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第35話  ニガヨモギの香り

まさか。いくら何でも。


俺は胸に浮かんだ疑惑に蓋をした。警察内部に俺の弟を殺した犯人がいるなんて、そんなことは。


「それでも偽ヘカテはまだ秘密めいた存在であり続けたわ。なぜって、出回った量自体が少なかったらしいから」


芙蓉は言う。


「どうやら、製造された偽ヘカテのうち、大部分が別の国に流れていたみたいなの。日本で流通するドラッグのほとんどは外国から持ち込まれたものだけれど、偽ヘカテだけは、なぜか日本から国外へ持ち出された……」


妙な話だ。俺は考え込んだ。


どんなものでも密輸という行為はリスクが高い。「入り鉄砲に出女」ではないが、普通に考えれば国内でさばいてしまった方が簡単だろうに、なぜそんな危ない橋を渡るんだろう。


「日本の企業が、輸入した資源を加工・製品化して外国に輸出するように、密輸されたドラッグを偽ヘカテに加工して、今度は逆方向に密輸出したとか? にしても……どうしてそんなに手のかかることをしたんだろう」


偽ヘカテは、それほどに価値のあるものなのか? ヘカテ・オリジナルの足元にも及ばないという劣化コピーなのに?


「その理由までは知らないわ」


芙蓉は首を振る。どこか途方に暮れたようにも見えた。


ああ、彼女(いや、彼か?)も疲れているんだなぁ、と唐突に思った。夏子さんの残した店を守るために、どれだけ戦ってきたのだろう。


「偽ヘカテはコピーのコピーで、本当に劣化コピーにしか過ぎないんだけど、ただひとつの成分だけはヘカテ・オリジナルと同じものが配合されているらしいの。……もしかしたら、それが鍵になるのかもしれない」


「その成分っていうのは?」


「ニガヨモギ。香味成分から抽出したツヨンという物質が、<ヘカテ>と名のつくドラッグには必ず入っているらしいのよ」


ニガヨモギか。俺は眉をひそめた。嫌な気分だ。


『天からニガヨモギの星が落ちてきて、水が飲めなくなり・・・』、というのはノストラダムスによる世界終末の予言だ。1999年。世界は別に滅びはしなかったが、代わりに、というべきか、この地球上で最大級に恐ろしいことが起こった。


チェルノブイリ原子力発電所の事故。周囲何百キロ、何千キロにおいて人が住めなくなった。


チェルノブイリとは、ニガヨモギという意味だ。

不吉だ。俺はぶるりと背中を震わせた。


「警察の上層部に握りつぶされたのは、偽ヘカテというドラッグの存在だけなんだろうか……」


考えながら、俺は続けた。


「えっと、そのまま放っておいたら、薬物常用者が異常死する頻度が高くなるよな。そうするとその原因が偽ヘカテだって、世間に知られやすくなるんじゃないかと思ってさ」


「そうね……」


芙蓉はゆっくりと頷きながら、すい、と首をかしげた。その風情がなんとも蠱惑的で、つい見とれてしまう。──中身が男だってことを忘れてしまいそうになるほど美しい、幻の女。


「あなたの言うとおりかもしれないわ。<幻のドラッグ>としてのネームバリューで、かなりの需要が見込めるはずなのに、ほんの少量しか出回らなかった……それなりの量を合成していたようなのにね……」


芙蓉は考え込むように目を伏せていたが、やがてニ、三度大きく頷いた。


「そうね、偽ヘカテの作用というか、副作用自体を隠したかったのかもしれないわ。でも、なぜなのかしら」


うーん。これはあれかな。ある意味商売の基本? 考えるのもおぞましいが……。


「俺は思ったんだけど……、<ユーザー>がすぐに死んだら、儲からないからかもしれない、ね」


俺の言葉に、芙蓉は顔を上げた。


「致死率の高いドラッグなんて、商売にならないじゃないか。テーマパークだってリピーターがつかないと結局潰れてしまうだろ? ドラッグもそれと同じで、いかに<ユーザー>をリピートさせるかが重要なんじゃないか?」


だから、偽ヘカテは幻なんだ。メジャーになれないドラッグ。


薬物常用者を生かさず殺さず、薬漬けにするための戦略は、考えるだけで吐き気がする。ああ、嫌だ。


「リピーターを期待できないドラッグ、ね……。だから偽ヘカテは幻でいるしかないというわけね。でも、だとしたら、国外に密輸出する理由な何なの? 外国でだってリピーターを期待できないはずでしょう?」


途方に暮れたように芙蓉が俺を見る。

俺にだって分からないよ。


弟はどこまで調べていたんだろう。偽ヘカテが密輸出される理由まで、掴んでいたんだろうか。


「なあ、芙蓉くん、どう思う? 弟は……あいつはどこまで調べてたんだろう。密輸出先まで特定してたのかな?」


芙蓉は無言で首を振った。そうだよな。弟が殺された時は、芙蓉だってまだ<ヘカテ>のことなんて、名前を聞いたことがあるかどうかという程度だったもんな。


「でも、……ああいう結果になったくらいだから、彼はかなり核心に近いところまで迫っていたんじゃないかしら。逆説的だけど……」


「そうか。そうだな……」


キツかっただろうな、あいつ。それなのに、弱音を吐いたのはあの時だけ。弟が気に掛けていた薬物依存症の子供が、まだたった十四で死んだ、あの夜だけだ。


その子は、ドラッグで錯乱したために廃ビルの屋上から飛び降りたということだが、もしかしたら偽ヘカテに脳をやられたのかもしれない。


真実はもう分からないけれど。


「あなたは、彼が亡くなった夜、彼の部屋が何者かによって荒らされたことを……」


え? 荒らされたって。俺は目を見開いた。視線の先の芙蓉は、俺が何も知らないことを悟ったらしい。


「やっぱり知らなかったのね。独身寮の彼の部屋が何者かに荒らされたというか、家捜しされた痕跡があったらしいのよ。もちろん、誰がやったのかわからないわ」


「なんでそんなこと、……あ!」


頭の中で、何かが小さく爆発したような気がした。家捜しの犯人は、まさに今俺と芙蓉が話していたことを確認したかったんじゃないのか? 弟が、偽ヘカテについてどこまで掴んでいたのかを。


「そう、今あなたが考えついたように、彼の捜査がどこまで進んでいたのか知りたかったんでしょうね」


俺の顔色を見て、芙蓉は言った。


「……君はなぜ、兄の俺すら知らされていないことを知ってるんだ?」


「それは……ごめんなさい、言えないわ。高山のウラについて突っ込んで調べていくまで、あたしも知らなかったのよ。……つい最近までね」


芙蓉は真っ直ぐ俺を見、言葉を続けた。


「それを知ったのは、あなたをあたしたちの悪趣味につきあわせようとした、まさにその日のことだったの。一年で一番影が短い、あの夏至の日のことだったのよ」


太陽が一年で一番高い位置にあるから、一年で一番日が長くて、一年で一番影が短い。


──今年の夏至は、弟が死んだ日の次に嫌いな日になりそうだ。


俺がそんなことを考えて密かに溜息をついていると、芙蓉がもうひとつ爆弾を落とした。


「だから、あなたの身が危ないの。兄であるあなたが、彼から何かの情報を預かっているんじゃないかって、疑われているのよ」


俺の耳のすぐそばで、波動砲が発射されたような、そんな衝撃が……。


「お、俺の身が危ないって、具体的にどんなふうに……」


俺はついどもってしまった。


「そうね、たとえば、拉致換金(・・)されるとか」


「……なあ、そのカンキン、漢字が違わなくないか? ──意味は分からなくもないけど」


略取誘拐なら、身代金を要求するから<換金>でいいのかもしれないけど……。


「あら、そうだったかしら? だから、拉致監禁よ」


<監禁>はもっとイヤだ……。


「拉致されて監禁されて、弟さんから預かったものを渡せ、って脅されて、って感じじゃないかしら」


「芙蓉くん、そんなに軽く……」


言わないでくれ。俺は涙目になりそうだった。だいたい、弟に預かったものなんか無いし。


「でも、そうならなかったでしょう?」


「え?」


俺はたぶん、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていると思う。


「弟さんが亡くなって何年? その間、あなたは一度もそんな危ない目に遭ったことがない。そうでしょう?」


「……無い」


あのビルに引っ越したばかりの頃、ベッドからコンクリート打ちっぱなしの床に落っこちて痛い目にあったとか、不明ペット探しで猫に引っかかれたとか、階段から足を踏み外したとか、そういう危ない目には遭ってるけど、誰か他人に傷つけられたことはない。確かに。


「<サンフィッシュ>であたしと会ったことを、あなたは不思議に思っているでしょう?」


「うん。謎の女だと思ってた」


「峰不ニ子じゃないんだから」


芙蓉はちょっと笑って言った。


「実際、謎でもなんでもないのよ。あなたの身が危ないんだって分かってから、あたしと芙蓉とであなたの身辺を見守っていたんだもの」


だから、あなたが高山のところに行った時はどれだけ心配したか……と芙蓉は苦笑した。


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□■□ 逃げる太陽シリーズ □■□
あっちの<俺>もこっちの<俺>も、<俺>はどこでも変わらない。
『俺は名無しの何でも屋! ~日常のちょっとしたご不便、お困りごとを地味に解決します~(旧題:何でも屋の<俺>の四季)』<俺>の平和な日常。長短いろいろ。
『古美術雑貨取扱店 慈恩堂奇譚』古道具屋、慈恩堂がらみの、ちょっと不思議なお話。
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