりだ?
いや、だから何で勝手に動き出すんだ。ホラーか? おい!
高層階の、人気のない廊下。質の良いカーペットは車椅子の車輪の回る音も吸収し、何も聞こえない。
な、なんか、こういうの見た覚えがある。
誰もいない冬場の無人ホテル、無音の廊下で三輪車を漕ぐ子供。閉まっているはずの客室のドアが開くと、バスルームにリビングデッドな女が……。
ぎゃー!
って、ホテルの廊下を歩く機会があるたび思い出す恐怖な映画。いつもは思い出してビビるだけで済むけど、今回は。
三輪車じゃないけど車椅子。しかも、見えない力に後ろから押されているかのようなこの状態。り、リモコンだか、プログラムだかで動いてるんだよな? 超常現象じゃないよな? 行った先で半分身体の腐ったゾンビ・レディが待ち受けているなんてこと、ないよな? な?
その時、俺は予想外の異常事態に魂が半分抜けていたに違いない。助けを呼ぶことも声を上げることも思いつかず、ただ、ひとりでに動く車椅子の上で身体を固くしていた。
一体どこまで連れて行かれるんだろう。もしかしたら、非常階段のてっぺんまで連れて行かれて、そこで放り出されてジ・エンドだったりするんだろうか。別に高所恐怖症じゃないけど、そんなんはイヤだ~!
心の中で悲鳴を上げたちょうどその瞬間、車椅子はひときわ豪華なドア、というか扉の前で止まった。なんと両開きだ。俺たちが泊まった部屋とは、明らかに格が違う。もしかして、一泊ウン十万の部屋とか?
そんなどうでもいいことを考えている間に、この<オートマティック拉致車椅子>から転がり落ちるなりして降りてしまえば良かったのに、恐怖のあまり思考停止状態の俺はそこまで気が回らなかった。
と、その両開きの扉がゆっくりと開いた。行きたくない、行きたくないのに車椅子は俺を乗せたまま部屋の中に入っていく。気分はホラー映画の登場人物。あるいは、ホラーな映画のカメラワーク。嫌だ、そっちには行きたくないというのに、カメラに連れて行かれる、あの感覚。
スティーブン・キング原作の映画『クージョ』。カメラワークがあまりにも怖かったので、最初の数分だけでギブアップした苦い思い出が……。
DVDなら途中で止めることは出来るけど、現実はそうはいかない。嫌だ、と声に出すことも出来ず、俺は部屋の中に連れ込まれてしまった。
あまりの事態に、俺のチキンなハートは台風とハリケーンとタイフーンに揉みくちゃにされ、アップダウンの激しい大波小波に翻弄される小船状態。今にも恐怖という名の大渦巻きに呑まれて、海底に引きずり込まれそうだ。
顔を引き攣らせ、今にも倒れそうな(座ってるけど)俺の耳に、入ってきたドアが閉まる音が不気味に響いた。これがホラーな映画なら、生理的嫌悪と不安を煽るBGMがどんどん高鳴る場面だ。そして現れ出づる恐怖の殺人鬼。あるいはゾンビ。あるいは悪魔崇拝者……。
俺、サバトの生贄?
そ、そんなこと無いよな。俺は独り乾いた笑いをもらした。思考がホラー系に傾くのは、この部屋に全く人気がないからだ。この際、<笑い仮面>こと高山父でもいい。誰か、誰か生きてる人間が出てきてくれ。
俺の願いも虚しく、静まり返った部屋にはやはり人の気配はなかった。
現状確認のために改めて周囲を見回すと、今いるのは丸い部屋で、ホールの役目を果たしているらしい。ひときわ目を惹くのは、どっしりした大きなテーブルに飾られた豪華なフラワーアレンジメントだ。白を基調とした涼しげな花はその殆どが百合のようで、むせ返るような芳香が漂ってくる。
テーブルの周囲に置かれた椅子も、壁際に置かれた長椅子も、全てが重厚な布張りで、さぞかし価値のあるものなのだろう。そういうものを見る目のない俺にでも、それは分かった。
呆然としていると、またもや車椅子が動き出した。おい、どこへ行くんだ。ここが目的地ではないのか?
うろたえていると、ホールを囲むドアのひとつが開いた。俺をここまで連行(?)してきた車椅子が、またもや俺をその中に導いていく。そこは寝室ではなく、どこかの会社の重役室のような雰囲気を持った部屋で、分厚いカーテンの下がった窓際に、きれいな飴色に磨き上げられた大きなデスクが備え付けられていた。
車椅子は、そのデスクの前で停止した。そこには、何故かぽつんとノートパソコンが置いてある。そのシルバーグレイの本体の横に、これまたシルバーグレイの四角い箱(?)があった。縦横幅ともだいたい文庫本サイズだが、これは一体何なんだろう。
静かだ。空調の音も聞こえない。車椅子はぴたりと止まって、この部屋の一部と化してしまったかのようだ。
俺は改めて目の前のノートパソコン+αを見つめた。それから、身体をひねって室内を見回してみる。が、誰もいない。そこにあるのは、ただ静寂のみ。み、耳鳴りがしそうだ。たまりかねて、声を上げてみる。
「誰かいませんか?」
しーん。
こだますら返ってこない。いや、部屋の中でこだまが返ってきたらイヤだが。
と、謎のノートパソコンのメインランプ(?)がぺこっと点灯した。な、何だ? 勝手に起動したのか? 俺、触ってないのに。不気味だ。
俺は今すぐ、這いずってでもこの部屋から脱出したくなった。が、なけなしの根性で思いとどまる。心を落ち着かせ、少しは冷静になって考えてみると、車椅子を使って俺をここまで連れて来たのは、まず間違いなく<風見鶏>だろう。何しろ、彼が軍艦マーチの着メロ付きおはようメールで俺を起こしたのは、ついさっきのことだ。
このパソコンで俺に何を知らせたいんだ、<風見鶏>? 言いたいことがあるなら、いつものように携帯にメールを寄越せばいいじゃないか。俺がパソコン・オンチだって知ってるくせに……。
しょうがない。どうやら危害を加えるつもりはなさそうだし、少しは付き合ってやることにするか。
俺は謎のノートパソコンの開閉部分を押した。二つ折りになっていたのが、スムーズに開く。すると、ぺん! と間抜けなが音がして、画面に細長い小窓が現れた。なになに? パスワードを入力してください?
何だよ、パスワードって。そんなの知らないぞ。って、ん? ヒント?
『あなたの一番大切なものは何ですか?』




