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第45話  ハイヒールは武器にもなります。

考え込む俺の背中を、芙蓉が軽く叩いて囁いてきた。


「気づいてないさ、大丈夫。仮にそうだとしても、手出しする時間はない。俺たちはすぐにこのホテルを出るんだから」


俺は頷くしかなかった。目だけ上げてちらりと葵を見ると、素早くも意味ありげにウィンクしてくる。……キザったらしいが、似合うじゃないか。ったく、この双子の悪魔め。


途中のフロアで何度か止まり、乗客を吐き出したり飲み込んだりしながら、エレベーターは一階に到着した。狭い箱から開放されて、俺はほっと息をつく。<笑い仮面>から逃げられたという安堵の気持ちもあったかもしれない。


「さ、行こうか?」


芙蓉はまた蜂蜜のように甘い笑みを見せると、俺の腰に手を添えながらホテルの正面玄関を目指す。その華やかな容姿と完璧なエスコートぶりに、ロビーに居合わせた女性たちの溜息が聞こえるのは、気のせいではないだろう。


葵の方は既にエントランスに向かっている。先にタクシーをつかまえておくつもりなんだろう。


俺は高いヒールによろよろしながら、それでも夏樹の手をしっかりと握っていた。夏樹はなんだかとてもうれしそうで、何度も俺の顔を見上げて無邪気な笑みを向けてくる。


……ママ、と呼べる存在がうれしいのだろうか。そうなんだろうな。

でもな、夏樹。俺はパパなんだよ、別の子の。いいけどさ、今は。


複雑な思いで、俺はひっそりと溜息をついた。


広いロビーを通り抜け、正面玄関の大きなガラス製自動ドアを通り抜けた俺は、思わずほっと息をついた。緊張で身体がガチガチに固まっている。自分の姿が他人にどんなふうに見えているかなんて、すでに気にする余裕もなくなっていた。


くすっと笑う気配がして、芙蓉が悪戯っぽく囁く。


「ツキ、ママは恥ずかしがり屋だね。せっかく綺麗にしてあげたのに」


いや、して欲しくなかったから! ……反論したかったが、この格好のまま、常に人の出入りのあるエントランス付近で大声を出す勇気はなかった。


どんなにキレイなニューハーフのおねにいさまも、声でバレるって聞くからな……。それに、俺、ニューハーフじゃないし!


「うん、ママ、きれい!」


夏樹がうれしそうに言うので、俺は力が抜けた。ああ、この姿、ののかにだけは見られたくない……。


ごめんな、ののか。ママなパパになってしまって。でも、今だけだから。ずっとこのままじゃないからね!


そう、心の中でだけ叫ぶ。世界の中心で叫ぶのは、何も愛だけじゃないのだ。と、目の前にタクシーが止まり、ドアが開いた。助手席には葵が乗っている。


「さあ、行こうか? ツキ、先に乗りなさい」

「はい、パパ」


夏樹は素直に後部座席に乗り込んだ。俺もその後に続く。シートに尻を落ち着けた瞬間、足がどんなに疲れていたか分かった。低く呻きつつ、ハイヒールを脱ぐ。


芙蓉も俺の隣に乗り込んできて、ドアが閉まったと思ったその瞬間。


いきなり夏樹側のドアが開いた。突然のことに驚いて顔を上げた時には、夏樹の小さな身体がシートから消えていた。


「夏樹!」


芙蓉と葵が同時に叫ぶ。突然のことに俺は声を飲み込み、慌てて夏樹の消えた側のドアに手を掛けようとした。が、届く前に、開いた時と同じように閉まりかける。


「なっ、ドアが開かない!」


また二人が同時に叫んでいる。開閉スイッチをガチャガチャいわせる音を背後に聞きながら、俺は閉まりきる瞬間のドアを裸足の踵で蹴り上げた。その勢いで車から転がり出る。


「なつき……! 夏樹!」


俺は叫んだ。その場から走り去る男の肩ごしに、夏樹と俺の目が合う。


「ママ、ママっ!」


怯えた瞳に、涙が盛り上がるのが見えた。夏樹を抱き上げたまま遠ざかる背の高い男を、俺は猛然と追いかける。


くそっ、あの男、<笑い仮面>の手の者か? それとも、<ヘカテ>の組織にかかわる人間か? あんないたいけな子供をさらうなんて、卑怯な。 


夏樹の泣き顔が、ののかの顔とだぶる。俺は怒りに歯を噛み締めた。子供に害をなす者は、どんな理由があろうと絶対に許せない。俺は舗装された道を裸足で走った。ふんわりとしたスカートの裾がまつわりついて走りにくいが、かまってなどいられない。


あと少しというところで男に手が届きそうになった時、いきなり横合いから別の男が飛び出してきた。俺の前に立ちふさがる。こいつも仲間か?


そう考えた瞬間、俺の右手が目にも留まらぬ速さで動いていた。

ガツッという美しくない音とともに、そいつは植え込みに倒れこむ。


俺は何故か手に握り締めたままだったハイヒールで、後から飛び出した男を殴り倒したのだ。


そうか、ハイヒールは武器にもなるのか、などとバカなことを考えている暇はなかった。夏樹を抱えた男は、フットボール選手のように器用に通行人を避けながら遥か先を走っている。


もう格好がどうのこうの言っていられない。俺はなりふりかまわず走り続けた。あの男、子供をひとり抱えているというのになんて機敏に動けるんだ。まるで人波を縫うサーファーのようだ。


思い思いの方を向いて歩いている人々は、いきなり走ってくる男に驚き、一様に道を譲る。そしてまた歩き始めたところに俺が突っ込んでくるものだから、皆が何事かと振り返った。


「何? あれ?」

「なんかの撮影じゃないの?」

「あんな大柄な女優、いたっけ?」

「でも、けっこう美人じゃない?」


そんな言葉が断片的に聞こえてくるが、もちろんかかずらっている暇はない。俺の恥なんかどうでもいいんだ。夏樹を取り戻さなくては!


夏樹の着ているさくら色のワンピースが、人混みのあいだからちらちら見える。俺はそれを見失わないように必死で追いかけた。かわいそうに夏樹、怖いだろう。俺が助けてやるからな。きっと芙蓉と葵も後から追いかけてきているに違いない。


今まで大通りを走っていた男が、横道に入った。今時珍しいボンカレーの看板を目印に、俺もその路地に飛び込む。


その細い道の向こうに、また大きな道が見える。ここをバイパスしてそっちに逃げる魂胆か。俺は猛然とダッシュした。と、何故か男は夏樹を抱えたまま唐突に立ち止まった。男の肩越しに、夏樹が俺を呼ぶ。


「ママっ!」


俺に必死で手を差しのべるその顔は、涙でぐしゃぐしゃだ。俺はさらに夏樹を拉致した男への怒りを燃やした。


「その子を返せ!」


腹から出した声で一喝し、俺は逃げるでもなくそのまま突っ立っている男の手から夏樹の身体を奪い取った。とたんに、小さな手が俺の首に縋りついて来る。


「ママ、ママ!」


夏樹は俺にしがみついて泣きじゃくった。俺は安心させるように、努めてやさしい声を出した。


「もう大丈夫だよ。後からパパも叔父さんも来るからね」


震える小さな背中をあやすようにぽんぽんと叩きながら、俺は未だ向こうの通りを向いたままの男に向かって言った。


「お前、どういうつもりだ!」


と、男はとぼけたような声音で答えた。


「あなた、いつの間にママになったんです? パパじゃなかったんですか?」


何? 何言ってるんだ、こいつ?

良く見ると、どことなく見覚えのあるシルエット。


ん?


追いかけている時はとにかく余裕がなくて、「夏樹をさらっていった悪漢!」とだけ思い定めて無我夢中でその背中を追いかけていたのだが。


「もしかして、お前……智晴……?」


ゆっくりとこちらを向いた智晴は、ニヒルな笑みを浮かべていた。


「もしかしなくてもそうです。あなたの元義弟ですよ。すぐ分かると思ってたのに、全然気づいてくれないからがっかりしました。──ところで、あなたって美人だったんですね?」


面白そうに智晴は言う。


「あなたのことは義兄だと思ってたんですが、実は義姉だったとか?」


「そ、そんなわけないだろ!」


夏樹を抱きしめたまま、俺は叫んだ。これにはちゃんと理由があるんだよっ! それに、好きでこんな格好してるんじゃないわい!


「だいたい、何だよ、お前。なんで夏樹をさらって行ったりしたんだ? どういうつもり……って。もしかして……」


恐ろしい可能性を思いついて、俺は身体中がピキンと硬直するのを感じた。


もしや、智晴は<笑い仮面>の手の者? それとも、<ヘカテ>の組織に属していたのか? ……デイトレーダーだかなんだか、胡散臭い自由業をやっているとは思っていたが、もしや、こんなダークサイドに染まっった人間だったのか──?


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□■□ 逃げる太陽シリーズ □■□
あっちの<俺>もこっちの<俺>も、<俺>はどこでも変わらない。
『俺は名無しの何でも屋! ~日常のちょっとしたご不便、お困りごとを地味に解決します~(旧題:何でも屋の<俺>の四季)』<俺>の平和な日常。長短いろいろ。
『古美術雑貨取扱店 慈恩堂奇譚』古道具屋、慈恩堂がらみの、ちょっと不思議なお話。
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