2016年9月19日の<俺> 鏡合わせ 後編
次は完結編です。後編だけでは終れませんでした。
「最初はひと粒。それが溶けたので、次はふた粒。噛むということを思い出したのは三粒を口に入れてやった時です。こりこりと噛んで……そこで友人の胃がようやく空腹を思い出したのか、グーッと鳴りました。本人は不思議そうな顔をしていましたが。友人の母には飲めるほどに軟らかいお粥を炊いてもらって、それを匙で根気良く友人の口に運びました」
「食べられるようになったんですね」
他人の話ながら、ほっとした。
「もっと衰弱していたら、どうなっていたか分かりません。でも、友人は間に合いました。あとで散々説教しましたよ。友人のほうが年上だったというのに……」
その時のことを思い出したのか、宇佐見さんは顔を歪めた。子供みたいに唇をへの字にする。
「私はね、悔しかったんです。友人の描く絵が好きだった……同時に、とうてい敵わないと思いました。その絵がね、変わってしまったんです。殺伐として荒れた風景、虚ろな目をした人物、奇妙な動物たち……それでも、それはとても美しい世界でした。同時に、どこかが果てしなく乾いていくような心地のするものでもありました。乾きの果てに朽ち、朽ちてもなお乾くような……」
ふう、と息がこぼれる。
「私はあの頃の友人の絵に、“餓え”を感じました。どれほど満たそうとしても、満たす端から失われるような、そういう終わりの無い餓えです。その果てに見える世界が、そんなに美しかったのかと──」
今でも不思議に思います、と宇佐見さんは言った。
「元気を取り戻した友人は、その時期に描いた絵を全て処分してしまいました。どうしてかと訊ねると、気持ちが悪いというのです。見るのも悍ましく、不気味で仕方が無いと。本人にはそれを描いた記憶が一切無いというのです。……。不思議な話です」
「覚えていないというのは、何やら恐ろしいですね。自動書記ならぬ、自動描画……?」
俺が間抜けなことを言うと、宇佐見さんはちょっと笑った。
「友人にとってはただの不可解な出来事だったようですが、私はそこから教訓を得ました。人間、食べなければろくなことにならない、と」
当たり前のことだと思うでしょう? とお道化た表情になってみせる。
「でもね、当たり前すぎて、そのことを軽く考えがちだと思うんです。空腹だが時間が無い。後で食べよう──多分、そういうことがきっかけになるんでしょう」
誰にでもよくある話です、と宇佐見さんは言った。──うん、確かに。
「後で食べようと思っていたけど、空腹を感じなくなったから、次に思い出したら食べよう。そういうことの繰り返しで、麻痺していってしまう。普通は、ああ、もうこんな時間かと、時間の経過から我に帰りますが、そのまま本当に空腹を忘れてしまうことがある。そんなことを続けていると、身体がもたなくなってくる。すると、心は風船のようにふわりと浮き上がり、どこかへ離れて行こうとする──」
身体を見捨てるかのように。そう言う宇佐見さんの目は真剣だった。
「身体から浮き上がってしまった心が見るのが、友人の見たような世界なんでしょう。終りの無い餓え、永遠に満たされない渇き、乾いて朽ちて、なお乾く、そんな世界……」
恐ろしいとは思いませんか? そう訊かれて、俺はぶんぶん頷いた。昔テレビで見た、砂漠で野ざらしになってるラクダと人の頭蓋骨を思い出したんだ。埋もれては風に暴かれ、また砂に埋められて……。
怖っ!
「我々のように絵を描く仕事をしていると、そういう世界を覗くことこそが画家にとって必要なのだ、という人もいます。ですが、私はそうは思いません。健康な身体を損ねてまでそんな世界を見て、戻って来れなかったらどうします? 絵に描けなければただの骨折り損ですよ。正常な判断力を失うのですから、絵筆すら持てなくなるかもしれません。そのまま心を喪って、身体だけしか残らないかもしれません」
そんなことになったら、家族を心配させるどころか、ただの重荷にしかなりません、と宇佐見さんは言葉に力を入れる。
「心を飛ばせた友人を見て、私はしみじみそう思いました。自分は天涯孤独だから誰にも迷惑をかけない、などと言う人もいますが、そんなことありません。自分に迷惑をかけているんです。自縄自縛というのですよ、そういうのは。つまり、自由では無い。画家は常に自由でいなくては」




