2016年7月31日の<俺> アヴェ・ヴェルム・コルプス
明日にも『俺は名無しの何でも屋!』にまた一話増える予定なので、先日こちらに加えそこなった話の代わりに、この話を向こうから移そうと思います。
「ある日の<俺> 2016年7月31日。アヴェ・ヴェルム・コルプス」と全く同じ話なので、既読の方はスルーしてください。
ざぁぁー ざぁぁぁー
潮騒が聞こえる。あれ、ここって海の近くだったっけ?
そう思って、目が覚めた。もちろんここは海じゃない。ただの市民ホールだ。ただの、というわりには豪勢だとは思うけど。
今、ここの一番大きなホールでアマチュア合唱団による定期演奏会が開かれている。演目は「フォーレのレクイエム」。他にもいくつかの曲が演奏されるが、一番の目玉はフォーレだ。……っていっても、俺今まで聴いたこと無かったけどさ。クラシックとか詳しくないし。聴いてみたら、あ、これどっかで聴いたことあるかも? な程度。
俺が待機しているのは客席じゃあない。舞台裏のもっと裏、演者控え室から舞台に続く狭い通路にぽつんと置いてある長椅子。ここで今日の依頼人を待っている。
「やあ、何でも屋さん。待たせたね」
舞台の方からゆっくりと背の高い老人が姿を現した。依頼人の土井さんだ。
「……アンコール、いいんですか?」
舞台から一人抜けてきた土井さんは、膝を折りそうになるのを何とか堪えているようだ。俺は黙って長椅子の脇に置いていた車椅子を押し、ようやっとそこに立っている状態の土井さんを迎えに行く。
「いいんだ」
俺の手を借りて車椅子に乗りながら、合唱生活最後の舞台、最後の演目まで歌えたからもういいのだと土井さんは言った。
前後左右隙間無く立つことになる合唱の壇では、一人でも倒れたら周囲を巻き込んで非常に危険なので、歌ってる途中で具合が悪くなった場合、無理せずその場に座ることになっているのだという。それを踏まえ、今日の本番は元のステージオーダーを変更し、最前列のゼロ段目に立たせてもらうことにしたと土井さんは言っていた。
「どうしても調子が悪ければ、曲の切れ目で抜けさせてもらう、とは団長にも両隣にも言ってあった。だから、いいんだ……」
舞台のほうからは、まだ潮騒のようなざわめきが聞こえてくる。指揮者やソリストへの花束贈呈、合唱団員や楽団員への賞賛などで拍手が途絶えないんだろう。
「……海のようだね」
ストッパーを外して車椅子を押そうとした時、ぽつりと土井さんは言った。
「もう少し、聴いていていいかい?」
俺は頷いて、しばしその場に佇んでいた。
寄せては返す波のような、遠い拍手と喝采。
「定期演奏会、大成功のようですね」
「ああ……」
僅かな余韻を残し、ふとそれが消えた。一瞬の空白の後、かすかに聞こえてきたやさしい旋律。
「……アンコールは、『アヴェ・ヴェルム・コルプス』だ」
土井さんは軽く目を閉じた。
「大学に入ってすぐ、新入生に向けた文化部部活紹介の舞台で私は初めてこの歌を聴いた。美しいメロディとハーモニー……それに魅せられて自分でも合唱をやりたいと思ったんだ。あれから五十年。いい合唱生活だったよ。──行こうか、何でも屋さん」
俺はこれから土井さんを隣県のターミナルケア専門の医療施設まで送って行く。荷物はもう梱包して送ってある。予約してあった介護タクシーもそろそろこのホールに着く頃だろう。
「団の皆さんに、本当に何も言わなくていいんですか?」
訊ねると、軽く息を漏らして土井さんは笑った。
「せっかく最後まで見栄を張ってたのに、あんまり弱った姿を見られたくないよ。なに、後で団長に葉書でも出しておくさ。それでいいだろう」
そう言って唇を閉じた土井さんだが、ふ、と何か呟いた。
──Esto nobis praegustatum in mortis examine
「え? 今の、何語ですか?」
英語には聞こえなかった。
「ラテン語だよ。モーツァルトの『アヴェ・ヴェルム・コルプス』の歌詞だ。さっきのアンコールの」
それきり黙った土井さんに、俺はもう何も聞かなかった。
何でも屋の俺は時に、こんなふうにひっそりとこの街を去る人のお手伝いをすることもある。多くは聞かない。ただ、去り行く人のこれからに幸いと平穏あれと祈るのみ。
Esto nobis praegustatum in mortis examine
我らの臨終の試練をあらかじめ知らせ給え。
モーツァルトの『アヴェ・ヴェルム・コルプス』より。
「Ave verum corpus」の訳はウィキペディアより引用させていただきました。
自分メモ。
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