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第34話  ヘロイン、コカイン、マリファナ、LSD。

「悲惨な末路といっても、殺されたわけじゃないのよ」


芙蓉は言ったが、ちょっと考えるように頬に手を添えた。……ううん、しぐさまで女らしい。完璧だ。


生まれつきの女より、オカマの方がずっとずっと女らしいのよっ! と、知り合いのオトコらしい顔のオカマが力説していたが、そうかもしれない。


「でも、そうね。ある意味殺されたといえるかもしれないわ」


「それはどういうことなんだ?」


本人にとっては天国だったかもしれないけれど、と芙蓉は呟き、ふと頭上に目をやった。つられて俺も見上げて気づく。天井の装飾は月の満ち欠けがモチーフになっている。真ん中の、銀で縁取られた黒い円。新月──ニュームーンだ。


夜の女王。ヘカテ……。

崇める者に不幸をもたらす、彼女は残酷な女神。


芙蓉は黙ってしばらく天井の新月を眺めていたが、やがて口を開いた。


「極上のヘロイン、コカイン、素敵なマリファナに最高級のLSD、質の良いエクスタシー。これらを与えられたのよ。定期的に、溺れ続けるには十分な量を」


さすがにPCPは与えられなかったみたいだけど、と芙蓉は続ける。俗称エンジェルダストというこの薬物を摂取すると、痛覚が麻痺するせいか自らに対して暴力的になることが多いから、というのがその理由らしい。


「つまり、本人が異様な暴れ方をして、それで注目されることになると困る、ということだったらしいわ」


俺は胸が悪くなった。そいつが薬漬けになるように仕向けて、自滅させたということか。薬物に手を出すというその段階で、きっかけさえあればそうなる可能性が高いのだから、自業自得とはいえる。


それでも、気分が悪い。


「……趣味の悪い連中だね。その会員制クラブの人間ていうのは」


「そうかもね。直接手を下すことなく、ドラッグにその人を殺させたんだから。でも、その人だって生きるチャンスはあったのよ。それを自分で放棄して、与えられたドラッグに溺れた……」


ドラッグをやると、人間が変わる、人格が崩壊する、という。そのとおりだ。善悪の判断も、生存本能も、全てが奪われてしまったんだろう。


後に、何が残る?

生きる屍から本物の屍に。笑えない冗談だ。


「ヘカテは与えられなかったのか?」


「そうらしいわ。あれはそのクラブの中だけに存在するドラッグで、外の世界にあってはならないものだから」


「ヘカテからアシがついたら困る、ということか……」


俺は呟いた。冷酷な女神は、彼女に溺れた者の最期にすら、その慈悲を施すことはないということなのか。


どこのどいつなのか、男か女かも知らないが。馬鹿だな、お前。心も身体も魂も、何もかもをドラッグに明け渡して。そして全てを失い、得るものは何も無いというのに。


辛いこと、苦しいこと、悔しいことと同じくらい、楽しいことも面白いことも嬉しいこともいっぱいある。生きていれば。


それが分からないからドラッグに走るんだろうが、何だかやりきれない。ただの愚か者として切り捨てることが出来ない俺は、やはり甘いのだろうか。


魔に魅惑される。そんな瞬間は誰にでもあるのかもしれない。たとえば、十九世紀フランスで、芸術家たちに愛飲されたという禁断の酒、アブサン。成分中のニガヨモギに幻覚作用があったというが、彼らはそれに惹かれ、自ら惑わされることを選んだようにも思える。


詩人のヴェルレーヌや画家のロートレックは、アブサン中毒で身を滅ぼしたという──。元義弟の智晴がそんな話を以前していた。今はその幻覚成分を微量に抑えたものが製造されているらしいから、飲んでみますか? と誘われたが、「幻覚成分」という言葉に恐れをなして、俺はブルブル首を振ったものだ。


アブサンは、水を入れると緑色から乳白色に色を変えるという。いかにもな怪しさに悪魔を連想した俺は、通俗的だろうか。


「そんなこんなで、ヘカテ・オリジナルはある場所にしか存在しない幻のドラッグになったわけなの。でもね、幻の、とか言われるとよけい欲しがる人間が出てくるのよねぇ」


たしかに。限定品とか希少品とか言われると、却って気になるのが人情だ。


だが、気にはなるが、まあいいや、で済ませるのも人情である。人間、自分の身の丈に合わないものは欲しがらないにかぎる。それが平穏な生活、つまりは幸せへの一番の近道なんだ。昔の人はそれをよく知っていた。


「幻になったヘカテに希少価値が出たってことなんだな? で、<カクテルバー>とやらのドラッグおたくな<シェイカー>が、類似品を作った、と」


俺の推測に、芙蓉は頷いた。


「ええ。<シェイカー>の腕によって品質にバラつきはあるみたいだけれど。それでも職人のプライドで、全く違うものをヘカテだと言って提供することはなかったみたい」


ドラッグおたくのプライド……そのプライド、もう少しマトモな道で発揮して欲しいと思うよ、俺は。何がシェイカーだ。マドラー一本でも作れるカクテルはいっぱいあるっちゅーの。


「でも、そのうち<シェイカー>ほどの腕も知識も無いのに、日本に持ち込まれたいくつかのドラッグを原料にして、粗悪品を作る者が出てきたの。粗悪品だけあって安く作れるものだから、売値も当然安くなる。それでも、あの幻の<ヘカテ>だというだけで、他のドラッグより高い値がつけられる。タチが悪いわ」


「オリジナルとコピーと、コピーのコピーか……」


真正ブランドと、それには及ばないが良く出来たコピーがあって、さらに劣化したコピーが出てきたと。


「だけど、名前だけでそれを買う方も買う方だよな。偽ブランドぶら下げて悦に入ってるバカと同じか」


「偽ブランドを本物と思って買っても、痛むのは懐だけだけれど、偽ヘカテは身体を痛めてしまうからタチが悪いのよ。それだって自業自得だけど──」


ふ、と息をつきながら、淡々と芙蓉は続ける。


「不純物の多い粗悪品(ドラッグ)は、偽ヘカテでなくても身体に悪いわ。予想出来ないトビ方をするらしいの。それが楽しみだっていうマニアもいるけどね。でも偽ヘカテの怖いのは、一気に脳を破壊してしまう、というところなのよ」


昨日まではまだ薬物依存から抜け出せる可能性のあった者が、翌日には廃人になっている。そういう人間が何人もいたという。


俺の弟がヘカテを追うようになったのは、この頃だと芙蓉は言った。


「<シェイカー>のこだわりで少量のコピーだけが作られていたあいだは、<ヘカテ>はまだ幻だった。その<カクテルバー>の上客だけに供されるもので、市場にはほとんど流通していなかった。でも」


芙蓉は美しい眉をひそめた。


「コピーのさらに劣化コピーが出回り始めてから、ドラッグ常用者の異常死が突然増えたの。ほとんどが薬物の過剰摂取による死亡事故として処理されていたけれど、真相はそうじゃない」


「当時、そのことに気づいていた人間はいなかったのか?」


芙蓉は首を振る。


「ほとんどいなかったみたい。同じ頃、新しく入ってきた別のドラッグがブレイクしていて、そっちが原因だと思われていたようよ。それに比べたら偽ヘカテの流通量はまだまだ少なかったしね。でも、あなたの弟さんは気づいてしまった」


「弟が……」


ポツリと俺は呟いた。芙蓉は痛ましそうに俺を見た。


「若い子たちがドラッグの魔の手に落ちないよう、夜な夜な繁華街を見回っていたのよ。キャリア組なのにね。彼の熱意が通じたのか、チンピラみたいな子でも弟さんに対してだけはわりと素直だったらしいわ。だから偽ヘカテの情報も早い段階で手に入れていて、彼だけが急増した薬物常用者の異常死と、それとを関連づけることができたのよ」


「あいつは……同僚や上司に相談しなかったんだろうか……」


「何度も訴えたけれど、相手にされなかったみたい。これもずっと後になってから知ったことだけど、どこか上の方で揉み消されていたらしいわ」


「偽ヘカテに関わる何者かと警察の上層部が、癒着していたってことなんだな」


弟はヤクザの抗争に巻き込まれて命を落としたと説明されたが、もしかして本当は……。


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□■□ 逃げる太陽シリーズ □■□
あっちの<俺>もこっちの<俺>も、<俺>はどこでも変わらない。
『俺は名無しの何でも屋! ~日常のちょっとしたご不便、お困りごとを地味に解決します~(旧題:何でも屋の<俺>の四季)』<俺>の平和な日常。長短いろいろ。
『古美術雑貨取扱店 慈恩堂奇譚』古道具屋、慈恩堂がらみの、ちょっと不思議なお話。
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