時じくの香の木の実 2016年12月21日 第一話
外に出て、驚いた。
雲の真っ只中にいるみたいだ。
今日は冬至、一年で一番日が短い。その一日の始まりを、霧が覆い隠している。未だ空は暗く、ところどころ街灯が光の輪を投げかけているが、それは曇の日の月のように曖昧で、視界は危うい。
通りかかる車のヘッドライトが、気流にうねる霧に滲む。二つ目の怪物が迫ってくるようで、何だか恐ろしい気がする。低く唸るようなエンジン音を残し、はためく白の帳に消えて行く赤いテールランプは、まるで鬼火だ。
──車が過ぎる間止めていた息を吐くと、霧が緩く渦を巻く。吸い込む息にも混じり込み、肺を重く湿らせる。軽く咳き込みかけ、知らず、俺は立ち止まっていた。
どこから来て、どこへ行くんだろう。
つい、そんなことを考える。このまま一歩でも踏み出せば、異なる世界に迷い込んでしまいそうで、次の一歩を踏み出すのが怖いと、そんなことを思ってしまった。
この白い霧の中では全てが夢か幻のようで、思考が麻痺しかけてくる。あいまいな視界の中で、常世と現世が入り混じり、今にもそこから何かが──。
そこまで考えた時、どこか近くで、ドン、という車が何かにぶつかるような音が聞こえた。
ハッとして、俺はそちらに向かって歩き出す。走ろうとしたが、霧の帳が邪魔をするので無理だった。事故だろうか。こんなに視界が悪いんだから、ドライバーがハンドル操作を誤っても不思議じゃない。怪我人は……先に警察を呼んだほうがいいだろうか。いや、まず確認しないと……。
白くなる空と、白い霧。光の輪郭を保つ街灯。すべてが曖昧な世界。焦る俺の目の前に人影が現れたのは、出し抜けだった。
ゆらり、と動いたそれは、まるで話に聞くブロッケンの怪物みたいで、さっきまでの恐怖の欠片がまだ心の隅に残っている俺には、とても大きく見えた。
この影の持ち主は、果たして人なのか、それとも──。
ふわり、と霧が動く。
「!」
俺は息を呑んだ。
現れた人は、全身がぐっしょりと濡れていた。髪がとても長く、ぽたりぽたりと落ちる水滴がそれをより異様に見せている。ほっそりとした、男とも女ともつかない身に着けた白い着物はまるで経帷子のようで、細い手足を縛めるかのようにきつく身体に張り付いている。
こんなになるまで、どれほどの長い時間この湿った霧の中を歩いてきたのか──。そんなふうに思ってしまうぐらいその存在は非現実的で、此処でもなく、其処でもない、何処でもない世界から現れたように感じられた。
根の国底の国、黄泉平坂を越えて……。
「あ……」
彼、か、彼女が微かな声を上げて、ようやく俺は我に返った。
「だ、大丈夫ですか? どうしてこんなに濡れて……いや、そんなことはどうでもいい、さっき車がぶつかるような音がしたけど、その車に乗ってたんですか?」
着物のどこも汚れてないから、撥ねられたのではないと思う。むしろ、たったいま水から上がってきたかのような……この近くには池も川もないはずなんだけど……。
「う……」
訊ねても、眼は虚ろで今にもその場で倒れ込みそうに身体が揺れている。正気づけようと、思わず握った手は、氷のように冷たかった。真冬にこんな格好してるなんて、自殺行為だ。俺は慌てて自分のジャケットを脱ぎ、持っていたハンドタオルでとりあえずその顔を拭いてやった。
近くでよく見ると、胸が無いので男性だろう。そう分かると俺は遠慮なく彼の濡れた着物を脱がせ、冷え切った身体にジャケットを着せ掛けた。着物の下は何故か全裸だったけど、今朝のジャケットはハーフコートに近いから、ジッパーを上げてしまえば大事なところは隠れるからいいということにしよう。
とうとう地面にくずおれた彼の身体を支えながら、俺は救急車を呼んだ。次に、警察に事故を通報。それから、吉井さんに連絡を入れた。グレートデンの伝さんを散歩に連れて行くまで、今日は少し時間がかかりそうだ。
一年で一番短い日、霧の深い冬至。
何でも屋の俺の一日は、ハードなものになりそうだ。
主に、時間の遣り繰り的な意味で。




